出来心


 自分が一番不安だろうに、こちらを気遣って謝罪の言葉を口にする彼へ、私は『大丈夫ですよ、謝らないでください』と慰めるべきだったし、そうするつもりだった。
「私たち、恋人同士だったんです」
「…………ヴェッ?!」
 魔が差したとしか言いようがない。ポンッと音がなりそうなほど顔を赤くした彼を見て少し正気に戻る。けれど、もう止めておけと脳が鳴らす警鐘を無視して口を開いた。
「好きですよ、ロナルドさん」
 ◆
 ロナルドさんが記憶喪失になり二ヶ月半。事故を利用して始まった卑劣な恋人関係は未だに続いていた。『周りの人には内緒にしてたんです』と説明したおかげで、ロナルドさんも特に不審がることなく私たちの関係を受け入れている。
「ロナルドくん、記憶はどう?」
「あ、あー……その、病院とか、行ってはみてるんだけど……ごめん」
「謝らないでよ。色々忙しいだろうし、無理はしないで」
 保身塗れの台詞をいけしゃあしゃあと吐いて微笑めば、彼はちょっと眉を顰めた。なにか言おうとするかのように薄く口を開いたが、結局静かに結ばれる。彼は眉尻を下げて「ありがとう」と笑った。
 交際は怖くなるほど順調だった。騙した翌日には『敬語やめませんか』と震える手に持ったココアで袖をぐっしょり濡らした彼に提案されたくらいだ。こうしてデートするのも、もうこれで五回目になる。今日は私の家での映画デートだ。この『家で』というのも彼からの要望だった。緊張しきった様子でガチガチになりながら土下座する勢いで頼まれた。恋人としての、彼なりの歩み寄りなのだろうなと思う。他にも事ある毎に『前の俺はなにしてましたか』など聞かれる。あるはずのない恋人の記憶をなぞろうと頑張ってくれているのだ。純粋な彼といると自分の浅ましさが浮き彫りになるな、と考えながらエンドロールを眺める。名作と話題になった二時間ちょっとの海外映画は、ほとんど頭に入ってこなかった。リモコンを操作して次はなにを観ようかと話しかけるために隣に座る彼を見ると、彼も私を見ていた。というか凝視していた。顔を真っ赤にして汗まで滲ませる彼にぎょっとする。
「ロナルドくん?」
 私が名前を呼ぶと、彼は唾を飲んで喉仏を大きく上下させた。様子のおかしい彼の視線が口へ集中していることに気が付き、ハッとする。付き合って二ヶ月――いや、本当に付き合っていたとしたら二ヶ月以上だ。こんなにデートを重ねていて、キスの一つもしていないなんて不自然だ。彼もそう思ったのかもしれない。だから、こうして私の肩に手を添えているのだろう。目を軽く伏せた彼の顔が近付いてくる。こんなことして、いいのだろうか。私はいい。元々好きだったんだから、むしろ願ってもない。でも、彼は――。ダメだと冷静になるが、もう遅かった。逃げようと身動ぎしたその瞬間、ちょうどタイミング悪くロナルドさんが覚悟を決めてしまったらしい。力が籠った手に動きを制され、そのまま唇を押し当てられた。
 この後彼とどんな会話をしてどう過ごしたか、とかはあんまり記憶にない。気が付くと部屋には一人で、私は閉まった扉の前に立っていた。見送ったらしい。しばらく呆然と立ち尽くし、やがて頭に浮かんだのは『別れなきゃ』という思いだった。これ以上はもう彼から奪えない、奪ってはいけない。私はなんてことをしてしまったんだ。震える唇を思い出して顔が歪み、嫌悪や後悔の詰まった涙が流れていく。泣くなんて一種の逃げだ。しかし、そんな資格はないと分かっているのに、溢れる涙を止めることができなかった。
 ◆
 それから私は心の整理のため彼を避け続けた。二日に一度は必ずしていた電話もやんわり断り、RINEも返信する間隔を少しずつ開けた。そうしてようやっと真実を話す決意が固まったころには、あのデートの日から二週間が経っていた。
 久しぶりに訪れた事務所の扉には『本日休業』の札がかかっていた。私が来ると言ったからだろう。営業妨害してしまったなと思いながらノックしてから扉を開ける。ちょうどなにかをしようとしていたのか、妙な体勢で固まった私服姿のロナルドさんと目が合った。
「こんばんは」
「こ、こんばんは……」
 お茶いれてくるからとキッチンへ向かおうとする彼を止める。ドラルクさんとジョンくんは今は席を外しているようだし、彼らが不在のうちに話したい。顔面蒼白の彼が異様に身を縮めて向かいのソファに座ったのを確認して、「ロナルドさん」と呼びかける。膝を見つめていた彼が勢いよく顔を上げた。
「は、え、なに、なになになになんで? え、今、おれの名前、さんって」
 過剰に吃って驚く彼にあ、と口を抑える。特に意識したわけではないが、距離を置いたことでうっかり零れてしまった。しかし心中ではずっとさん付けだったから呼ぶ側としては特に違和感はない。もうロナルドくんだなんて気安く呼べるわけないし。そう考えてこのまま話を続けてしまおうとしたが、「あの!」と立ち上がったロナルドさんによって遮られる。
「あの、えっと……えー、アッ映画! ある、よ! おすすめのやつ、で、あの、メビヤツがプロジェクターやってくれんだ。それで俺の好きなやつ、いや、きみが好きなのでもいいんだけど、」
「映画は大丈夫です。それよりロナルドさん――」
「あっじゃあどう、あ、なにする? あ、ジェンガする? パズルとかもあるけどそっちがいい?」
 ロナルドさんがサッと白一色の五千ピースパズルの箱を掲げる。二人でやるの? それを? ちょっと楽しそう……いやそうじゃなくて。
「少し落ち着いてください、今日の私は遊びに来たんじゃなくて、謝罪に来たんです!」
「え……しゃざい……?」
 なぜか涙目の彼が「車材?」と首を傾げるのでなんかイントネーション変だった気がするけど、とりあえずそうですと頷く。落ち着いた隙を逃すまいと早口で事情を説明し、最後に深く頭を下げる。すぐに止められ、こんなときでもロナルドさんはやっぱりやさしいんだなと尚更自分が不甲斐なくなった。彼は息を長く吐いて、脱力する。「よかったあ」そう言ってへにゃりと破顔したロナルドさんに私は困惑して目を瞬かせた。よかったってなにが? 騙されていたと分かった直後の台詞ではない。
「や、てっきり『別れる』とか言われるのかと」
「え?」
「え?」
「え、話聞いてましたか? 私たち恋人じゃなかったんですよ。……別れるもなにも、」
「いやでも! この三ヶ月は恋人だったし! もうこのままでいいと思うんですが!」
「何言ってるんですか?」
 いいわけがない。どうしよう、彼の精神をおかしな感じに洗脳してしまったのだろうか。シンヨコに住むうちに催眠術とか使えるようになっちゃったのかな、私。
「お、俺のきすが下手だったからですか」
「ええ? いや、それは関係ないですけど」
「でも否定はしてくれないんだ……ウェ……」
「……冷静になってみてください、ロナルドさん。記憶がないのをいいことに関係を偽って教えて、三ヶ月間も騙してくるような女と付き合い続けるなんておかしいでしょう?」
 自分の言葉で傷付きつつ、これ以上彼を変に刺激しないためやさしい語調で諭す。潤んでふやけた瞳が私へと向いた。
「だまされてません」
「騙されてたんですよ」
「おれ、しってました」
 ロナルドさんはず、と鼻を啜りながら、目を袖で乱暴に拭った。
「記憶、次の日には戻ってたんで」
「は……え、そ、そんなのうそです! だって、恋人だったときの思い出とかやたら聞いてきたじゃないですか!」
「あれは……ああすれば、あなたがなにをしてほしいのか分かるかなって……」
 展開に理解が追いつかず、彼を見つめることしかできない。目元を赤くした彼は、私を真っ直ぐ見つめた。
「俺は知った上で、記憶がある上で、ずっとあなたと恋人してたんです」
「な、なんでそんなこと……」
「それは、その……お、俺もあなたのことが、好きなので」
 恥ずかしそうに少し口篭ったが、ロナルドさんはそれでもはっきり言い切った。
「ずっと好きでした、今も好きです」
「や、やめてください――」
「やめないです、すきです」
 一度口にして吹っ切れたのか、彼は「好き」という言葉を何度も繰り返しながら私の隣に腰を下ろした。自分の顔が真っ赤なことなんて、鏡を見なくても分かる。情けないところを見られたくなくて腕で頭を庇うけど、手首を掴まれてしまった。顔を覗き込んだ彼は私と同じくらい顔を赤くしながらも、むずがゆそうにゆるりと口を綻ばせた。
「俺のこと好きだからあんなウソついたんですよね?」
「ち、ちが――」
「エッ?!?!!!」
「……ちがわない、ですけど」
「よ、よかった。死のうかと思った」
「あの一瞬で……」
 おかしい、私は別れにきたのに。軽蔑されて絶交される覚悟だったのに。なにがどうして私は今抱き締められているんだろう。
「すみません、俺も早く言うべきでした」
「ロ、ロナルドさんに悪いとこなんて一つもないです、発端は私なので……謝らないでください」
「いつもそう言ってくれますよね」
 なんのはなし、と胸の中で顔を上げれば眦をとろかしたロナルドさんが私を見下ろしていた。「そういうやさしいところも好きだな……」独り言のようにまた呟かれる。そろそろ羞恥で息が出来なくなってきた。死ぬ、ロナルドさんに殺される。最後にこれだけは伝えておこうと彼の名前を呼んだ。
「ごめんなさい、好きです」
「……謝らないでくださいよ」
 彼は困ったように笑って、「好きです」と再び言葉を落とすと、ゆっくり顔を寄せた。触れるだけの唇はまたしても震えていて、こんな時なのに笑いそうになってしまう。ロナルドくん、やっぱりへったくそだなあ。

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