傘
黒い雨雲が低い空に這っている。それに気が付いたのはちょうど鍵を閉めた直後だった。不穏な燻りに、一瞬大きい傘を取りに戻るか迷って結局やめる。駅までなら降らないだろうし、鞄には折り畳みが入っている。降ったとしても今日はオフィスから出る予定もないし帰り際には止むはず、知らんけど。あと鍵まで閉めたあとにまた家に戻るって忘れ物したみたいで負けた気分になるし。要するにめんどくさかった。私は鍵を開け直すというほんの少しの手間を疎んで、脳内であれこれ言い訳しながら鍵を鞄にしまい込んだ。
◆
嘘みたいに降ってる。叩き付けるような土砂降りに、最寄り駅の改札口できゅっと口内を噛む。ま、まあ。ちょっとだけ想定外だけど、私には折り畳み傘があるので? なんの問題も、……え、ない。慌てて端に寄り、鞄を漁る。ない、え、ないの? 本当に? ダメ元でメモ帳をパラパラしたらレシートが落ちてきた。うそ、どうして今まで気が付かなかったんだろう。鞄を開く機会なんていくらでもあったのに。何見てんの? 節穴にも程がある。駅構内にはコンビニがあるが、いやしかし家までの帰路徒歩にして二十分のためだけに買うの? かなりだいぶめためたにいやだ。それこそ負けた気分になる、というか既になってる。こんなことならバカ言ってないでさっさと取りに戻るんだった。出掛けの自分を恨むと同時に自己嫌悪でちょっと泣きそうになる。お前はいつもそうだ、ちょっとのことを億劫に思って大丈夫だろうと思考放棄する。誰もお前を愛さない。
「あ、いたいた」
「……ドラルクさん」
と、ジョン。私の声に反応して、黒い傘をよいしょと閉じるドラルクさんの肩口にしがみついていたジョンがヌー! と手をあげた。かわいい。
「きみ、傘ある?」
「ないです……」
「たかが傘ないだけでなぜそんなこの世の終わりのような顔を……」
そのたかが傘を忘れたんですよ、過去の私が学習しない愚か者だから! 悔しすぎてギリギリしていると、「だと思ったけどね」と追い打ちをかけられて卒倒しかける。好きな人にダメ人間だと思われてる、なんも間違ってないんだけど。でもショック、口から魂でそう。落ち込む視界にスッと明るい黄色の傘が差し出される。
「えっいいんですか」
「ここまで来てダメって言ったら意地悪過ぎない? 私。ま、寛大な私からの気紛れ慈悲だ、畏怖して使い給え」
ははぁと頭を垂れるとポンポン軽快に頭部をタップされる。慎んで受け取った傘をぱん、と開けば、灰色の世界には不釣り合いの明るい花が咲いた。
「帰ろうか。家まで送ってあげるよ」
「うわ至れり尽くせり……愚者な私には過ぎた幸せ……」
「そんな卑屈になることもなかろうに」
「だってなにか予定があったんじゃないですか? こんな天気の中外に出るなんて……」
強い雨が傘を打つ衝撃だけで死にそうなものなのに、それでも外出してくるなんてよっぽど大事な用があったに違いない。その予定を押して傘を施してくれた上に送迎までしてくれるなんて本当に寛大だ。感謝と感動と恐れ多さに打ち震える私を見て、ドラルクさんはぱちりと大きな瞳を瞬かせた。一拍してから視線を天へと伸ばし、考えるように顎を擦りながら「そうだねえ」とのんびり呟く。
「たしかに酷い雨だ。実際何回か死にかけたし。雨だと流れちゃう可能性があるから、普段だったら出ないな」
「うわやっぱり。死ななくてよかったです……」
「でもきみが傘を忘れて折り畳みすら常備できない自分を必要以上に気にして泣いてるんじゃないかなぁと思ったんでね」
「ま、まだ泣いてません!」
「そうだね」
張った見栄をあっさり肯定され拍子抜けする。ドラルクさんはそんな私の目元をやさしく無ぜ、「泣く前に来れてよかったよ」とからから笑った。全てお見通しなことがまた恥ずかしくて、私は俯くことしかできなかった。
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