桃の季節
春は、あけぼの。然るに、宵闇埋めるは黒ビキニ。
【解説】
春は日の出前の空が一番美しいですね。ところが、夜が更ける頃には、街中にマイクロビキニが溢れ返ります。
つまり変態の繁忙期なのである。ファッキン勤労。
四月に入り気温が安定してきたせいか、ここ魔都新横浜は変態フィーバーハリケーンが巻き起こっていた。ビキニ野球拳Y談ビキニ野球拳Y談靴下ビキニ飛んでビキニからのM字開脚にその他諸々変質者。やってるよ春の変態祭り。報告書三十枚で絶対割れないお皿と交換できる。いらん。労力と対価が釣り合ってない。なんで私がこんな目に? 【新横浜】って、【吸血鬼の祖を祀るでっかい祠】を、【ぶっ潰して生まれた都市】なんじゃない? うん、きっとそう! でないとこの出勤尽くしの書類地獄に説明がつかない。
と、いうような呪詛をぶちぐちと撒き散らしながらデスクに齧り付いていたら、見兼ねたヒヨシ隊長の指示により、強制的に仮眠室へ運ばれた。曰く「士気が下がる」とのこと。それはそう。
「でも連勤十日目なんだから呪詛の一つや二つ許してほしい」
「だからこそ、隊長は仮眠室へ行くよう指示したのだろう」
私を連行した張本人である半田桃は、そう答えながら、自身の首をゴキゴキ回した。かくいうこの男も、私と同じだけの日数の出動を強いられていた。私とは違い、人目のある場ではずっと毅然と振る舞っていたけれど、今回の激務にはさすがの彼も堪えているらしい。半田は脱力して息を吐くと、憂う仕草で金色の瞳をそっと伏せた。
「セロリトラップの在庫が心配だ」
「内職する暇すらないもんね」
もどかしげに頷いた半田は、「次の休みには普段の五倍の量を生産せねば」と決意を固めている。が、ロナルドさんからすればはた迷惑な決意だし――私個人としても、聞き流し難い呟きだった。
「“次の休み”?」
“職場の同僚”ではなく、“半田桃の恋人で”ある自分として、眉をひそめて目の前の男の顔を覗き込めば、半田はギクリと身を引いた。
「次の休みは私が予約してたはずだけど?」
「と、当然覚えている決して忘れてはいない。……だが、だが……セロリの在庫が……!」
「はあ〜? かわいい恋人よりもセロリを取る気なんですかあ?」
「そ、れは……ッ、そ、そもそも職場でする話ではない! ふしだらだぞ!」
「仮眠室は治外法権だから」
「なんだそのマイルールは!」
隊長だって多少の公私混同は許してくれるはずだ。でなければ、半田を休憩のお供にはつけてくれないだろう。私と半田の付き合いは長く、職場ではもはや公認だった。
にもかかわらず。未だに付き合いたてみたいな反応をする律儀な恋人へ、私は「あーあ!」とこれみよがしに声を張ってみせた。
「一ヶ月ぶりのおうちデートなのに、桃君は疲れきった恋人をほっぽりだして訳の分からん嫌がらせに励むっていうんだ?」
「訳の分からんではない、セロリトラップだ。セロリの新鮮さを残しつつその真価を最大限に発揮させるという、慎重で繊細かつ大胆な技術が求められる――」
「恋人よりも優先される作業?」
ぐうと声に出して押し黙った桃君を真顔で見つめるのには、大変苦労がいった。なにせ、お手本のように決まりが悪そうだった。
「……仕方ないな、今回だけ許してあげる」
「本当か!」
気まずそうにもじもじする恋人の姿を暫く堪能し、十分に満足した頃合で私は偉ぶって譲歩の言葉を口にした。パッと露骨に顔が華やぐのがまたおかしい。
「本当だよ」笑いを噛み殺しながら生真面目な顔を維持して言う。
「なんなら、そのよく分かんない罠の製作を手伝ってあげてもいい。……でもその代わり」
言葉を区切り、桃君の足の付け根に手を滑らせる。たちまち手のひらの下で、グッと力が込められた筋肉が固まった。金の瞳が疑り深さを湛えながらも、じわりと熱で拡がっていく。
「今日――いま、甘やかしてくれる?」
「…………こ、ここは職場で――」
「今は休憩時間だよ」
いいでしょう? だって当日は放っておかれるんだし。それなら今、当日の分まで甘えさせてよ。そうしたらこの後だってきっと頑張れると思う。私、いま、とてつもなく疲れてるの。ね、お願い桃君。
そのようなことを、私はうるうるとかわいこぶって訴えた。恐らく、まあ、半分くらいはまともに届いていない。最後、諦めたように僅かばかり顎を引いて頷きと思しき動きをした頃には、桃君の顔はサンザシの実を思わせる赤っぷりだったから。
「……しかし――ぁ、あまやかす、とは。具体的にはどうしたら……」
よく熟れた顰め面へ返事の代わりににっこり笑い、私は流れるようにごろんと横たわった。枕とした彼の太腿が過敏に跳ねたので、「寝にくいから動かないで」と膝を軽く叩いて嗜める。カチコチになった枕の上で身動ぎをして仰向けに体勢を変え、相も変わらぬ顔色の桃君を見上げた。
「うーん、寝心地いまいち。首痛い」
「じゃあ退け今すぐ! コッ、こんなところ、だれかに見られでもしたらッ……!」
「別にこのくらい見られたって良くない?」
「職場だぞいいわけあるか!」
休憩室なのに、とお決まりになりつつある言い訳を繰り返してカラカラ笑う。
たかが膝枕、とはいえ、されど膝枕。たしかに職場ですることではない。正論。だけど無理やり退けたりはしないせいで、いまいち説得力に欠けていた。視界の端でわなわな震える手を見るに抵抗のポーズだけはとってるみたいだが、なんだかんだ満更でもないようだ。
まだなにか言い募ろうとするのを無視し、手を伸ばす。頬に触れるなり、桃君は面白いくらいピタリと黙り込んだ。熱い頬へ指を滑らせれば、擽ったいのか恥ずかしいのか、閉じた口が一層固く引き結ばれる。
柔い頬は連日の疲弊のせいか、普段よりもややガサついていた。そんな肌をちょっとふにふに押して、頬骨を伝ってこめかみへと移動する。額で指先を止め、眉上をなぞるように軽く指圧していけば、蜂蜜色の瞳が心地よげに溶けていった。鋭いツリ目がゆるりと細められ、瞬きごとに目を瞑る秒数が増していく。気付けば太腿枕も、いい具合に柔らかい。桃君の仕事モードもすっかり抜け、完全にリラックスした様子だった。
そんな彼の流れる前髪がさらと指の背に触れ、ふと思い立つ。私は「ね」と声を潜めて話しかけた。伏せられた睫毛が緩やかに空気を撫でる。
「髪、触っていい? 上げてるほう」
「……ならん。崩れる」
「崩さないよ、ちょっと撫でるだけ」
「だめだ」
「ワックスない? なら私のやつ貸してあげる」
「だめだ」
「どうしても?」
「……どうしても」
「えー」
なんて言いつつ、あげた前髪に触れようとしてみたが、かぶりを振って逃げられる。眠たそうなくせして、そこら辺の意思は硬そうだった。いじわる、と口にするかわりとして当てつけに額の中央をグリグリ押せば、抗議のように眉間へ皺が寄った。
だめというなら、仕方ない。
私は、今度は手のひらを耳の方へと滑らせた。尖った耳先から耳朶をぐにぐに揉んでいくと、あんなに深かったシワが簡単に解れていく。心なしか、頭が手の方へ傾いている。厳格ぶっていた皮が一瞬で剥がれ、今にも寝そうになっていた。見られたらどうするとか心配してた人の身の委ね方じゃ全然ない。
しばらくはそうして大人しく耳ツボマッサージをしてやった後、私はそうっと手をさらに奥へと伸ばした。桃君が物言いたげにしてくるのを笑顔で躱す。
「大丈夫、だめなとこは触らないから」
セットされた部分はきっちり避けて首の付け根に触れ、宣言の説得力をアピールする。桃君の体がぴくりと揺れたのは無視した。
そうやって素知らぬ顔でそっと指を這わせ、一部の指をタートルネックの中に入れ込ませる。そこまでしても、彼は私を止めなかった。触れた箇所から僅かに布が捲れて、色付いた素肌が覗いている。どくどくと熱く脈打つ血管を指先に感じながら、私は笑みをひそめて試すように彼を窺った。
「これはいいんだ?」
「……髪は崩れていないからな」
「髪が崩れなきゃ、なんでもいいの?」
囁きへの返答はない。だけどかわりに、喉仏が大きく上下した。
うなじへ添えた指先に、軽く力を込めて引き寄せる。そのかんばせは、込めた力以上にあっさりと近付いてきた。微睡みなんて、もはや微塵も見当たらない相貌だった。
私も合わせて距離を縮めるように身を起こし、顎先を持ち上げ――唇が重なる直前に、するりと彼の膝から離れた。
「うぅん、素直に仮眠とろっかなあ」なんて伸びをしながら独りごちてから彼を見遣り、小首を傾げる。桃君は、あからさまにショックを受けた顔をしていた。
「どうしたの、そんな愕然としちゃって」
「……いや、するに決まってるだろう!」
「なんで?」
「なんで?!」
「あ、もしかしてキスされるかと思ったの? やだなあ、しないよ。……だって」
ちいさく尖らせた自身の唇に、わざとらしく恥じらいながら触れる。我ながらあざとすぎると思ったけれど、狼狽している今の桃君にはこの大根演技さえも見抜けないらしい。食い入るような視線が突き刺さって、なんだか楽しくなってくる。いやずっと楽しいけど、仮眠室に来てから。
「仮眠室でキスは……やっぱり度が超えてるかなって」
「そ、れはそう――ッかもしれないが! だ、だが、その――かっ、髪を崩さない……のであれば、俺は別に――!」
「ええ? でも職場でキスとか、さすがに恥ずかしくない?」
「いや分からん! 基準が分からん!」
「そっちこそね? なんで髪はダメでキスはいいわけ?」
「なっ、だっ、そっッ……ッ!」
表情や仕草や声色。彼の挙動もう全てから、憤慨と困惑がありありと伝わってきた。本当に隠し事のできない人だなあと、いっそ感心してしまう。
「……かみが」
すっとぼけたままでいると、桃君は観念したように声を絞り出した。
「髪が、崩れていたら……戻った時、変に怪しまれる。が……キスをする、だけ、なら髪が崩れることはないため……」
「……別にバレないだろうって?」
中途半端に消えた最後を引き継げば、彼は、俯くように、頷いた。そろりと縋るように熱っぽい眼差しを差し向ける仕草は、さっきの私の比にならないほどあざとかった。私は「なるほどねえ」と眦を下げ、思案を巡らせた。
キスをするだけ、ねえ。たしかに、キスをするだけなら、髪は崩れないかもしれない。が。
向き合う彼の面持ちは真剣そのもので、改めて頭を抱えたくなってきた。だってこの人こんな、こんなに――こんなにチョロくて大丈夫なんですか? こうしたのは私なので責任とって生涯を共にすると誓うけれども。
だってキスだけとかいうが、いや、キスなんてしたらそんなの絶対バレるに決まっている。私はともかく、桃君は確実に。隊長には(私が)呆れられるし、モエギさんには居心地悪そうにされるだろうし、サギョウの舌打ち記録だって更新されるだろう。カンタロウが「どうしたでありますか半田先輩! なにやらお顔が真っ赤で――ハッッッ」なんてポッと頬を赤らめるところまで容易に想像できる。
詰まるところ、分かりやすく髪を崩されてるほうが、まだずうっと健全なくらいだったのだ。膝枕も髪に触れることも、私なりに我慢の譲歩をしたつもりだった。だってなんだかんだ、曲がりなりにも一応職場だしね? だというのに、棚ぼたというか飛んで火に入る夏の虫というか……。
呆れやら愛おしさやらが込み上げてきて、いっそのこと参ってしまう心地だ。
「――分かった。じゃ、そうしよっか」
火種を焚べた張本人なのだから、当然、断るわけもない。図らずも浮かんだ微笑みは、きっと、ドラルクにも負けず劣らずのそれはもう悪どいものだったろう。目を煌めかせるいじらしい彼がこの表情に気付く前にと、私はさっさと立ち上がった。訝しげな眼差しを背にし、仮眠室の扉へ向かい、静かに施錠する。どうせ誰も来ないだろうが――もうちょっとだけ虐めたくなってしまった。だって、あまりにもかわいいから。
カチャリと回った鍵音に、思惑通り、背後の彼がビクッと驚く気配がした。熱を帯びて揺らぐ空気の中、私は閉まった扉へ軽く背を預けて、ゆったりと目を細めた。
「な、なぜ鍵を……」
「だって、“だれかに見られでもしたら”、恥ずかしいし?」
至極当たり前のことを“繰り返す”と、桃君は絶句した。
見える肌全部を赤くした恋人は、己が袋小路の火の山に自ら飛び込んだことを、どうやらようやく把握したらしかった。ああ、私の恋人は本当、食べちゃいたいくらい可愛らしい。さて、休憩時間はあとどれほどだっただろう。齧れる時間くらいは、きっと十分残っているはずだ。
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