すれ違い
「好きな人ができちゃった」
実はと重々しく切り出した私に、吸血鬼マイクロビキニ――真名をミカエラという――の、黒い仮面から覗く深紅の瞳がまあるくなり、室内の明かりを宿して煌めいた。力の抜けた顎が僅かに落ち、肉厚で重たそうな唇がうっすらと開く。ミカエラはお手本のようなポカン顔をしたまま、緩慢な動きで顔をほんの少し傾けた。なるほど、テイク2。
「好きな人間が、できました」
丁寧な言葉ではっきり告げれば、ミカエラは感情の籠っていない声で「すきなにんげん」と反復した。それは、なんとも舌足らずでたどたどしかった。予想通りな反応に内心でほくそ笑む。
好きな人ができた。とは、嘘である。いや、厳密に言えば嘘ではないけれど。好きな吸血鬼は、前からいた。なぜかマイクロビキニとかいう三角の布を至高の衣装だと思っていて、怒りっぽくて泣き虫で、意気地無しな吸血鬼に、私はかなり前から懸想していた。私の気持ちは新横中に知れ渡っていて、今やご兄弟公認だ。しょうもな長兄さんですら、ミカエラを気遣って野球拳を四戦だけで辞めるなどの良心を見せてくれるレベル(それでも夏場は四回でもかなり際どいので悪質なことには変わりないですが)。
野球拳に命を懸けている快楽主義吸血鬼がそんな気遣いをみせるくらいには、ミカエラはあからさまに私のことを好いていた。つまり、両片想いなのだ。……そう、両片想い! 私はもう何遍も「好きだよ」って伝えてるのに! なのにコイツは、照れたようにむっつりと口を噤んで顔を顰めるだけ。私が告白をすると、この男は途端にうんともすんとも言わない地蔵ビキニになる。お返事を貰えたことは、一度としてない。信じられる? 甲斐性ないとかの問題じゃないでしょ。許せねえ……許せねえよ吸血鬼野球拳大好き……。
まあそんなわけで、今日は勝負にでている次第である。
やや眉を下げ、ぽかんとしっぱなしのにっこり笑ってみせる。
「好きな人もできちゃったし、だからもうミカエラのことは諦めようかなって」
「そうか」
「は?」
淡々とした返しに、今度は私が呆気に取られる。先までの『読み込み中です』顔はどこへやら、すっかり平然としたいつも通りな面持ちをしている。
「そ、それだけ? 聞きたいこととか……言いたいこととかってないの?」
「無論ある」
少しホッとしたが、それでもいつになく平坦で波風一つない彼の顔に、胸がいやなざわつき方をみせていた。
「そいつの年齢は」
「えっ? あ、同じ……くらい。二つ年上かな」
それからミカエラは、どこに住んでる、だの実家はどこだの、何人兄弟だの、重ねて質問してくる。職質か? 意図の読めない質問に困惑しながらも、私は存在しない好きな人のプロフィールを聞かれるがままに答えていった。桜木町住みで実家は長野の、三人兄弟の次男。血液型はO型で、趣味はダイビング。
「仕事は?」
「公務員」
「おい、まさか吸対の人間とは言わないだろうな?」
「そこ重要?」
「当たり前だろう」
「ねえ、あの……べつに……別に私、結婚するわけじゃないんだよ。私が勝手に好きになっただけで……」
ボソボソと呟くが、自分の言葉が胸に刺さって一層気持ちが沈んだ。さっきまでの――勝負に出るまで持っていた、ミカエラに好かれているという自信が、このたった数分の間で、すっかり消え失せてしまっていた。
だって、だって、普通好きならやめろって、『私にしろ』って、なんかそういうことを言ってくれるはずでしょ? 好きな人が、自分を好きでいるのをやめようとしてるんだよ? でもそういう引き止める言葉は一切ないし、質問責めだけど、別に粗を探してやろうというふうでもないし。むしろなんか、保護者視点の質問な感じで。あれ、もしかして私、本当は本当に脈なかったの? やさしい声も、甘く蕩けた瞳も、面映ゆげなはにかみ笑いも、全部私の勘違い?
あ、なんか泣きそうかもしれない。気道が苦しくなってきた気配に、私はさりげなく顎を引いて顔を隠した。
「何を言ってるんだ、貴様は」
呆れ返った声に眉根が寄った。俯いたまま続きを待つ。
「お前が好きになったなら、相手だって必ずお前を好きになるに決まっている」
うそつけ。そうならない、なってくれなかった生き証人のくせに。
「……それに、お前を残していく可能性のある人間なんて、許せないからな」
「……え?」
当然のように紡がれた言葉の羅列は予想外すぎて、思わず顔を上げてしまった。上げた先では、ミカエラが眼差しを鋭くさせて返答を促していた。慌てて「吸対の人じゃない」と首を横に振る。「そうか」ミカエラは最初と同じようにそう言って、ほうっと息を吐いた。無機質な表情がやっと崩れ、仮面の奥で眦が穏やかに垂れる。
「よかった」
心底嬉しそうにそう零した彼は自然な動きで口元を緩め――それから一筋、頬に透明の線を走らせた。
「えっ」
「いいか、貴様の実家に連れていく前に、ちゃんと私の前まで連れてこい。この吸血鬼マイクロビキニが直々に王者としての立ち居振る舞いを指導してやる。それから式の監修には私も加わるぞ。この帝王の力をもってして、新横浜、いやこの世界で最も荘厳で美しい畏怖に満ちた素晴らしい式に――」
「ミカエラ!」
頬を挟むように両手で顔を掴む。パシッと音が鳴った。
「なんだ?」
ミカエラはきょとんとしながら――未だに涙をさめざめと流し続けたまま、こちらを見下ろしてきた。生暖かい水が、頬に添えた親指を伝っていく。
「な、ないてる」
「は?」
「だ、だから、ミカエラ、泣いてるよ」
ミカエラが言葉を飲み込むようにぱちんと瞬きをすると、大粒の涙が一つ、また瞳から押し出された。
ミカエラが私の前で泣くのなんて、別に初めてじゃない。いじられ慣れてなくて部屋の隅で三角座りしていたり、映画を見てズビズビ鼻を啜っていたり、思い詰めた相貌でギュッと口を引き結び、ポロポロ泣いていたり。そういう時、私はミカエラを宥めたりからかったりしながら、ハンカチやティッシュ箱を差し出して、彼の隣に座っていた。
だからとにかく、私にとって彼の涙というものはそう珍しくはないし、対処にも慣れたものだった。でもこんな泣き方は初めてだ。こんな、なんだか痛々しく切ない泣き方。そのせいで私はひどく動揺してしまって、泣いている本人よりもずっと狼狽していた。だって急に、前触れもなくて……。
「どうしたの? どこかいたい?」
声もなく呆然と顔に触れるミカエラへ、上擦った声で尋ねる。さっきから様子がおかしいって思っていたけど、もしかしてなにかあったのだろうか。
「野球拳と喧嘩した? トオル君に怒られた? あっちゃんにマリカーで二十連敗した?」
親指で目元を撫でながら言葉を重ねていく。ミカエラは自身の涙で濡れた指先と、情けない顔をしているであろう私を交互に見遣った。眉根に濃い皺が寄り、それから細かく唇が戦慄く。ぶわりと朱の奥から波が昇ってくるのが見え、ヒュっと息を呑んでしまう。
「だ、大丈夫!」
「だいじょうぶ……」
声を無理やり明るくして張り上げる。弱々しい繰り返しに、もう一度「大丈夫!」とダメ押しした。
「そう、大丈夫だよ! 野球拳は私がシバくしトオル君との仲は私が仲介するし、あっちゃんに負けたのだって、たまたま運が悪かっただけだよ! マリカーなんて運ゲーだし――」
「なにがっ……!」
喉奥から絞り出したような声。大声ではなかったからこそ、ちゃんと聞かなきゃという思いに駆られ、口を噤む。姦しいラジオのようだった私が黙り込んだので室内は水を打ったように静まり返り、やがてミカエラが歯をきつく食い縛る音が聞こえた。まだ涙をたっぷり湛えた瞳が、線のように細くなる。敵を見る眼差しだ。しかしこんな憎々しげに睨めつけられるのは初めてなのに、威圧感や恐怖は感じなかった。
「なにが、大丈夫なんだ」
それは多分、ミカエラが何時になくちいさく、幼く見えてしまったからだろう。
「私の世界から、お前がいなくなるというのに。それの――いったいそれの、なにが、どこか大丈夫というんだ」
澄ませた耳が、苦しくて堪らないという音を捉えた。頬に触れたままの手に、陶器のように冷えた手が触れる。
「どうして」
ミカエラのかすれ声で、空気が頼りなく震える。けれどいくら待っても、その続きは紡がれなかった。
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