夕暮れ時のきみ


 閉館時間も目前となった時刻に、私は書架整理のため、書架と書架の間を歩き、館内を回っていた。さて次の書架へ、と何気なく歩を進めたが、私はそこで広がっていた光景に、さっくりと呼吸を射止められてしまった。
 書架と書架の間の通路には、一人の青年が立っていた。青年が、自身の顔の倍以上はある大きな本を胸に抱え、静かに視線を傾けている。事実としては、ただそれだけだ。しかしその空間だけが、たしかに時間ごと切り取られていた。書架などは私にとってはとっくに見慣れた、なんてことのない景色であるはずなのに、それでも私はすっかり目を奪われてしまった。
 通路奥にある西窓から射し込む、夏特有の燃えるような茜色が、青年を丸々と包み込んでいた。そうして斜陽が、丁寧に磨きあげられた真珠を思わせる色をした青年の髪へ淡く覆いかぶさったお陰で、通路一帯には、季節外れの唐紅が艶めいていた。塗り広げられた鮮烈な朱は、太陽を直視するよりも目に眩しく、そして痛く――けれど、ずっと見ていたいと、目が焼けたって構わないと感じるほどに美しかった。一秒にも満たない瞬きすら惜しく感じるほどに、目を逸らし難い。視界に映る光景が、様々な種類の赤色で描かれた、一つの大きな油絵のようだと思った。
 私はしばらくそうして、業務も時間も忘れ、目の前の絵画のような美しさに見惚れて、その場に立ち尽くしてしまった。しかし誰かの靴音がしたことで、ハッと我に返る。慌てて近くの掛け時計に目をやれば、閉館の時間が刻一刻と迫っていた。物語の挿絵の中に入り込むようで気が引けたけれど、私は勇気をだして青年へと近付く。距離が短くなるごとに、それまでは影となっていた青年の精悍な顔立ちがはっきりしていくので、なおさら緊張が高まっていく。束となった睫毛や、すっと通った鼻。凹凸のはっきりした唇。横顔だけでも、職人が丹精込めて造りあげた彫刻のように整った相貌をしているであろうことが、十分に分かった。
「……あの、お客様」
 上擦った声は、それはもう綺麗に無視された。無視というより、純粋に聞こえていなかったのだろう。奥行のある深い蒼をした水底のような瞳は、茶色く色褪せたページへと一心に注がれていて、微動だにしない。
「すみません、お客様」
「……えっ? あ、はい……?」
 今度は先程よりも声を張って、青年の顔を少しだけ覗き込むようにして話しかける。その甲斐あって、青年も、今度は反応を示してくれた。集中をみせて仄かに沈んでいた瞳が、透き通るような輝きを宿してこちらへと向く。目が合い声がついてもなおその美しさは変わらないものだから、絵が動き出した、なんて思ってしまった。
「あの、大変申し訳ないのですが、もうすぐ閉館のお時間でして……」
「えっ――うわっ、本当だ……! 俺すっかり読み耽っちゃって、全然……! す、すみません」
「いえ、大丈夫ですよ。最近はこの時間になっても明るいですから」
 夏場は日が落ちるのが遅いから、時間に気が付かない利用者の方も多い。心底申し訳なさそうに眉を下げる青年へ微笑みを向け、「そちら」と、彼が持っていた本を手で示す。
「よろしければ貸出の手続きを行いましょうか?」
「え、ほんとで――あ、でも俺この市に住んでるモンじゃなくて……」
「市外の方でも貸出カードをお作りすることはできますよ。すぐにできますけど、いかがなさいますか?」
 私の提案に、彼は嬉しそうに目を大きくさせる。けれど思い出したようにちらりと時計へ視線をやると、悩ましげに眉根を寄せた。数度の瞬きの末、青年は「いや」と首を横に振る。
「大丈夫です、また来るんで。ありがとうございます」
 青年はそう言って大きな本を手早く棚へ押し込むと、ぺこりと頭を下げ、大股で書架から飛び出していった。呼び止める間もなく小さくなってしまった紺色のジャケットをぽかんと見送り、彼が戻した本へと視線を移す。吸血鬼に関する文献を読んでいたらしい。借りる人はそうそういない、かなり昔の蔵書だ。それでも絶対誰も借りないとは限らないし、市外の方なら、なおさら借りていけばよかったのに。
 なんて会ったばかりの一利用者の方へ肩入れしている自分に気付き、ひとり苦笑する。だって、あんないいものを見せてもらっちゃったのだから、贔屓の一つもしたくなってしまうのは仕方ないでしょう。あの光景は、私の生涯で一二を争うほどに劇的な一枚だったのだから。
 ◆
 また来るという言葉の通り、青年は、不定期ではあるが足繁く図書館へと訪れた。昼過ぎに現れては、例の蔵書がある書架の通路で、毎回立ったまま分厚い本を抱えて読み込み、閉館時間を迎えて。
「お客様」
「スミマセン!」
 こんなお決まりの流れが、私は少しだけ、楽しみになっていた。声をかけた途端、青年はやや食い気味で謝罪を口にし、ピシリと背筋を伸ばした。大丈夫ですよといつもの通りに笑えば、彼もぎこちなくだが、相好を崩してはにかむ。彼は最初以降、一度の声掛けで反応してくれるようになっていた。
「その本、結局一度も借りないで読み終わりましたね」
「え、あ……たしかに」
 私がそう言うと、彼は一度同意したが、なぜか慌てたように「いや!」と口を開いた。
「まだ! 全然! 読み足りないっていうか! もう暗記するくらい読みに来なきゃっていうか?! だから、だから――」
「あ、なら、カード作られますか?」
「えっ?! い、いや、えっと……」
 今日こそついに? となんとなくソワソワしてしまった。が、彼は「また来ます」と小さな声で言って、居心地悪そうに俯いてしまった。圧を感じさせてしまっただろうか。本当に他意があったわけじゃないのだけど、と反省しつつ、私は「お待ちしております」と返した。
 ◆
 所用で新横浜に行くことになった。よく来るあの青年が『ロナルド様』である――ということを、私はつい最近に知った。ロナルドウォー戦記はもちろんうちの図書館にも全巻置いてあるし、私も読んだことはあった。けれど、小説内で描写される自信に満ち溢れた勝気な彼と、普段お話する穏やかで控えめな彼とが、結びつかなかったのだ。職員に「そういえばあの人ってさ」と教えられ、やっと気が付いた。
 とにかく、もしかしたら、退治人として活躍する彼を見ることができたりするだろうか、という一抹の期待を込めて、私は新横浜の街を歩いていた。
 無事に用事も済ませ、道先でふと顔を動かしたところで、道路の向こうに白銀の頭を見つけた。赤い退治人衣装で、普段と装いがまったく違うけれど、あれはたしかにロナルドさんだ。今は夕暮れ時だし、これからお仕事になるのだろうか。なんて考えながら向こうへ渡る横断歩道を探しかけ、はたと動きを止める。だってなぜなら、ここは図書館ではなかったからだ。
 そう。ここは、いつもの西陽の射す書架の通路ではない。今の私は図書館の職員ではないし、彼も利用者ではない。だから、今の私に彼へ声をかける理由は、一つもなかった。
 そんな当たり前の現実が、自然と顔を俯かせていた。……まあ、そう、うん。よく話すせいで勘違いしかけていたけれど、私たちは別に、友達というわけではないのだった。調子に乗って話しかけて、ストーカーと思われても悲しいし。やっぱり声をかけるのはやめよう。
 そう思い直すも、それでも名残惜しくなってしまい、最後に一目、と視線を上げる。上げたところで、タイミングがいいのか悪いのか、彼と視線が絡み合ってしまった。勝手に決まりが悪くなってぎょっとする私に反して、彼はそのかんばせにパッと花を咲かせた。腕を大きく動かして、きょろきょろと辺りを見回す。それから歩道の方へと走っていったかと思えば、あっという間に私の元へとやってきてしまった。
「こ、こんにちは!」
「こんにちは……」
 頬を上気させた彼の勢いに押され、私も挨拶を返す。ニコニコと機嫌よく笑う彼は、私の動揺にこれっぽっちも気が付いていなさそうだった。
「え、え、なんで新横浜に?……アッ大丈夫ですか?! へんた……妙なヤツらに絡まれたりしませんでした?! やきゅ、じゃなくて、えっと……ジャンケン狂いのハゲとか」
「え? だ、大丈夫です」
 何を言ってるんだろうと思ったのがそのまま声にも顔にもでてしまったが、彼は「よかった!」と安心したように眦を緩めた。その無邪気な様子に、先程抱いた遠慮も解れていく。私もつい、気が緩んでしまった。
「ご心配ありがとうございます。……お仕事、お疲れ様です、ロナルドさん」
「ありが、……えっ。お、俺のこと知ってたんですか」
「あ、実はその、つい最近知って」
 ああ、やっぱりストーカーっぽい? でも、かと言って、『ロナルド様』は新進気鋭の人気退治人の人気作家さんだ。まったく知らないというのも、失礼になる気がする。……いや、これは今更なのだろうか。
 私が悶々と悩んでいると、ロナルドさんが「あの」と躊躇いがちに話しかけてくる。
「ど、どうですか、俺」
 投げられた質問の意図が分からずぽかんとする。
「いや、えっと……あのほら、退治人の俺って会うの初めて、じゃないですか。だから、その……ど、どうかなーって!」
 どうかなーって、と、言われましても。
 彼の言うことはいまいち要領を得なくて、正直首を傾げたくなった。だって会ったのはさっきの今だから、別に彼の活躍を見たわけではない。それでも彼は照れ臭そうにちらちらこちらを窺っていたので、私は率直な感想を述べることにした。
「その衣装、お似合いです。やっぱりロナルドさんって、赤がよく似合いますよね」
「あ、へへ、ありがとうございます……。……あの、やっぱりって……?」
「……え、あっ」
 自分が言わなくていいことまで言ってしまったことに、彼直々の指摘が入ったことで気が付いた。どうしようと迷いながらも、うまく誤魔化す言葉も思い浮かばなかったので、「えっと」と顔を背けながら口にする。
「ろ、ロナルドさんとお話するときって、夕陽が――あっあのほら、奥の窓からの、あれ……――が、いつもすごくき、綺麗、なので。だからその、私の中で、そういう印象が……ありまして……」
「えっ?!」
 き、気持ち悪かっただろうか。でも、でも、でもあれは、百人が見たらきっと千人が美しいって思う光景だと、私は確信している、し。
 しかしそうは思っても、やっぱりさすがに本人へそれを伝えるのは面映ゆすぎた。気まずくて落ち着かない気持ちでいると、ロナルドさんは、戸惑いをあらわすように忙しなく瞬きをした。
「え、と……そ、それは、あなたでは……?」
「え?」
「や、だって、あの……いつも俺の後ろから射し込んだ夕陽に、照らされてるん、で……」
 たしかに、位置的には私も多少茜色を被っているかもしれない。逆光だから眩しいなとは、時折感じたりもする。けれどいつもロナルドさん越しになるから、そんな照らされるというほどではない気が……。
 納得できないでいれば、ロナルドさんは「え、えぇ?!」と、分かんないかな?! という顔をした。
「だ、だから俺はあなたには夕焼けが似合うなって思ってて、話しかけてもらえるの、いつも楽しみにし、て、た……、……ぁ……」
 絞り出された掠れ声が、中途半端に途切れた台詞を締める。言われたことを呆然と処理しながら、口を開きっぱなしにしていると、視界の端で、ちかりと夕陽がガラスに反射した。ついそちらへ視線をやる。茜色に染まったガラスの中に、真っ赤な顔した大人二人の顔が映っていた。

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