ナイトメアの融点


※続きというより(以下略)





 “今まで、ありがとう”

 柔らかいソプラノが、愛おしげに奏でられる。見たこともないくらい美しい微笑みを湛えた彼が、覚悟を持った足取りで闇へと向かった。そうやって彼が身を投じる先が、もう二度と私の手なんかはとても届かない場所だと、私は知っていた。なぜならこれはもう何十、何百回と見た光景だった。
 それなのに、私の体は微動だにしてくれない。縋り付きたいのに指先はぴくりともしない。『待って』と、『だめだ』と止めたいのに、口は間抜けにもぽかんと開いたままで、少しの声を出すことも出来ない。これから何が起こるかはいやになるほど理解しているくせに、白々しくも分からないふりをし続けることしかできない。心の中では、こんなに叫んでいるのに。絶望と諦念が一緒くたになった涙が、音もなく頬を滑っていく。

 秋の夕陽を浴びた小麦みたいな金髪が、軽やかにそよぐ。
 なんでもないさと笑うように、泣き濡れる私を元気づけるように、ひらりと手が振られる。

 そうして幾度も握り、引かれ、互いの存在を確かめるように結ばれあった手が――手さえも、やがて見えなくなった。

 繰り広げられた喪失など知らないとばかりに静謐とした室内で、私は一人立ち尽くしていた。ばたばたと涙を流し続けたまま、はくりと口が震える。乾ききった喉を外気が撫でる。ようやく声が出せる。今更届かないと分かっていて、私はそれでも息を吸った。

「――“セツ“」

 この宇宙ではもう私しか知らない名前を紡ぐ感覚で目が覚めた。視界に映るのはグリーゼ革命軍拠点の、与えられた一室の天井。すっかり見慣れた自室だ。ぼんやりと目元に触れると、ほんの僅かに湿っている。寝起き特有の倦怠感に包まれながら、私はのっそり身を起こして重たい溜息を吐き出した。最悪の目覚めだ。もう、慣れてしまったけれど。

「(……今日は“こっち”だったか)」

 なんて取り留めのないことを考えながら、私は気だるさを押し込んで身支度の準備を始めた。


   ✲✲✲


 “とあるループ”を終えてから、私は決まった夢を見るようになっていた。その夢は自らの卑怯さを改めて知らしめるような、まあ言ってしまえば悪夢というもので、見て気分がよくなるものでは決してなかった。そのためループ中の時分は極力『眠らない』という手法をとることで夢を回避してきていた。悪夢に種類が増えたと――『セツとの別離』が加わったと気付いたのは、ループが終わってからだ。私は自分の心を守るために、やっぱり眠らないことを選んだ。
 ……が、グリーゼに来てからはそうもいかなくなってしまった。ラキオだ。彼が研究やらで徹夜するのは実はごく稀なことで、彼は基本的には規則正しい生活を送っていた。そんな彼が私の乱れた睡眠に目をつけるのはある種自明の理であった。

「僕の下で働こうともあろう者がそんなだらしない生活していていいと思ってるわけ? ああいや、勘違いしないでくれ給え。別に君が消えようと僕の完璧な計画にズレなンか生じない。君如きの働き一つでパァになるような杜撰な計画なンて立てちゃいないさ。そこは安心してくれていいとも。けどだからって腑抜けてもいいとは僕は一言も言ってないンだけど? 君なンて僕の手足にすらなり得ないけど、それでも与えられた役目は最低限果たしてもらいたいものだね。その程度の責任感もない知能の人間と共に目標を志しているだなンて考えるだけで僕の名誉の瑕疵になる」

 おおよそこんなようなことを言われた。
 まあ簡単に要約すれば、『寝ろ』である。私は地球からジナ経由で『やさしいこくご〜一年生〜』という本を調達し、ラキオに差し入れした。寝ろと言われた時の倍の速さ倍の量で罵られた。ほんとよく喋るなあと思った。


 兎にも角にも、私は一先ずラキオ指揮官の言うことを大人しく従うことにした。回りくどいにも程があったがしかし彼なりに私を案じてくれているのは理解できた。それに、現状はなんとかなっていてもいずれ任務に影響をだしかねない。末端ではあれど国の未来を背負っているのだから、失敗は許されない。ラキオはああ言っていたけど、そもそも失敗なんてない方がいいには違いないのだ。

 悪夢は、別に欠かさず見るというわけじゃない。何事もなく目覚めることだってある。けれど自らの無力さに打ちのめされることしかできない夢たちには、毎回体力気力を酷く削られる。だから頻度が多くなくとも、眠るという行為へ恐怖を植え付けるには充分だった。


   ✲✲✲


 高く裏返った、それでも必死で絞り出された悲鳴にドクンと心臓が跳ねる。糸で操られたように体が勝手に動き出し、声の元へと向かっていく。辿り着いた先では、助けを求めて限界まで伸ばされた白い指先が震えていた。

『ああっ、助けて、ください……!』

 私へ焦点を定めた紫の瞳が、恐怖と痛みを一心に訴える。好きな人が、苦しんでいる。助けを求めて泣いている。私は、少し近付けば届く距離にいた。彼の手を掴むことは、容易なはずだった。
 なのに私の体は動かなかった。足は床に糊付けされたように張り付いたままで、極彩色の粘菌に侵食されていく彼をただ凝視するばかりで――そんな間にも、彼は喘ぎ苦しんでいた。今すぐあの手を掴めば、命は助かるかもしれない。もしかしたら助けられるかもしれない――否、助けられたかもしれないのに! ああ、ああ、どうして――どうして私は動けなかった、どうして私はこの時動かなかったんだ!

 どれほど悔やんだところで過去も夢も変えられない。いつものようになにも出来ないでいれば、沙明に腕を引かれ、凍りついていた体はそこでやっと動き出した。私たちは迫り来る粘菌から逃れるため、彼に背を向け離れていく。

『あアァ……!』


 誰かにドンと強く背中を押されたような感覚で、ハッと意識が覚醒する。激しい動悸がしていて、心臓の音が耳の横でしているかのように煩かった。胸元を抑えながら起き上がり、荒くなった呼吸を整える。


 これがもうひとつの――セツとの最後とは別の悪夢。粘菌に襲われるレムナンを見捨てて逃げた時の光景だった。あの時の彼は私が到着した時点で下半身を侵食されていたし、一緒に逃げることは不可能だったのかもしれない。仕方なかったのかもしれない。けれど彼を見捨てたという事実は、私の心をもう長いこと蝕んでいた。


 怖々カーテンを開くと窓の外は暗く沈黙していて、陽が昇る気配すら窺えない。端末を確認すれば、眠ってからまだ一時間程度しか経っていなかった。
 これからまた一眠りしなければと思うと気が重くなる。もう目は冴えきっていて、眠れる気がとてもしなかった。ループ中であれば話し合い中の立ち回りやLeviが話し相手になってくれて、眠らずともあっという間に夜は更けていた。けれど今の私に一人の夜は長すぎる。

 ふと寝る前にラキオから事務仕事を受けたことを思い出す。それをやってしまおうかと考えデータを開きかけるが、やっぱりやめた。夜もらった仕事を朝渡せば寝なかったことがバレてしまう。くどくどとお説教されるのは避けたかった。かといって終わった仕事をまだやっていないフリをするというのもまた座りが悪い。……しかしとはいえやることがない、暇だ。

「(……レムナンは、なにしてるかな)」

 何気なく思い起こされたのは、同じ基地内で寝泊まりしている想い人のことだった。
 もう日付は変わっているし、さすがに寝ているだろうか。でもゲームに熱中していて、日付が変わったことすら気付いていないかもしれない。目元に濃いクマを携えてしぱしぱと朝日を眩しそうにするレムナンの姿は、度々見受けられていた。
 私と違って眠れないのではなく眠らないレムナンだが、健康優良児であるラキオにとってはどちらも同じことで、二人揃ってラキオから不規則な生活に苦言を呈されることはしばしばだった。

 自室にて機械いじりの時みたく食い入るように画面を見つめるレムナンの姿はたやすく想像できて、少しだけ笑う。人のことをいえた義理じゃないのは重々承知しているが、健康のことを思えばもう少しラキオを見習ってほしいところだ。しかしそれでも思うがままに趣味を謳歌できている彼はやっぱり微笑ましく愛おしくて、私はラキオほど強くでれない。だってループ中のレムナンは――。

「っ……!」

 そこまで考えて、思考の片隅に流れていたはずの悪夢を再び思い出してしまった。吐き気のような感覚が込み上げてきて、パッと反射で口元を覆う。数拍そうして固まってから、私はゆっくり脱力した。瞬間的に身体を蝕んだ緊張は治まったが、不快感は消えない。引いた寝汗のせいで、薄ら寒い感覚で肌も粟立っていた。
 気分転換も兼ねて、水分補給でもしにいこう。まだ少し早い鼓動を聞きながらそう決めて、食堂へ向かうため靴に足を通し、薄暗い通路を進む。音のない夜の廊下だというのに、夢で聞いたか細い声が見捨てた私を責めるように鼓膜にこびり付いていて、気持ちが落ち着かなかった。



 お腹でも満たせば多少は眠ることができるだろうか。
 レモン水を飲みながら、並ぶフードプリンターをぼんやり眺める。ここ、革命軍基地の食堂には、一通りのフードプリンターが揃っていた。
 これで作られた物を初めて食べた時は驚いたものだ。初めて口にした時の衝撃を、しみじみと思い出す。なにせ、とても美味しかった。D.Q.O.の食事が、その……アレに思えてしまうほど。船の名誉のため、具体的にどうは言わないけれど。
 元々記憶喪失だった私にとってはあの船で提供されるフードプリンターの食事が普通だったのだが、しげみち達が散々不平不満を垂れていた理由が理解出来てしまった。ループの最中は船の食事に肯定的だったレムナンでさえ「まあ、あの船のは少し……年代物のやつでしたから」と苦笑していた。つまり『普通のフードプリンターは普通に美味しい』、ということらしい。グリーゼに来てから更新された私の記録だ。

 こうしたフードプリンターがある通り、グリーゼにも食事を好む者――所謂“イートフェチ”は一定数存在している。とりわけ、革命を志すこのグループには、そういった嗜好の人間が特に多いようだった。「こンなことで士気が下がるのもくだらないしね」というのが基地の備品を発注したラキオの主張だが、そういうところが彼の憎めないところだと私は思う。まあかわいげはゼロだが。

「……あ、」

 突として食堂で響いた声に、びくりと手が跳ねる。危うくラーメンの生成ボタンを押すところだった。声がした方、食堂の入口を見れば、レムナンが立っていた。レムナンは「すみません」と驚かせたことに対し気まずげに謝罪しながら、歩み寄ってくる。

「明かりが付いてたので、誰かいるかとは思ってたんですけど……“――”さん、だったんですね」
「うん、少し目が覚めて」

 そうですか、と彼がふわりと微笑む。最近の彼は、こうして分かりやすく心を許してくれていた。まるで告白する前に戻ったような態度だ。
 彼からの信頼は普段なら嬉しく思えるものだけれど、あの夢を見た直後である今はどうにも痛い。私は些か罰が悪いように感じて、さりげなく顔を背けた。

「レムナンはもしかしてゲームしてた?」
「あの、えっと……はい。……ラキオさんには、内緒にしてください」
「あはは、もちろん」

 レムナンはラフな私服姿で、黒縁の眼鏡を掛けていた。そこで自分の格好を思い出して、血の気がすうっと引く。よく考えたら、私今パジャマだ。髪も簡単に纏めてはいるけどボサボサな気がする。なによりすっぴんだし……。誰かに、ましてやレムナンに会うなんて思っていなかった。なんであれ、これ以上無様を晒す前に早いとこ部屋へ戻らなくては。

「僕、少し小腹が空いて……“――”さんも、なにか食べるんですか?」
「うーん、悩んでたんだけど、やっぱりやめようかな。もう夜中だし……」

 もっともらしい理屈を口にしながら、メニュー欄を眺めるふりをして、顔を見られないよう俯く。しかしなぜかレムナンは追いかけるようにこちらを覗き込んできた。いつになく近い顔に息を止めて首を引く。つぶさに見つめてくる瞳は夢とは違って懇願めいた色はない。けれど、どうしても夢の彼が被ってしまい、勝手に心臓がイヤな軋み方をした。

「な、なに?」
「……大丈夫、ですか?」
「え?」
「顔色が良くない、ような……」

 予想だにしていない言葉だったのでどきりとする。けれどその内容には腑に落ちた。なにせあんなに酷い夢だ。疲弊が顔に残っていてもおかしくはない。ただ、追求されたくはなかった。特に彼には。

「そうかな。そんなことないと思うけど」

 レムナンから距離を取りつつ、頬に手を添えて、不自然にならないよう顔を隠す。ついでに否定を口にして、やんわりと拒絶した。

「、……いえ、そんなことあります」

 硬い声音で食い下がられて瞠目する。思わず顔を上げれば、レムナンは声のとおりな厳しい表情を浮かべていた。

「……もしかして、ですけど……夢見がよくなかった、とか……」
「……!」

 図星を突かれて咄嗟に返事ができなかったが、態度で分かったのだろう。レムナンは僅かに眉根を寄せたまま、「やっぱり……」と呟いた。

「分かるん、です。……だってそういう時、僕にもある、ので……」
「そういう時って……」
「……その、……昔の……嫌なこと、とか……最低だった時のこととかを……今でもたまに、夢で見たり、します……。そういう時、僕も、そんな顔に、なったりするので……」

 わかります、とぎこちなく紡がれてますます驚く。彼の過去を思えば、悪夢を見ることは当然あるだろうと思う。けれどそうした『仄暗い過去がある』と匂わせるうな告白を、今のレムナンにされるとは思っていなかったのだ。居心地の悪さも忘れ、まじまじと彼を見つめてしまう。

「……そう、なんだ」
「はい……」
「……、……そういう時、レムナンはどうしてるの」

 本当は触れてほしくなかったし、話題を広げるつもりもなかった。けれど彼が私を案じて自分の話をしてくれたのが分かったから、私もできる範囲で真摯に対応したかった。そんな思いで尋ねてみる。私の問いに、レムナンは数度緩慢に瞬きをして、考える素振りをみせた。

「僕は……好きなことを、してます。ゲームとか、機械に触ったりとか……あとは、他のこと、を考えたり」
「他のこと……」
「例えば……ラキオさんがパンケーキの生クリーム食べて噎せたこととか」
「ア、ハハ! あったね、そんなこと」

 グリーゼに来たばかりのことだ。思い出して笑うと、レムナンも眦を垂らした。

「ふふ、はい……僕、料理を作るのは初めてで……でも楽しかった、です。……あと、D.Q.O.でのことも、思い出したりします。シピさんがしてくれた猫の話とか、オトメさんの故郷の話とか……ジョナスさんの秘蔵コレクションのこととか」
「秘蔵コレクションのことは忘れた方がいいと思う」
「ステラさんにも同じことを言われました。でも、あれも大切な思い出、なので。みんなでゲーム大会したのも、楽しかったなあ……沙明さんが最下位になって、土下座して……」
「でも結局許されなくて、ジョナスの話に一晩付き合うっていう罰ゲームに合ってたやつね。優勝したのはしげみちだったっけ……あ、コメットが食堂を爆発させたこともあったよね」
「ありましたね。SQさんが犯人探ししようとしたけど、余計混乱したりして……」

 人気のない夜の食堂で声を潜めて話す中に、クスクス笑いが時折まじる。手の中で少し汗ばみ始めたグラスを指で拭いながら、私は懐かしい記憶に口元を綻ばせた。

「――それから、動力室、で、……ぁ、……」
「? ああ、レムナン機械好きだもんね。よく通ってたし。あの船かなり古いし、動力炉とかきっとすごく貴重な型だったんでしょ?」
「ぅ、いや、あの……ぁ、……、……そ、そう……そうです、はい……。……そう、です……」

 口早に肯定しつつも、どうしてか目は逸らされる。おかしな態度に首を傾げたが、レムナンはそれ以上何も言わなかった。レムナンが黙ったので、自然と私も口を噤む。沈黙が流れたが居心地は悪くなくて、むしろ心が安らいで凪いでいく。私とレムナンの呼吸音までもがぴったり重なったような、そんな心地良い静けさだった。

「……どう、ですか?」
「えっ?」
「あの、気……少しは、気、紛れましたか?」
「……あ、うん……。ほんとだ、なんか、ちょっと……平気になってる、気がする……」
「よかった」

 心做しか軽くなっている胸に驚く私へ、レムナンがほっとしたように破顔した。彼は、慣れた手つきで飲料水用のフードプリンターを操作していく。そうして生成されたホットドリンクを、私へと差し出した。マグカップからふんわりと立ち上る甘い香りに、私は目を瞬かせた。

「ホットミルク?」
「はい。温かいもの、は、眠るのにいいって、聞いたことがあって……」
「……そうなんだ」

 知らなかった。そんなこと、調べようとしたことすらなかった。
 恐る恐る口を寄せ、私はマグを傾けた。少し熱くて、けれど滑らかな舌触りをしたまろやかなミルクを嚥下する。内側にじわりと広がるように身体が温まっていく感覚は、スープを飲んだときとも、ココアを飲んだときともまた違った。尖った神経を解すような――涙腺を淡くなぞるような不思議な感覚に、ぎゅうっと呼吸が詰まる。その苦しささえも、今は不愉快とは思えなかった。

「……おいしい」
「よかったです」

 妙な感覚を捩じ伏せなんとか呟くと、同じものを手にしたレムナンが笑った。「あつっ」と零す声に視線を流せば、眼鏡を真っ白に曇らせる彼がいた。レンズ越しに目が合って、レムナンが眉を下げて気恥しげに相好を崩す。無性に胸が苦しくなるほど締め付けられ、また泣きそうになってしまった。

 すぐ隣に、レムナンがいる。ぬくもりを感じる。
 その事実は、手にしているマグより、体を巡るミルクよりも、温かく甘く、やさしいものを感じた。



 レムナンと別れ、自室へと戻る。ベールのような微睡みが全身を包んでいて、布団に潜ることへの躊躇いは覚えなかった。眠ることへの――悪夢への怯懦もない。だって今日はもう、こわい夢はきっと見ないだろうから。

 体の奥にひっそり残るちいさな熱に、耳に留まる「おやすみなさい」という控えめな囁きに、そんな気がしていた。
 

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