卵事変


 カノジョの家に久しぶりに遊びに行く。今日のために原稿だって死ぬ気で終わらせたし、今日が休業であることは一ヶ月以上前からホームページにしっかり載せておいた。彼女にそのことがバレた時は恥ずかしかったけど、ウザがったりキモがったりしてるふうではなかったし、なんなら照れ臭そうにはにかんでいてとんでもなく可愛かったので結果オーライだ。思い出し笑いのせいで口元がニヤける。しかしニヤケ面で公道を歩くのはあまりに不審者じみてるので、俺は血が滲むほど口内を噛んで平常通りを取り繕った。不意にピロンと上着のポケットから通知音が鳴る。さっきもうすぐ着くと連絡をいれたから、その返信スタンプだろうかと思ったが、送られてきたのは普通のメッセージだった。
【卵買ってきてほしい】
【できれば8個の】
 ……もしかして夕飯オムライスだったりする? 俺のための、オムライス。好きな人が好きなものを俺のために作ってくれる。いよいよニヤケが止まらなくなった。不審者上等、なぜって今の俺はこんなにも幸せ。世界一の果報者。俺は了解とスタンプを返してスマホをしまい、スーパーに向かうため進路を変えた。
 ◆
 八個パックの卵がない。二、四、六、十……単体売りすらあるのに八個だけ綺麗になかった。
「あの、八個入りの卵ってもう売り切れちゃいましたかね……?」
「八個……ええと、大変申し訳ないのですが、八個パックの卵は当店ではお取り扱いがありません」
 恐る恐る尋ねると、店員さんの顔が少し困った顔になった。そして小首を傾げつつ告げられる控えめな言葉。ヒュッと息を飲んで蚊より情けない声で「あっそうですかすみません」と早口で言って俺はスーパーを後にした。いや、今日日卵なんてどこにでも売ってる。コンビニ、コンビニだ。コンビニが腐るほどある現代文明に感謝しなくては。
 ◆
 ない。俺の足で行けるだけのコンビニをハシゴした。が、見つからなかった。コンビニの店員さんにも一縷の望みをかけて確認してみたが、どこの店舗に行ってもお取り扱いなかった。この短時間で一体どれほどのコンビニとスーパーを回っただろう。ついさっきまで幸せの絶頂にいた可愛い彼女持ちの最強退治人だったのに、今や八個入りの卵を異様に求める買い物もろくにできず恋人に捨てられそうなダサルドになってしまった。結局まだ卵買えてないし。そもそも八個入りパックなんてこの世にない気がする。つまり彼女は四個入りを二つ頼んだ?……そんなわけないよな。どうしよう、このままじゃ買い物もろくにできないダメ男だと思われる。胃に鉛が入っているような重い気分になっていれば、ふと脳裏に自宅に居座るいけ好かない吸血鬼のムカつくダブルピースが過ぎった。そうだ、料理に詳しいやつなら八個入り卵の売ってる場所を知ってるかもしれん! 揶揄われるかもだが背に腹は変えられない、帰ったら百回殺そう。早速電話をと勇んで携帯をとりだしたところで通知音とともに、【大丈夫?】と彼女からのメッセージが浮き上がり、これ以上の寄り道はもうできないと悟る。だいじょばない。もうなにも、もうだめだおれは。捨てられるんだ。死ぬ。仕方なく十個パックの卵を購入して、俺は死刑台へと歩みを進める囚人の気持ちで彼女の家へと向かった。
 ◆
「ありがと〜冷蔵庫に三個しかなかったの忘れてて」
「ウウン……ゴメン……」
「なんで謝るの、おつかいありがとね」
 にこにこで俺を出迎え、ビニール袋を受け取る彼女に滝汗を流して目を逸らす。な、なんて言われる。怒られる? いや、いっそ怒ってくれ。呆れないでほしい。次からはちゃんとするから、もっと頑張るから。今日はご飯抜きでもいいから。彼女はキッチンのシンクに袋を置き、中を覗いた。固唾を飲んで沙汰を待つ。
「どうする? 卵――」
「へっ?! なに?! 土下座?!」
「え? いや、卵何個食べたい? って……」
「恵んでくれるの……?」
「ロナルドくんのために作るんですけど……?」
 キッチンにハテナが飛び交う。彼女は俺の様子がおかしいことに気付いたのか、「どうしたの?」と慌てて卵を置いた。額に手を当てられ、その体温に少し涙腺が緩みそうになる。こんなに心配してもらえるのもこれで最後かもしれないんだ。
「顔が真っ白、ごめん今気付いた……体調悪い? 疲れた? 休んでていいよ。オムライスやめる?」
「や、やめない……え、怒らないの?」
「なんで私が怒るの?」
 しょぼしょぼと八個入り卵はどこにも売っておらず買うことができなかったと白状すれば、彼女は「えっ」と驚いたように声を上げ、狼狽しながら卵と俺を交互に見た。
「な、なかったの。え、八個入りってないの? じゃあこれ――うわ、十個入りだ! うそじゃん私!」
「え、え?」
「アハ、ごめん――あのね、私、これまでずっと十個入りを八個だと思ってたみたい」
 彼女は笑いながら恥ずかしい〜と手をパタパタさせる。つまり、彼女が求めてたのは最初から十個パックってことで――え、じゃあ俺、捨てられない? 彼女は呆然とする俺の顔を両手で包み、むにむにと柔く揉んだ。照れ臭そうにはにかみ、おれの大好きな顔をしている。
「ごめん、混乱させちゃったよね。私が馬鹿でした」
「……や、俺も写真撮って確認するとかすればよかったし……」
 はあと、息を吐くと、野菜がたっぷり煮込まれたポトフの香りに気が付く。途端に張り詰めていた神経が解れ、つい倒れ込むようにして彼女を抱き込んでしまった。「なあに?」くすくす笑う声が鼓膜を擽る。ふわりとシャンプーか柔軟剤か、よく分からないけれどとにかく甘い匂いがした。
 お腹の空くやさしい匂いが漂っていて、体の芯がじわじわ溶けていきそうなほど温かくて。腕の中のふわふわした愛しい存在は俺を信頼しきって甘えるようにその身を寄せている。こんな御伽噺がごとく幸せな空間に自分がいるという現実が信じられなかった。
「……すき」
「急だなぁ」
 夢見心地だったせいか、いつもなら緊張してまともに言えないはずの言葉が自然と口から零れる。かんばせを花のように綻ばせた彼女を、俺は尚更きつく抱き締めた。

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