泡沫の夜が泣く


「わたしのこと、いや?」
「や、じゃ、ないけど」
 憐れみを誘うように細かく瞬きをしながら、こてんと顔を傾ける。自分でやったくせして、すぐに全然かわいくないなと思った。それと同時に、愚かな返答をしたロナルドに呆れ果てる。バカだな、こういう時に――酔っ払いに組み敷かれてるときなんかに、そんな手心を加えた返事なんてする必要ないのに。
 こうしてまともぶった思考を展開できる程度には、己の痛々しすぎる言動のおかげで、酔いも醒め始めていた。
「ふふ、うれしい」
「ひ、ぅ」
 ……のくせして、体は欲に忠実なものだから、本当に救いようがない。真っ赤になったロナルドの頬に指を滑らせると、たったそれだけで小鳥みたいな鳴き声が零れた。あは、かわいい、かわいいなぁ。
 抵抗がないのをいいことに、私は彼の頬をすりすりと撫で続けた。すっかり桃色となった頬は、お酒なんて一滴も呑んでいないはずなのに、湯たんぽみたいに熱い。尋常じゃない火照り具合が面白くて、伝播する熱が気持ちよくて、むにむにと柔くつつく。ロナルドはあうあう言って私の手の動きに逐一震えながら、やっぱり好き勝手にされていた。ほんと流されやすいやつ。これ以上調子に乗らせないでほしい。
「……じゃあ、さ」
 まあ調子に乗るなとかどの口が案件すぎるし、もうとっくに手遅れなんだけど。
 他人事のように考えながら、ロナルドの顔横に手をついて、徐に身体を倒す。近付いた顔にロナルドがぎょっとしたように目を張ったが、それ以上の身動ぎはしなかった。見た目だけは綺麗なシーツから、しみついた煙草の匂いがほんのりと鼻を衝く。私たちが今いるのは、そんなレベルの安いラブホだった。
「わたしのこと、すき?」
「へっ⁈」
 派手に裏返った声が頭に響いてうるさい。キンとした痛みに顔を顰めると、ロナルドが「あ、ごめ……」と囁いた。なんでお前が謝るんだバカ、とこの短時間でもう何度思ったかしれないことを考えていれば、「そ、れは」とロナルドが控えめに口を動かした。
「あの……すっすすすす、好き、です……けども……!」
「……あは」
 あー、コイツ。コイツほんと。ほんっとコイツってやつは……。呆れすぎてとうとう笑ってしまった。呆れと同じだけ、私は虚しくもなっていた。
 場所はラブホ、時刻は深夜。銀糸を流して青を潤ませる真下の想い人は、どう見たって状況に流されているだけだ。
「わたしもすき」
 でももう、いっか。いや絶対よくないけど。絶対後悔するけど。でもこんなの、またとないチャンスだし。恐らくもう二度と訪れないであろう、千載一遇の。
「――じゃ、シよ」
 誰も止めてくれないのが悪い。
 ロナルドが勘違いさせるようなことを言うから悪い。

 最悪な責任転嫁をしながら、私は彼の服に手をかけた。

   ◆

「酔った勢いで同僚食っちゃったんだけどどうすればいいかな」
「うわ……」
「端的に引かないでください」
 周りに店員さんがいないのを確認してからそう切り出せば、目の前に座るマナーくんは、たちまち端正なお顔を盛大に引き攣らせた。ほんの数秒前まで「相談事したいっていう相手の前で携帯いじってやる〜」と満面の笑みを浮かべていたのがうそのようなドン引き顔をしていた。
「ヤることヤッたら速攻寝落ちた相手を金だけ置いてラブホに残して、しかも以降避け続けてるんだけど、私はもう本当にどうしたらいいかな」
「相談とか全然乗りたくないから詳細に話すの本気でやめてほしい。ていうかなんでその相談相手(被害者)役に俺を選んだわけ……?」
「なにもかもが絵に描いたようなマナー違反だから喜ぶかなって」
「喜ぶわけない。顔見知りのそういう話とか生々しすぎて普通に無理なんだけど」
 喜んだついでに相談乗ってくれたりしないかな、と思ったんだけど、この反応で思い出した、彼は意外と常識人なのだった。常識が分かってないと違反もクソもないもんね……。「ファミレスでする話じゃないだろ……」しみじみ思っているとこれまたごもっともな指摘が入る。返す言葉がなさすぎたのでテーブル脇にあったメニューを見せて一旦濁した。
「あ、ほら白桃パフェだって。食べない? 奢るよ」
「食べない、いらない。帰っていい?」
「あ、続きはマナー君の家でじっくりってこと? ありがたい」
「助けて兄ィ〜!」
「いやほんとに助けてほしい……」
 おめーが言うなやという眼差しを受けたが、私としても切実な思いだった。真剣に悩んでいるので。まあサテツにこんな相談はできませんけど。
 数日前。つまり、泥酔した私がロナルドをラブホに連れ込んだ日。ロナルドは行為が終わったら速攻で寝た。余韻とかピロートークとか一切なかった。重たい成人男性の身体から時間をかけてなんとか這い出し、健やかで幸せそうな寝顔を見て。酒もとっくに抜け、いわゆる賢者タイムに入っていた私を襲った感情は、言うまでもなく罪悪感であった。いやマジでもう死にたいというか殺してくれというか誰か助けてくださいという気持ちしかなかった。有り金全部置いて書き置きもせずその場から逃げてしまうくらい、心の余裕がなくなってしまった。そうして逃げて、ついでに接触も避け続けて早二週間が経とうとしている。謝る機会も完全に逸してしまった気がしている。
 自身のやらかしを思い出して落ち込んでいると、それはもう大きな溜息が耳朶を突く。顔を上げれば、マナー君が腕を組んでこちらを睨んでいた。携帯はテーブルに伏せられている。
「で? 結局アンタはどうしたいわけ」
「え、いやわかんない……どうすればいいと思う?」
「俺が知るか〜。……なに、相手はいやがってたの? それを無理やりってこと?」
「いっっっちおう、あの……合意はあった、はず……多分。でも正直押し切って無理やり流した感は否めない。相手はあの、童貞だったから。基本は私がリードしてたというか、全体の主導権は私にあったというか……」
「マジで聞きたくない」
 げんなりと吐き捨てられた。マナー君ってこんなに低い声だせたんだなと思った。
「じゃあいいじゃん。いっそ付き合っちゃえば?」
「むりむりむりそんなんだって体目当てだと思われるじゃん!」
「アハハ、今更すぎ〜」
 ド正論と冷え切った笑顔に心をぐっさり刺される。相談に乗ってくれる気になってくれたのは非常にありがたいんですけど、あの、もうちょっと歯に衣とか……。と言いたかったけれどマナー君の目が明らかに『そんなこと言える立場か?』と言っていたので大人しく刺されることにした。私はカスです。
「てか秒で寝落ちたロナルドもロナルドで、それはぶっちゃけらしすぎてちょっとウケるな」
「ほんとそ、…………いや、ロナルドの名前なんて私出してないんだけど」
「ロナルドと付き合いたくねェの?」
「待ってねえ、だからロナルドだとは一言も――」
「聞いてるんだけど」
「付き合いたかったです」
 圧に屈して素直に白状すれば、マナー君は「過去形?」と意外そうに目を丸くした。そりゃそうだよと苦笑する。
「だってロナルドが押しに弱いこと分かっててあんなことして……卑怯すぎる、最悪だよほんと。今更どんな顔して好きです≠セの恋人になりたい≠セの言えっていうの……」
 私は深々と息を吐いて、テーブルに肘をついた。手で頭を支えて、陰ったテーブルをじっと見つめる。
「……いや、そりゃロナルドも好きとかなんか言ってたけどさ? いやあんなん絶対その場の雰囲気に流されただけじゃん。分かる、私には分かる……」
 口にしていたらまた当時の虚しさが込み上げてきた。けれど一度口を開いたら、溜まっていた八つ当たりに等しい鬱憤が止まらなくなってしまった。俯きながら、ぶつぶつと、マナー君の反応も気にせず喋り続ける。
「――ていうかやっぱロナルドもロナルドでは? いやほんと、なんで酔っ払いごときにいいようにされちゃうかな……ちゃんと抵抗してよ、あんな大事なこと流されないでよ……ほんとバカ……」
「――バカはお前の方だろ」
 不意打ちで降ってきた第三者の声に驚いて、弾かれたように顔を上げる。二週間ぶりに聞いた声はいつになく剣のある声音だったから、一瞬誰の声か分からなかった。だから私は咄嗟に、声の主を探してしまった、のだけども。
「え、え、え……え? なに、え、なん――は?」
 私の逃げ道を断つように座席横に立ちはだかったロナルドが、ひどく不機嫌そうな顔で、私を見下ろしていた。退治対象を前にしているとき並の冷淡な双眸にヒュッと息を呑む。いや、なん、えっなにどういうこと? 幻覚?
 パニックに陥りながらも相談相手へ視線を投げれば、マナー君がひらりと手を振った。その手に収まる携帯には、『通話中』となった画面。……は? 『通話中』となった画面? ぎこちなくロナルドの手元へと瞳を動かす。皮手袋をした手には、セロリカラーの携帯が握り締められていて、それはつまり、つまり――。
 アイデアロールに成功してしまった。言葉を失って愕然として口を震わせる私へ、吸血鬼マナー違反は、今日一愉快げな様子で赤い瞳を細くした。
「こっそり電話を繋げて相談内容を本人にバラしてやる〜」
「……さ、最低! 最低最低最低‼」
 感情に任せて立ち上がる。どうしてそんなひどいことができるんですか⁈ 信じられない! あんまりすぎるマナー違反に、文句で頭が埋め尽くされる。何か言ってやりたくて口を開いたが、突然横から手首を掴まれた。痛いくらいの力に身を竦めていれば、やっぱり強い力でそのまま手を引かれた。
「電話ありがとな。お礼は今度改めてするから」
 マナー君は携帯を操作したまま、ロナルドの方を見ずにしっしと犬でも追い払うような仕草で、ぞんざいに片手を振った。それに従うようにロナルドがさっさと歩き出すので、必然的に私の足も動く。いや待って、だいぶ色々もう無理なんですけど。
「ろ、ロナルド、あの」
 無視されて、たったそれだけで狼狽する。意図的に無視なんてするような人じゃないし、されたことはなかった。私の知ってるロナルドは、いつだってこちらに目線を合わせて話を聞いてくれた、のに。

 頑なな態度も、振り払えない手の強さも、なんだかまるで知らない人のようだった。



 どれだけ声をかけても歩調も手の力も緩めなかったロナルドだったが、人気のない路地裏まで来てようやく立ち止まった。依然として手は掴まれたままだったので、離してくれないかと、私がお願いしようとした時だった。
「ッ……」
 ぐるりと視界が回り、背中に走った強い衝撃で息が詰まる。そうして気が付いた時には、私は手を頭上あたりで一纏めにされ、壁に押さえつけられていた。
「なにが分かるんだよ」
 感情を無理して抑え込んだような、不気味なほどに平坦な声で問いかけられる。
「たしかに俺は流されやすいし、チョロいし、すぐ騙されるし、信用ないんだろうけど」
 そこまで言ってないと言い訳したくなったが、鋭くこちらを射竦める眼光に押し黙る。重たい青の瞳の奥には、冷たい怒気がたしかに揺らいでいた。明らかに怒っているロナルドが怖くて、私はただ口を噤んで言葉の続きを待った。
「でも俺は素面のお前のことだって、こうして簡単に抑え込めるんだぜ」
 そう言ってロナルドは、証明するように私の手を壁へとますます押し付けた。骨が軋む痛みに呻くと、ほんの少し力が弱くなる。厳しい表情のロナルドが顔を近付けると濃い煙草の香りが漂ってきて、あの夜を思い出して胸がざわめいた。
「そんなことも知らなかったお前が、なにが分かるっていうんだよ」
 心臓に食い込むようなザラついた低い声が、ギリギリと絞り出される。私が喋れないでいると、ロナルドが唇をきつく噛み締めた。
「おまえ、だったから」
「え……?」
 掠れた囁き声は、泣いているときのように揺れていた。思わず尋ね返すと、形のいい眉が顰められる。
「酔っ払いごとき≠ノいいようにされたりしねェよ」
 手首に触れている彼の手が、異様に冷えていることにやっと気が付く。手への拘束はいつの間にか形だけのものになっていて――まるで拒絶を恐れているかのような、そんな弱々しい力加減で。普段ゴリラだなんだと揶揄されている男が、そんな、本当に五歳みたいな強さで、私なんかの手首に縋りついていた。
「――好きだ、とか」
 引き攣ったようなか細い呼吸音が、鼓膜を揺らす。
「そんな大事なこと、その場の雰囲気だけで言えるわけねェだろ」
 苦しそうに青い海を波立たせながら、ロナルドは、そう呟いた。
 

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