剥き出しの欲


 皮膚が千切れてただのゴミとなったのと、「おい」と声がかかったのは、果てしてどちらが早かったのだろう。見遣った先にいた声の主は「指」と不機嫌に顎をしゃくった。言われるがままにまた視線を移す。表皮が剥がれた指先では、新鮮な赤がぷっくりと膨らんでいた。
「ささくれは剥くなと言っているだろうが」
「ごめん」
「まったく、何度言えば……」
 ぷりぷりと腹立たしげな彼へ、素直に謝る。思ってもいない。でも一度機嫌を損ねると、この吸血鬼は面倒臭いから。こういう時は適当にあしらってやり過ごすに限るのだ。ティッシュ、と探しかけ、なんとなく気紛れで指を彼へと差し出す。ミカの顔がギョッと戦き、口がきつく引き結ばれた。
「な、なんだ」
「舐めてもいいよ」
「……いるか、そんなもの」
 口ではそう言いながらも、ミカの視線は指に釘付けだった。赤が垂れ、線が走る。僅かに開いた口から、カチ、と歯がかち合う音がした。吸血鬼の瞳孔が、じんわりと拡がっていく。
 パッと指を引っ込めると、目の前の男はびくっと震えた。遠ざかる指へ追い縋ろうとしたかのような僅かな挙動を、私は見逃さなかった。
「いらないんじゃないの?」
「……うるさい、だまれ」
 薄ら笑いを浮かべる私に対し、ミカはぐ、と顔を顰める。見ようによっては、泣き出す直前の幼子のような顔だった。
 今更指先がじんじんと痛みを訴えてきたので、私は洗面所へ向かうために立ち上がる。すれ違う瞬間、彼の喉が鳴る音が聞こえた気がした。
 赤褐色の水が、ぐるりと排水溝に吸い込まれていく。冷水ですっかりふやけた指先を見ながら、吸血鬼でもないのに勿体無いななどと考えた。
 ミカは私の血をひどく厭うている――形だけは。ささくれを弄る癖を直さない私を咎めるのも、所詮は形だけ。だって彼がボロボロになっていく爪先をずっと見ていたことに、私は気が付いていた。なのに、表皮を完全に剥がし血が滲んでくるまで声をかけてこなかったのは、つまりそういうことだ。他にも冷たい唇だけで項をやわやわと食まれたりされるし、もう彼が私の血を求めているのはあからさまだった。なのに、どれだけ促しても頑なに吸おうとしないのだ。本能に抗うとは、本当に変な吸血鬼だ。唇を噛み締めて涎を抑えようとする様は、健気を通り越していっそ愚かな気すらした。
 指先を包帯で不必要にぐるぐる巻きにして戻ってきた私を見て、ミカは無駄遣いを窘めるどころか「それでいい」と、むしろ満足そうに鼻を鳴らした。しかしそれでも、ちらちら刺さる眼差しには安堵と後悔が入り交じっている。強情な彼の隣に腰かけて、肩を竦めた。
「素直に飲めばいいのに」
「誰が飲むか。そも、私は血が欲しくて貴様を傍に置いているわけではない」
 言わんとすることは分かる、し、きっと恋人としては喜ぶべきことを言われているのだろう。が、言い方が気に食わない。こういう高飛車なところも、別に嫌いではないけれど。でも今はいやだった。
「じゃあなんのためなの?」
「それは……」
 意地悪く追求すれば、ミカは顔半分を真っ赤にして黙り込んでしまった。大きな体躯がしゅんと縮こまり、小型犬みたいになる。食欲とはまた別の熱が、潤んだ瞳に浮かぶ。赤く染まった剥き出しの項に、なんだか私の方が噛み付いてやりたくなった。
「ん」
「……? なんだ?」
 私が両手を広げると、ミカエラは不思議そうな顔で同じ動きをした。フリーになった胸の中へと飛び込む。
「お、おい、なんだ急に」
 急な甘えたをみせた私に、当然ながらミカエラは驚いていた。けれど声は嬉しそうに弾んでいる。それを聞きながら、私は先程こみ上げた欲望に従いうなじに歯を立てた。ムキムキな体に似合わない、甲高く細い悲鳴が上がる。すぐにべりっと引き剥がされた。
「ななななにをする貴様急に‼」
「噛んだらどんな反応するかなって」
「好奇心⁈ 理性とかないのか‼」
「ないよ」
 ないから、ミカエラも早く捨てちゃっていいんだよ。
 そんな思いを込めて、私は再度彼の白い皮膚に歯を突き立てた。半泣きの文句を無視して噛んだ箇所を舐めていれば、冷たかった肌が次第に生温くなってくる。肌に塗れた唾液をちゅうと擦ってやると、ミカエラの身体がビクリと跳ねあがる。すっかりふやけた首から顔を話して、私はにっこり笑った。
「仕返し、してもいいんだよ?」
「……うるさい、ばか」
 真っ赤な顔に、上がった息。そんなたいしたこと、してないのに。ほんとかわいいなあと思いながら、私は涙の滲むその眦へ口を寄せた。
 

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