ドラ2を怒る


 だって、以外に思うことがない。
 中身が見た目に引き摺られているのかもしれない。
 恋人の影の中で小さく縮こまりながら、ドラルクはそんなことを考えながら、意味もなく袖口をいじって、皺になるほど握り締めた。
 だって、喜んでくれるかと思ったのだ。
 記憶の中の父は、自分がなにをしてもすごいすごいと大層はしゃぎ、ひょいとたかーく抱き上げてはクルクル回り、「ドラルクはすごいね神童だね」と頬擦りをして褒めてくれたから。だから、この子もきっと笑ってくれるだろうと。花のようにかんばせを綻ばせ、瞳を甘く溶かし、「さすがですドラルクさん、天才、大好き」と、抱き締めて、なんならキスの一つでもしてくれるに違いない、と。
 ドラルクは――母によってまたもや子どもの姿にされたドラルクは、そう信じて疑っていなかった。
「座ってください」
 だからまさか、褒められるどころか怒らせてしまうだなんて、夢にも思っていなかったのだ。
 高い位置から降ってきた無機質な声音に、冷えた手で心臓を撫でられたような心地になる。それだけで悲しくて恐ろしくて、もう死んでしまいそうになったがなんとか堪えた。そうして恐る恐る瞳だけ上げ、その先で恋人を見て、今度こそ本当に死にそうになった。
 なぜって、目の前の恋人は、これまで見たことがないくらいに分かりやすく怒っていたからだ。普段は仄かに色付いている頬も、今は彼女の心情を表しているかのように白く冷たい色をしているし、ドラルクの当初の想定ならば弧を描いていたはずの唇も、糊付けでもされてるみたいにぴったりときつく閉じられ、真一文字に引き結ばれていた。お、おかしい、私の完璧な計画では、こんなことになる予定なんてなかったのに……! こんな、こんな――。
「聞こえませんでしたかドラルクさん。座ってください」
「ぁ、う……あっでも、その、怪我とかしてないか先に確認とか……」
「そんなのどうでもいいです」
「でも」
 この際だ。自分に非があることは素直に認めるし、こんな怒っている彼女を前にしてなにか言い訳しようなどという気は、今更とても起きなかった。ただ自分を庇ってできたかもしれない傷を放置しておくのはやっぱりちょっと、恋人として見過ごせないというか。
 しかしドラルクが控えめに食い下がろうとしただけで、元から吊り上がっていた女の瞳がさらに細くなった。その瞬間、ドラルクは自身の選択の失敗を悟って、開けていた口をきゅっと噤んだ。
 だって。
 この短時間でもう何度も思った言葉が、またドラルクの小さな頭の中に浮かんだ。
 だって、気になっちゃったんだもん。別にお説教から逃げようとしたわけではないのだ。ただきみが無事かどうかを確認したかっただけ。だって恋人なんだから。そう思うのは普通のことじゃないか? そうとも、普通のことなはずだ。うん、そうだ。少なくともこれに関してはこんな怒られる謂れはないし私は自分の意志を押し通したって文句は言われないはず――。
「別に立ったままでも私は構いませんよ。その間あなたが死なずに耐えられるなら、それでも別に。言っておきますけど、話の途中で死んで大人の姿に戻ったとしても、私はお説教をやめたりしませんからね」
 いつになく冷たく淡々とした口振りに、ドラルクは、普段よりだいぶまろやかな曲線をした柔らかい頬を、ひくりと引き攣らせた。不貞腐れて開き直りかけていた思考もぴたりと止まる。ドラルクは錆び付いた動作でぎこちなく膝を折り、しずしずとその場に正座した。剥き出しの膝から伝わる無機質な床の感覚に、五分ももたない気がすると思ったが、これ以上彼女を怒らせたくなかったので、とりあえず死ぬまで死ぬ気で頑張ってみようと覚悟を決めた。
 ……決めながらも、どうしてこんなことになってしまったのかと、ドラルクはなんとも言えない惨めさで泣きそうになった。
   ◆
 母、襲来。
 ドラルクの身に何が起こったかは、これだけ言えば十分伝わるだろう。伝わらない人はアニメ二期四話か単行本コミックス十二巻を確認してほしい。つまりはそういうことだから。
 アポ無しで襲来したミラは、また例のごとく問答無用でドラルクを子どもの姿に変えた。「あのなドラルク、スタジオアリヌという写真館があってだな」何をするだァーッとぴいぴい喚くドラルクの文句も無視して、ミラは垂れ目を輝かせた。それだけで母の望みを理解した幼いドラルクの顔面はたちまち死んだ。顔の死んだドラルクを小脇に抱えてさあいざゆかんスタジオアリヌ、とミラがフンフン意気込んだ――そのタイミングで、ドラルクにとっては幸運なことに、ミラの仕事用携帯が鳴った。舞い込んだ緊急の仕事に、ミラは涙目で幼い息子をチラチラしつつ、大人しく窓から退散した。
 そんな母親に呆れながら、ドラルクはさて死んで戻るかとデスリセットを実行しかけ、ふと己の恋人の存在を思い出す。子どもの姿にされたという話をした時、彼女は見れなかったことをひどく残念がっていた。
 子どもなって実母の写真撮影に付き合うのは精神的に色々キツいものがあるが、愛しの恋人にチヤホヤされるのは、ドラルク的に全然吝かではない。むしろ喜んでウェルカム。早速ドラルクは【今ならドラ2ちゃんチャンスだよ☆】とメッセージとともに、自撮りを送った。秒で既読がつき、【すぐむかいます】と返事がきた。多分一時間もしないで来るだろう。一時間あればクッキーの一つは作れるはずだ。ドラルクは、自分の二倍くらいの大きさの椅子をえっちらおっちら押してキッチンまで運び、よいしょと登って腕捲りをした。
 身体が小さいせいで難航はしたものの、クッキー作りは概ね上手くいった。生地を混ぜるのもこねるのも一苦労でいつもの半分くらいの量しか作れなかったし、鉄板も重たくてオーブンにセットするのも大変で、危うく死にかけた。が、それでもなんとか一度も死なないで、ドラルクは小さいままやり遂げた。さすが私。小さくともなんら変わらず有能。知ってた。オーブン内に並ぶクッキーたちがいい感じの焼き色になっていく様を、ドラルクはご機嫌に眺める。少し冷ます時間を貰わなきゃいけないが、お喋りをして、紅茶の一杯でも飲み終わる頃には、ちょうどいい頃合になっているだろう。焼きたてを少し摘ませてあげても彼女はきっと喜ぶだろうし。
「……おっ、焼けたな。うむ、いい感じ」
 なんて思い描いていれば、焼き上がりを知らせる音がしたので、ドラルクはニコニコお礼を言う恋人を頭の片隅に置きながら、オーブンの扉に手をかけた。けれど頑丈な造りをしたオーブンの扉は、子どもの片腕だけじゃ開かなかった。ビクともしない扉にドラルクはちょっとおや? と思ったものの、特に気にせず、今度は紅葉のような両手を引っ掛けて、えいっと力を込める。
「――うわっ?!」
 オーブンの扉は、ガンと音を立てて手前へと開いた。想像していなかった衝撃に、ドラルクの体躯が後ろへと傾く。咄嗟に取っ手を握り締めれば、引っ張られたオーブンが、棚ごとぐらりと揺れた。台座にしていた椅子の上で足が滑り、それに驚いてオーブンから手を離してしまう。
「あっ」
 天へと向いた視界に、棚のてっぺんから落ちてくる箱が映った。一つだけでない、大きな箱が二つに、小さな缶やらが三個ほど。何入れてたんだっけ、あの箱。中身を思い出せない。たしか大量のレトルト食品とか缶詰とか? それか災害時用の防災キットだったか。缶箱のほうは、えーっと、だめだ覚えてないな。なんにせよ、どれもそれなりの重量はあった気がする。
 普段なら箱が落ちてくる前に砂になるところだ。けれど今のドラルクの頭の中には、『死んだら元に戻ってしまうなあ』というぼんやりとした思いがあった。
 あの子、ちいさいウルトラキュートな私を楽しみにやって来るんだものなァ。せっかく来たのにいつも通りのハンサムジェントルでは、さすがにちょっとガッカリさせてしまうよなァ。
 椅子から落ち、そして箱が落ちてくるまでの短い時間で目まぐるしく頭を回した結果、ドラルクは『ちょっと耐える努力くらいはしてみようか』という結論に至った。多分無理だろうけど。床に落ちた衝撃に耐えられたとしても、箱が体に当たる寸前で砂になる気がする。まあ何事もチャレンジチャレンジ。
 迫り来る二つの衝撃に備えて、ぎゅうっと目を瞑ってみる。それだけで、『これから痛いことが起こるかもしれない』と思考が紐付けられて、全身がぞわりと粟立った。チャレンジの失敗を早々に感じていれば、突然何かに体を包まれる。
「えっ」
 嗅ぎ慣れた匂い。どこもかしこも柔らかくてあたたかい、人の感触。
 驚いて目を開けるが、視界に映るのは自分を抱き締めている人物のセーターだけだった。困惑して身動ぎするドラルクを、女はますます抱き締めて、一層腕の中に閉じ込めた。いつの間に来たの、早かったね、というか危ない、ちょっと今上ほら、箱が落ちてて――。
 なんて注意を口にする前に、件の箱が落ちてきた音が立て続けに響いた。――そうして話は、冒頭へと戻るのだ。
  ◆
 ハア、と息を吐いた音に、意識が回想から引き戻された。呆れ返ったような色をたんと含んだ溜息に、また心臓がギリギリ嫌な感じで締め付けられる。細い呼吸を絞りだしながら、ドラルクは膝の上で拳を握り締めた。元から大して温度のない手がいつも以上に冷たく感じて、自分の手の冷たさで死にそうになった。ていうかもう死にたかった。なんでもいいからとにかく理由をつけて死んでしまいたかった。火に油を注ぐのも、大人の姿でされるお説教も猛烈にいやなので、そこはなんとか我慢するけれど。
 だってまさか、この頃の自分がオーブンを開けた衝撃にさえ耐えられないとは思っていなかったんだ。否、忘れていたというべきだろう。二百八歳の自分も昔と負けず劣らずに貧弱ではあるが、さすがに一般的な家具の扱いくらいは普通にできるようになっていたから。でも、だって、それもこれも若造がケチるからだ。もっといいオーブンを買ってくれれば。もっと開けやすくて幼い私でも簡単に開け閉めできるやつで、赤外線センサーがついててあとオーディオ機能とか押したら百色に光るやつとかついてるのにしてくれれば――。
「ぉわっ、あ――えっ?」
 ぐだぐだ考えていたドラルクの身体が、唐突に浮く。女は抱き上げたドラルクをソファまで運ぶと、真ん中にドラルクを座らせた。それから自分は座らず、ドラルクの前に黙って膝を着いた。
「え、え……」
 女は目を白黒させるドラルクを、しばらくじっと覗き込んだ。それからまた深く息を吐く。先程とは違って、安堵が分かりやすく乗った吐息だった。するりと頬に手を添えられる。
「怪我はしていませんか?」
「え」
「どこか痛いところはありませんか?」
 なにを聞かれたのか、すぐに飲み込めなかった。惚けた故の無言を悪い方に捉えたのか、女が眉尻を下げたので、ドラルクは慌てて首をぶんぶん横に振った。
「ない、ない、だいじょうぶ、どこも――きみのおかげ、けがなんてない、ぁ、ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
 ドラルクは、頬に触れる女の手が、自分と同じくらい冷たいことに気がついた。それから、微かに震えていることにも。しまいには自分を見上げる女の顔が今にも泣きそうに見えてしまったので、訳が分からずギョッとする。なにかに急き立てられるようにして、ドラルクは口を開いた。
「クッキー、を」
「はい」
「あの、クッキーを、作ってて。きみが喜んでくれるかなって」
「そうだったんですね」
「うん」
 こくりとうなずいてから、ドラルクは遅れて、子どものような素朴な返事をしてしまったことを恥ずかしく感じた。もう二百超えてるくせになんだこの拙い喋り方は。自覚ありで可愛こぶるのは構わんが無意識の可愛こぶりは気持ち的にちょっとキツいものがあった。
「……そう思ってくれたのは、嬉しいんですけどね」
 だが女がなにも気にせずドラルクの頭を撫でるので。困ったように苦笑するので。一瞬抱いた羞恥やらは、すぐに頭から吹き飛んでしまった。「あの」と急き込んで口を開く。女があんまり悲しそうにしているものだから、なにか言わなければと思ったのだ。
「あの、私ほら、死んだら元の姿に戻ってしまうって言っただろう? だから、死ねないと思って。だって死んだら大人に戻っちゃうし、そうしたらきみに幼い姿の私を見せられないし。だから、だから、死なないでみようって頑張ってて……」
 言葉を捲し立てて圧倒したり、弁舌で相手を丸め込むのは得意な方だ。けれど今は、うまく舌が回らなかった。いつもより短いせいかもしれない。少し喋るだけで疲れてしまって、あっという間に息も切れてしまった。中途半端に言葉を切って、かわりにじっと瞳を返す。女は数度緩慢に瞬きをして、ゆっくりと口を開いた。
「心臓が、止まるかと思いました」
 事務所内は暖房が効いていて、開けっ放しのオーブンからはクッキーの甘い香りが漂っていて、窓からは綺麗な月光が煌々としている。流れる空気だけは穏やかな夜下がりをしていて、非常に和やかだ。けれどドラルクと女のいる空間にだけ、その何もかもが届いていなくて、寒々しく切り取られているようだった。
「すごくこわかったです」
 震えて消えてしまいそうな声を手繰り寄せるように、ドラルクは「うん」と呟いて続きを促した。
「だってこんなちいさな子が、ドラルクさんが椅子から落ちそうになってて、その上あんなに大きな箱がたくさん落ちてきてて」
 じわりと浮かんだ涙が女の目尻で光っていて、ドラルクはぎくりとしてしまった。泣かないでと言いたいけれど、これは明らかに自分のせいだ。言葉にできないかわりに、ドラルクは涙を拭うことで意志を伝えた。誕生日ケーキの蝋燭みたいに小さな指が、女の眦をぎこちなく滑る。そのか細い感覚に、女はスンと鼻を啜った。
「……ジョンくんもロナルドさんもいないのに、一人でキッチンに立つのは危ないですよ」
 本当の子どもに言い含めているような、丁寧でいて、どこか厳しい口調だった。正論だ。たとえ中身が二百越えのオッサンであるとしても、その言い分は正しい。
「もうあんな真似、しちゃいけませんよ」
 しかしドラルクは、自分が悪いことをした時に謝るのが大嫌いだった。だって自分が悪いから。怒られても反論できないし、怒られると『自分は悪いことをしたのだ』という罪悪感が増す。胸の深くに刻まれる罪責の念は尾を引くもので、ふとした折に思い出して死んだりしてしまう。それが嫌すぎるので、本当に悪いことをしても、限界までできる限り謝らないで生きてきた。それを良しとされてきた。そうやって甘やかされて育ってきた。
「……ごめんなさい」
 ただ今回ばかりは、頭で考えるよりも先に音が紡がれていた。けれど方便ではない。きちんと気持ちのこもった、ドラルクなりの真摯な謝罪だった。
「ごめんね」
 だって。だってこれは、だって彼女は、私を思って怒ってくれているから。
 そう思うと、ドラルクは謝ることに、なんの抵抗も覚えなかった。
 

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