名前


「いい加減、名前で呼び合わねえ? 俺たちコッ、恋人なんだし」
「はあ、名前」
 シチューの皿を置いたところで、ロナルドが急にそんなことを話し出した。後ろで結んでいたエプロンの紐を解きながら、ロナルドの言葉をぼんやりと繰り返す。ロナルドもまた「そう、名前」とコクコク頷いた。
「恋人になってからまあざっと? 二ヶ月と一週間と二日と五時間くらい? 経ってるわけだし?」
 こまかっ。細すぎてきもい。これでさりげなく言っているつもりなのだろうか。うん、きっとそうなんだろうな。忙しなく瞬きを繰り返しているロナルドを見れば、いつどのタイミングでどうやって切り出すかをずっと悩んでいたのだろうということは、容易に察しがついてしまった。微笑ましくてちょっと笑えば、ロナルドは「なんだよ」とどこか悔しげに、口をへの字にした。
「別に? ただ恋人って単語さえスムーズに言えないロナルドくんに果たしてそんなことできるのかな〜って思っただけだよ」
「うっ」
 無理でしょうの意味を込めてそう言えば、ロナルドは案の定唸り声をあげた。ほらね。クスクス笑いながら、脱いだエプロンをソファに掛けて振り向く。と、ロナルドがすぐ目の前に立っていた。思わぬ距離に驚いて、思わず彼の影の中で身を竦める。
「びっくりした、なに?」
「や、だから……名前で呼ばねって話……」
「……え、その話まだ続いてたの」
「まだ始まってもないだろ!」
「えー……」
「えーって……えぇ……?」
 ショックを受けたような声を上げつつも、ロナルドはグッと眉根を寄せ、また一歩、距離を詰めてきた。どう躱そうかと内心で悩みながら、素知らぬ顔をして腕を組む。
「いや、なんか随分こだわるなぁって思って」
「こだ、そりゃ、だってそんなん……な、なんだよ、お前はイヤなのかよ?」
「イヤっていうか、いや……無理でしょ」
「無理ってなに、なんで」
 間髪入れずに切り返され、私もつい言葉に詰まる。うーん、なんて適当に零しながら、誤魔化すために視線を落とす。その先で、私を囲うようにロナルドがソファの背もたれへ手をついていることに気が付いてしまった。両側を太い腕で封じられ、いつの間にか逃げ場がなくなっている。
「なあ、なんでだよ?」
「ぇ、あ……それ、は……」
 辿々しく答えながら、私は自然な動きで少し背を反らし、今できる限りの距離を作った。ついでに顔も少し背けておく。
「あの、ほら……ろ、ロナルドに私の名前呼ぶなんて無理でしょ?」
 恋人になったのは二ヶ月前だけど、友人としてならその何倍もの期間を過ごしてきている。だから今のハンターネームの呼び合いがお互い一番楽だし、なにより、名前で呼ぶなんて、そんなの――。
「“――”」
 ごちゃごちゃ御託を並べる思考を止めるように、穏やかに耳朶を打たれる。彼の口からでるはずがないと思い込んでいた音の並びに驚いて、私は顔を上げてしまった。その先でかち合った、熱が燻る重たい青に、思わず息を呑んでしまう。こんな色を見たのは、初めてだった。
「“――”」
 二回目となる音の粒も、少しの吃りもなく滑らかなもので、私は声もなく口を戦慄かせることしかできなかった。そんな私の頬に、ロナルドが熱い手を添えてくる。ざらりとした硬い手のひらの感触に、思わず身体がびくりと震えた。ロナルドが頭を下げると、落ちてきた銀髪が額を淡く擽る。
「俺は呼べるぜ、名前。だって、ずっと前から呼びたいって思ってたんだ。だから……なあ、だからさ、呼んでくれよ」
 乞い願うように、再び名を紡がれる。
「頼む、なあ、呼んで」
 耳に触れるか触れないかで、切なさを孕んで甘く掠れた声が、繰り返し名前を吹き込んでくる。頬をしっかり包まれているせいで、どれだけ身を捩っても、熱が離れてくれなかった。
「ぁ、や、ロナ、」
「違う、それやだ。な、呼んでくれよ」
「う、ぅっ……!」
 吐息混じりで名前を囁かれるごとに脈が早くなり、頬は燃えているみたいに火照りを増していく。もう頭がおかしくなりそうだった。意味もない引き攣り声が、意思に反してポロポロと零れていく。
 だって、だってしょうがないじゃん。こんなに近いのも、こんな声色も、はじめてなんだもん。それにロナルド、こんなことできる人じゃないじゃん。違ったはずじゃん。全然、だって、ロナルドはだってもっとウブで慣れてなくて――私と同じで、恋人の名前なんて呼べるはずない、のに。
「っ、も、もう、や……」
 耐えきれなくなって、ロナルドの胸を弱々しく押す。情けないけれど、今出せる全力がこれだった。そうすると、私にとっては幸いなことに、名前を呼ぶ声がぷつりと止まった。安堵しながら、ちらりと瞳だけでロナルドを窺う。
「……ロナルド?」
 ロナルドは、なぜか顔を真っ赤にして私を見下ろしていた。様子のおかしさに呼びかける。一瞬また呼び方を咎められるだろうかと思ったが、そんなことはなく、彼はただ「あ、」と、か細く落としただけだった。そんなロナルドの口が、やがて笑い出す直前のように、むず、と動く。
「――あの」
 意を決したような面持ちで、ロナルドは口を開いた。
「名前は、その、まだ呼ばなくていいから、さ」
 ポツポツと押し出された言葉に私がホッとした――のも束の間。胸に押し付けていた手をするりと絡めとられ、腰に手を回さ――えっ? 腰に手、えっ? 混乱している合間に引き寄せられ、元から近かった距離がさらに近くなる。額が合わさり、再び彼の熱を間近に感じた。ヒッ、な、なぜ、なに――。
「き、キスしても、いいですか」
「えっ、キッ……?!」
 合わせられた額が、強請るようにすり、と控えめに動く。銀の睫毛が甘えるようにぱちぱちと上下し、溶けた青をチラつかせた。
 こんな、こんな近くまできたくせに、ここで私に返事を委ねるのか。

 律儀で、そして残酷な恋人に、私はとうとう顔を歪めてしまった。だってもう、色々と限界で。

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