口実の2月14日


 少しでもこの寒さを軽減させようと、はあっと白い息を吐き出してかじかんでいた指先へと吹きかけた。剥き出しの耳をごしごし擦ったり、デニールの低い薄めなタイツに覆われた黒い膝小僧を擦り合わせたり。こんなことでとれる暖なんてたかが知れていたが、それでも気持ちだけは先程と比べれば幾分かマシになった。
 手に入れられた一時の安寧に満足して、顔をマフラーへと控えめに埋める。寒いけど、あまり押し付けると化粧がマフラーについてしまうから。残念ながら口紅はとっくのとうに落ちてしまったけれど。
 
 そんなふうに寒さを誤魔化して誤魔化して誤魔化して、その手段がもう歯を立てなくなるほどに時間が経った頃。私は殊更大きな息を天へ吐いた。指へ吹きかけるためのものではなく、現在自分が抱えている遣る瀬無い想いを逃がすためのものだ。

「……好き、だったんだけどなぁ」

 口内でゆっくり転がすように呟かれたその言葉は、誰にも拾われることなく真綿のようなおおぶりの雪とともに地面に溶ける。私はそれを特段哀しいとも虚しいとも思わなかった。なぜなら今私の頭を占めていたのは『寒いから早く帰りたい』という感情のみだったからだ。だってもう雪まで降り始めてしまった。道民じゃないし摂氏零度だなんて非日常もいいところなのだ。いやまあ寒がりの道民も当然いるだろうし、零度でなくても雪は降るのだがそれはこの際どうでもいい。

 とにかく今は寒かったのだ。

 フェンスに預けていた背を浮かせると反動でガシャンと軽い音がたった。シンと静まり返った空間を無粋に切り裂くその音にひっそり顔を顰めながら、汚れてはいないだろうがなんとなくコートをはたく。
 くるりとその場でターンしてしゃがみこむと、手にしていた大きな紙袋から用意していた高級チョコを取り出して冷え切ったアスファルトの上に置いた。その上に誕生日プレゼントや卒業祝いの品、旅先で買ったご当地キャラのキーホルダーなどを積んでいく。全て置き終わると、ここ四年分あるだけに小さな山のようになっていた。バランスが悪かったのか、てっぺんに鎮座していた間の抜けた顔のキャラクターが無様にコンクリートへと転がる。あーあ、かわいそ。形ばかりの同情はしても位置を直すことはしなかった。寒さに気力を全て奪われていてそんなことをする力すらでない。淡いレモンイエローに染められた爪でキーホルダーを軽くつついてからよっこいせと立ち上がる。空になった紙袋を丁寧に畳んでカバンにしまうと、背を向けて歩きだした。

 
 さようなら降谷くん。

 もう二度と会うことはないのでしょうね。

 
 ###

 全身を包むひんやりとした空気にゆっくりと意識が浮上する。開け放たれたドアの外に目をやれば自分の最寄り駅が書かれた看板が視界に飛び込んできた。いけない、寝過ごすところだった。慌てて立ち上がり閉まりかけたドアの隙間に身体を滑り込ませて駅のホームへと踊りでる。ドア付近の人々から送られる迷惑そうな視線から逃げるように足早に階段へと向かっていった。



『想いを寄せる、あの人へ愛を込めて』

 改札を抜けるなり私を出迎えた、そんなチョコレート会社のキャッチコピーにぱちりと一つ瞬きを落とす。へぇ、そうですか。自分でもびっくりするくらいの冷え切った感想に一拍遅れて苦笑が漏れた。

 バリエーション豊富な、見ているだけで胸焼けしてしまいそうなほどに甘ったるい文句を惜しげもなく衆目に晒す広告の間を抜けてのろのろと街を進んでいく。どこを見ても『きたるべき日』に向けて相応しい品を選別する女性たちが所狭しと立ち並んでいた。寒さか興奮か分からないが、チョコを見定めているその誰もが頬を赤く染めている。なんとも可愛らしいことだ、とまたここでも他人事な感想が胸を占めた。まあしょうがない。だって想いを寄せるあの人などいない身の自分に、バレンタインなどなんの関係もない話なのだから。
 ……とはいっても、食べ物が絡めば話はまた変わってくる。あ、あの期間限定のチョコ美味しそう。ショーウィンドウ越しの色とりどりなチョコレートたちへふらふらと目移りをさせていれば、自然と手は財布を取り出そうと鞄へと伸びていった。しかしコートの襟を立てるように吹いた夜風に身を震わせると同時に財布の素寒貧具合を思い出し、慌てて手を引っ込める。今月は自分へのご褒美だとか言い訳して無駄遣いする余裕がないのだ。先月、『新年』という名目で遊びすぎた。……あとついでにいうなら正月太りが未だに落ちていない。チョコレートを食べる余裕など、ない。
 諦めるには十分すぎるその理由たちに、内心で溜め息を吐きつつその場から背を向けた。どちらにせよ、キラキラしたこの場所は酷く目に毒だったのだしこれで正解だろう。
 

 年を明かして、草の粥を食べて。鬼に豆を投げたかと思えばもうバレンタイン。そりゃあ日々の生活に忙殺されていれば季節毎のイベントなんて疎かになって当然だが、しかしそれにしても早い。あまりに早すぎる。なんなら気分はまだ大晦日だ。時代に追いつけないにも程があるだろう。これはもしかしたら気付かないうちにタイムリープしてるのかもしれない。家に帰ったら二の腕に数字がないか確認せねば。未来が待ってて欲しい。とりあえず今は信号まで走るから。
 
 少し前方で点滅しだした青い光に急かされて、パンプスが地面を蹴った、そのときだった。
 唐突に腕を背後から引っ張られ、がくんと身体が大きく揺れる。突然のことに驚いて、信号がとか不審者だとか、そんなことを考えるよりも先に反射的に後ろを振り向いた。

「……え?」
「……」

 私の腕を掴む『彼』を瞳に留めた瞬間、幾つもの感情がぶわっと滝のように溢れ出す。それは長年探していた宝物がひょっこり顔をだしたみたいな、そんな喜びと懐かしさ。それから、これまで見つからなかったことを責めるようなほんの少しの怨憎。匙一杯分にも満たないが、確かに感じたその不快感を私は拭い去ることはできなかった。その事実を勝手にきまずく感じながらも恐る恐る口を開く。

「……降谷、くん?」

 私の問い掛けに『降谷くん』は口を結んだままその目を見開いた、ような気がした。

###

 さて、ここで突然だが私と『降谷くん』の話をしたいと思う。
 
 彼は私が保育園に入園する直前に隣のアパートに引っ越してきた。彼のもつ陽の光にキラキラと反射する金髪。それから健康的な小麦色の肌。極めつけに海のように澄んだ瞳。それらはどれも、とても綺麗なものだったけれど、日本人離れしたその容姿は幼子たちの琴線にいい意味でも悪い意味でも酷く触った。
 一部の女の子はおままごとの度に彼を王子様に見立て、姫役は自分だとこぞって彼の腕を引っ張った。興味はなくとも、空気として、いや空気以下としての扱いは気に食わない。そんな理不尽な理由で一部の男の子たちは『変な髪』『おかしな肌』と、降谷くんの容姿を揶揄いはじめた。もちろん降谷くんもやられっぱなしではなく負けじと言い返すが最終的には取っ組み合いになって終わるまでがお決まりの流れで。結果はいうまでもないが、多勢に無勢。手も足もだすことは適わず、彼ばかりが頬と目を腫らすことがしばしばであった。

 ボロボロの姿で、尚且つ泣きべそをかいた顔で隣の家に帰っていくのをいつまでも見過ごせるはずもなく。

「これ、バンソーコー。……あげる」
「……え?」

 やたらとキラキラしたおめめの可愛いキャラクターが印刷された絆創膏を眼前に突き出され、普段はきゅうっと歪められている彼の口がポカンと開かれる。小さく首を傾げこちらを見上げるその瞳には、涙のヴェール越しからでもハッキリと分かるくらい困惑が色濃く滲んでいた。ぱちぱちと彼が瞬きをすれば、ポロリと涙が一粒地面に落ちる。呆けたままで一向に絆創膏を受け取ろうとしない彼に一抹の気まずさを覚えたが、出した手を引っ込めるのはなんとなく嫌だった私は無言のまま絆創膏を彼の方へと近付けた。
 たっぷり五分以上経った頃、ようやく褐色の手こわごわとが伸びくる。彼は、手にした絆創膏越しに私を不思議な表情で見つめていた。

「ありが、と、う……」
「どういたしまして」
「……ボク、降谷零」
「……零くん」
「……うん、そう。……きみは?」
「私は――――」

 名乗った名前を、先の私と同じく舌先で転がすように繰り返す。そして彼……零くんはその顔ににっこりと笑みを咲かせた。

 これが私と彼の分岐点その一だったのだろうと、今にしても思う。
 

 私達の関係に小さな小さな、目に見えないほどの亀裂が入り始めたのは、多分小学校三年生の頃だ。なぜ、と言われても明確な理由を答えることはできない。それはきっと、彼も同じのはず。
 敢えて挙げるとするなら、このぐらいの年から『男子』と『女子』が仲良くするのはおかしなことなのだと、なんとなく察し始めたからだろうか。

「降谷くん、さっき先生が呼んでたよ」
「……分かった」

 自然と、お互いがお互いに気付いていないようなフリをしながらの学校生活を送り始めた。どうしても話さなきゃいけないときは味気ない苗字で呼び合うようになった。

「ゼロー! 今日先生のとこ寄って帰ろうぜー!」
「ん、そうだな」

 当然、背中に飛びつくだとか肩に手を回すだとか、そんなスキンシップなんてとらなくなったし、一緒に下校することもなくなった。私の知らない男の子と二人並んで、楽しそうにしている降谷くんの後ろ姿を見つめてこっそり首を傾げる。降谷くんの影、あんなに大きかったっけ。眩い夕陽が作り出した彼の影は、遠い日の記憶よりも心做しか長く引き伸ばされていた。
 
 喧嘩をした訳でもないのに。嫌いになった訳でもないのに。それでも私達はじわりじわりと、確実に距離を開いていく。大人になるとはこういうことなのかと、子供ながらにぼんやり考えた。
 
 あの場所は、彼の隣は私だったのに。
 なんて今更な後悔も、少しだけ。


 そうやって四年が経ち、私達は中学生になった。地域が一緒だから当然、二人とも同じ学校に進学することになる。入学したその日に校庭に張り出されたクラス名簿の、自分のクラスの下の方に幼馴染の名前を見つけ、微かに眉根が寄る。
 だってしょうがないじゃないか。また『知らんぷり』の生活が続くのかと思うと、ちょっぴり鬱にもなってしまう。仲の良かった頃を思い出して寂しくなるから。
 だがそんな子供っぽいことを考えているのはきっと私だけなのだろう。少し前方に見え隠れする、彼の人目を引く金髪にこっそり溜め息を落とした。……降谷くん、背、伸びたな。昔は私の方が高かったのに、もう同じくらいだ。なんだか悔しい。

「あ、いた! ねえ、何組だったー?」
「え? あ、三組だったよ!」

 無意識のうちに尖っていた唇を慌てて隠し、笑顔を作って呼びかけてくれた友達の方へと足を進めた。
 男女の成長期について私が学ぶのは、これよりもう少し後の話である。

 
 歪な均衡が崩れたのは、その年のバレンタインからだった。いわゆる分岐点その二だ。
 学校帰り、家の真ん前で降谷くんに腕を掴まれて引き止められる。これまでつかず離れず……いや、どちらかといえば離れがちな距離感を保ってきたというのに、突然なんだというのだろう。

「……」
「……」
「……今日、バレンタインだから」
「うん……」
「……だから、欲しくて」

 長い沈黙を破ったのはどこか頼りないフラフラとした彼の声だった。確かに、今日はバレンタイン。私も友チョコを作ってクラスの子と交換したし、それは知っている。それに彼が机に乗り切らないほどのチョコレートを貰っていたことも。腐っても同じクラスなのだから、意識してなくても、それくらいは。というか現に今も降谷くんの手に大きな紙袋があるし。
 いまいち要領を得ない主張だったが、当の彼はそれ以上の説明をするつもりはないようで、きゅっと口を噤んでしまった。バレンタイン、だから、欲しい。……チョコレートのことだろうか? でも彼はあんなにたくさん貰っていたのに。降谷くんって甘党だっけ? いや、そんな記憶はない。

「……だめ、か? それとももうない、とか」
「え、いや、ないことはない、けど……」

 考え込んで返事をするのを忘れていれば、焦れったそうに言葉を重ねられる。強く寄せられた眉や何かを耐えるようにへの字に曲げられた口。不安そうに小さく揺れる碧い瞳に寒さで赤くなったほっぺた。どこか泣きだしそうにも見えるその表情は幼い頃の彼とうっすら重なった。降谷くんの顔、こんなちゃんと見たの久しぶりな気がするなあ、なんて冷静な自分が頭の片隅で場違いな感想を漏らす。

 ……もしかして、ただの口実だったりするのだろうか。
 私と話したかっただけ、とか。

 そう考えた途端に、彼に掴まれている手が熱くなってくる。指先だけは冷たいのに、触れられているところだけが火傷したような、そんな錯覚が襲ってきた。

「……手、離してほしい」
「……」
「チョコ、あげるから」
「ほ、ほんとか?!」

 私のお願いを拒絶するように、一瞬手を掴む力は強まったが、言葉を続ければ彼はパッと目を輝かせた。念押しのような台詞に無言で頷けばゆっくりと手が離される。内心で安堵のため息を吐きながらチョコを探して鞄を漁った。確か一つ、余ってたのがあったはず。
 もちろん、これが『口実』だというのはあくまでも私に都合のいい憶測で、彼がそんなことを考えているなんて確証は一ミクロンとしてない。単に彼の気まぐれかもとか、そんなことはちゃんと理解してはいた。でも、そう、今日はバレンタインだから。心の中で誰ともなくそんな言い訳をしながら、予備で用意していた分を彼へと差し出す。

「……これ、一人で作ったの?」
「うん、まあ」
「……じゃあ、手作り、だ」
「う、うーん……?」

 独り言のようにそうぽつりと呟かれ、思わず返事に窮する。溶かして固めただけの、簡単すぎるチョコ。湯煎するだけだから一人で作るには作った。しかしそれを手作りと胸を張って称するには些かの烏滸がましさを感じてしまう。困惑ゆえにどっちつかずな態度をとったのだが、彼はもとより返事は求めていなかったようだ。彼は手元のチョコを数拍眺めた後、ほんのり口端を緩める。

「ありがとう、大事に食べる」
「えーと……無理はしないで、ね?」
「なんだよそれ」

 訝しげな彼へ曖昧な笑みを返す。溶かしただけで変なものを混ぜているわけでもないし、別に味の心配はない。ただ、たくさん貰ってたから。自然と紙袋へ動いた視線に意図を察したのか、降谷くんはムッと顔を顰めた。送られてくるじっとりとした視線からなんとなく咎められている気分になってわたわたと弁解する。

「ほら、たくさんあるから大変かなって! 全然あの、なんなら捨てちゃっても……」
「捨てない、絶対に捨てないからな。お前のやつは一番最初に食べるし、一番最後にも食べる」
「えぇ、なにその執念……」
「いいだろ、別に! ……じゃあ、また明日」
「…………え」

 去り際におまけの如くちょこんと付け加えられた別れの挨拶は、予想外もいいところで。脳の処理が追い付かず間の抜けた短い呟きだけが彼の背中を追い掛けた。だって『また明日』だなんて、何年ぶりだろうか? ああ、私もちゃんと、返事すればよかった! 悔しさでそんな地団駄を踏みそうになったが、ここは外。そんな醜態を晒せば今後のご近所付き合いに重大な支障をきたしてしまう。主婦の井戸端ネットワークの速度は侮ってはならない。地団駄なら家の中で好きなだけ踏めばいい。そう考えて家のドアを開けた。

「ただいまー」
「おかえりなさい……ってあんた、なにニヤニヤしてるの?」
「し、してないよ!」

 翌日、僅かばかりの期待を抱いて登校すれば、まあいつも通りの知らんぷり生活だった。なんとなく予想はしていたが、がっかりしなかったといえば嘘になる。
 しかしそれでも、昨日の思い出だけで向こう三十年は生きていけると、確かにそう思った。あの短いやり取りだけで、最後のたった一言だけでそう思えてしまうなんて、あまりにも単純だと自分でも分かってはいたけれど。
 
 

 ……と、そんな感傷にびたびた浸ったというのに。
 なんとこのバレンタイン限定の幼馴染回帰はその年以降もずっと続いた。中学を卒業して、別々の高校へと進学しても尚だ。高一のバレンタインは休日だったから帰りに家の前で、というイベントは発生しなかったが、でもまさか家まで押しかけてくるとは。扉を開けた途端「ん」と手のひらを突き出して要求されて、『あ、この儀式まだ続くんだ』と呆けてしまった。

「なんだかなぁ……」

 少し遠くにある発券機の前で、ポケットに手を突っ込んで立つ降谷くんを見て小さく独り言ちれば、それに伴って吐き出された白い息がふんわりと宙に溶けた。
 今日は、高校最後のバレンタインだ。
 
 近くまで行くと降谷くんは片手を上げて「おはよ」と挨拶をしてくる。応えようと口を開くがそれと同時に大きな欠伸が込み上げてきた。勢いを噛み殺せず欠伸とともに間抜けな声が漏れる。

「おは、よぅ……」
「でっかい欠伸。眠そうだな」
「当たり前じゃん。何時だと思ってんの」

 滲んだ涙を拭いつつ、面白がってるような声音に恨みがましく返事をする。時刻は朝の五時ちょうど。普段だったらまだまだ余裕で布団にくるまっている時間だ。こんな早起き滅多にしないし、部活も入っていなかった身にはなかなかきついものがある。
 ホームへ移動し、電車を待つ間に用意していたチョコを取り出した。彼は満足げに受け取ると、礼をいって嬉しそうにその瞳を蕩けさせた。この謎の儀式が始まって数年経つが、彼が何を考えているかは相変わらず分からないままだ。まあ彼と交流できる唯一の日なんだし、別に文句はない。ただこんな早起きはもう御免なだけで。

『一番線、電車が参ります。黄色い線の内側まで下がってお待ち下さい』
「あ、来た」
「始発電車なんて初めてだよ……」
「はは、僕も」

 なにわろてんねん。何故か楽しげに笑う降谷くんに半目になる。バレンタインの降谷くんは総じてご機嫌だが、今日はいつもの三割増しくらいご機嫌な気がする。鼻歌まで歌ってるし。今年は随分と分かりやすいな……。
 線路を滑りるように音もなく進み、もったいつけてゆっくりと停まった電車は、プシューっという軽い音を立てて扉を開いた。中から流れてきた暖かい風に誘われて足が動く。
 お日様もまだ顔をだしていないこの時間帯。がらんとした車内を照らすのは無機質な温度の蛍光灯だけだった。肌を突き刺す鋭い寒さにつつかれて、早足で一番端の座席に腰掛ける。椅子下から送られてくる熱風にほうと息をついた。
「混んでないんだからそんな慌てなくても」と苦笑を浮かべた彼が私のあとを追って隣に座る。こんなに広いのにぴったり隙間無しの隣同士で座るなんて、もったいないような、それでいてどこか、こそばゆいような。なんだか変な感じだ。胸に燻った妙な感情を隠しながら「だって寒いじゃん」と少し早口で返事をした。

「スカートの丈直せば少しはマシになるんじゃないか?」
「これが許されるのあと一ヶ月もないのに? それは嫌」
「……女子高生って大変なんだな」

 それはその通りなんだけど、なんか感想がオヤジ臭い。しかし口にすればめんどくさく拗ねるのは目に見えていたので、大仰な仕草で重々しく頷くだけに留めておいた。
 
 
 高校までの電車の方向は同じ。だがかかる所要時間が違ったからか、これまで降谷くんと電車で鉢合わせたことはなかった。こうして同じ電車に乗り合わせるのは、三年目にして初めてである。

「……こうやって一緒に登校するの、初めてだな」
「私も今、同じこと考えてた」
「うーん……それは嘘だな」
「なんでよ」
「あいたっ」

 わざわざ腕を組んで真面目くさった調子でそう言い放った彼の腕をぺしりと叩く。大して力を込めていないのに大袈裟な反応をするから、徐々に力を強めて二発三発と続ければ「ごめんって!」と慌てたような謝罪をされたので私も動きを止める。
 思い返せば、いや思い返さずともくだらないやり取り。まるで小学生みたいだ。降谷くんも、またそう思ったようで二人顔を見合わせてくすくすと小さく笑いを零した。
 
 始発電車で、尚且つ先頭車両だからか乗ってくる人は一向に現れない。だというのに、何故か二人とも息をひそめるようにして、ポツリポツリと会話をした。ガタゴトと電車が線路を走る音と、それに紛れるひそひそ声。それから控えめな笑い声がふたりぼっちの車内を廻る。
 ふとドア上のパネルに目をやれば、次に停車する駅はもう学校に近い場所だということが分かった。もうここまで来ちゃったんだ、とどこか残念な気持ちが胸を占める。あと十分もすれば、学校、着いちゃうな。降谷くんに会うための早起きだったのに、もうお別れになるの、やだなあ。そう考えた瞬間、『早起き』というワードにつられたのか、忘れてた眠気が突然襲ってきて再び欠伸がでた。隣から小さく吹き出す音がする。

「いいよ、寝てても。着いたら起こすから」
「……や、大丈夫」
「そうか? ……、……なあ」

 彼の申し出はとても魅力的で、それはもう気持ちがおおいにぐらついた。が、初めてにして最後になりそうな彼との登校を、眠って過ごすなんてつまらないことはしたくなかった。緩慢に首を振り、腕をグッと伸ばして眠気を覚まそうとする。ああでも、一度自覚してしまうとだめだ。ちょっと熱いくらいの足元の熱も相まって、全然意識が覚醒しない。
 なんとか眠気に対抗しようとしていれば、不意に降谷くんがなにかを言い淀んだ気配がしたので瞼を半分下ろしたまま「んー?」と唸って続きを促した。口を動かすのも億劫になってきたとか、そういうわけではない。

「……僕、警察になろうと思ってて」
「けーさつ……」

 うとうとしたはっきりしない意識のまま、彼の言葉を復唱する。けーさつって、あの警察? ドラマとかでよくみる? へえ、すごい。うまく説明できないけど、なんかすごく零くんらしい気がする。

「ヒロ……えっと諸伏って覚えてるか? 小学校一緒だったやつ。あいつと一緒に警察学校に行くんだ」
「諸伏……? 諸伏って……あぁ、零くんのお友達の、あのずるい人」
「れっ……、え、ずるい? ずるいって、ヒロが?」

 私の言葉が想定外だったのか、零くんは一瞬ぎょっとしたように顔を強ばらせた。しかしすぐにその表情を不思議そうなものへと変える。心当たりがないと言いたげな彼の顔付きに自然と唇が尖っていった。だってそんなの、聞くまでもないことじゃないか。

「……ずるかったよ。だって私も、零くんと仲良くしたかったのに」

 あの人ばっかり、ずっとずっとずるかった。
 そっぽを向きながらそう言葉を紡ぐと、ヒュッと息を呑む音がした。もしかして、驚いたの? 私が寂しいと感じてないとでも? そんなわけないでしょ、バカ。零くん、頭いいのにそういうとこはバカだよね。
 ずっと溜め込んでいた文句を一つ落としたことで堰が切れたのか、口が勝手に動きだす。

「零くんはヒロって呼ぶし。私のことは名前で呼んでくれないのに」
「……えっと、あの、」
「私のことは無視するのに」
「いや無視っていうか、あれは、」
「私の方が、先に零くんを見つけたのに」
「、――――」

 思い返せば返すほど、口が止まらない。子供のような駄々を畳み掛けるように連ねてしまう。どうしていつもあの人ばっかり。ずるい。私も、私だって。そんなことを繰り返し呟いた。しかし気が付けば、戸惑いがちだった零くんの声が聞こえなくなっている。不思議に思って隣を見ると彼は両手でぴっちり隙間なく覆ってその顔を隠してしまっていた。

「あー、もう、ほんとに……」
「何してるの、ねえ」
「ずるいのはどっちだよ……」
「ちょっと、零くんってば」
「タンマくらいさせてくれ……」
「やだ、ちゃんとこっち見てよ」

 私には分からないようなことばかりをブツブツと繰り返す零くんに腹が立ったので、彼の手首をぐいぐい掴んで引っ張る。初めのうちはビクともしなかったが、それでもやがて聞こえてきた観念したようなため息に勝利を確信した。いや、別に勝負してたわけじゃないんだけど。綺麗に切り揃えられた爪の先から恨みがましげな瞳がちらりと覗く。パチリとかち合ったその色に満足してへへっと目を細めると、彼の瞳も不機嫌そうに歪んだ。

「なんだよ」
「零くんの目、やっぱり好きだなぁ」
「っ、……」
「来年は青いチョコ、あげるね」
「えっ」

 頬を引き攣らせたが、それでも彼は息を吐くように軽く笑って相好を崩した。どこまでも優しい色をして蕩けた瞳に、どきんと心臓が高鳴る。

「来年のやつはちょっと怖いな」
「……大丈夫、ちゃんと美味しいやつ作るから」
「ん、分かった、期待してる。お前のはいつも美味しいし」

 こともなげに告げられた言葉に目を瞬かせる。感想貰ったの、初めてかも。自覚すればじわりじわりと歓喜の波が寄ってくる。突然ニヤニヤとだらしない顔をし始めた私に、零くんが首を傾げるからなんでもないと言って平静を努めようとする。が、それもどうにもうまくいかない。こんなに嬉しいの、いつぶりだろ。大学受かったときだってこうはならなかったのに。

「ん、ふふ。ねえ、バレンタインっていいよね」
「え? まあ、そうだな?」
「うん、いい。お菓子は美味しいし、今日だけは零くんと仲良くなれるし」

 だから、好き。
 ゆるゆると溶けた締まりのない顔のまま思いの丈を吐き出す。そしてそのまま、ゆっくりと瞼を下ろした。眠いような、眠くないような、ふわふわとした感覚。夢見心地ってこういうことをいうのかな。 ……あ、やばい、寝そう。駅まであと残りどのくらいだったっけ。

「……好きなのは、バレンタインだけ?」
「ん……?」
「……僕の、ことは?」

 やけに凪いだ声色がやんわりと鼓膜を揺らした。緊張と同じくらいの期待を孕んでいる声に、また笑ってしまう。零くんってほんと、バカだなぁ。
 
「そんなの、もちろん――――」
 
 ガタンと、私たちを不規則に揺らしていた律動が止まる。慣性の法則で前に倒れかけた私を零くんの腕が慌てて受け止めた。がっしりとした、男の人の腕だとどこか微睡んだ意識の中でぼんやり考えながら電車の外へと視線を流す。

「……うわ降りなきゃ!!」
「え、あ、……またな!」

 追いかけてきた、チョコありがとう! という声に振り返らないままおざなりに返事をする。電車から飛び出せば、コンマ一秒の差で背後でドアが閉まり、ほっと胸を撫で下ろした。そうして、彼に手を振る間もなく走り出した電車の風に髪を巻き上げられながらも、人気のないホームを歩いていく。階段を上り、カードを通して、改札を出て、歩き慣れた通学路のコンクリートを踏み締める。興奮から解かれ徐々に落ち着いてきた頭が考えるのは、当然先程のことだった。
 
 ……えっ、私さっき、なんていった? いや、正確にいえばまだ言ってはなかった、けど。でも他にも色々まずいことを、言ったような気がしなくもなくもない。ていうかどさくさに紛れて名前で呼んじゃったし。そもそもあんなのほぼ告白したみたいなもんだ。賢くて察しのいい彼が気付かないわけがない。……バカな所もあるしワンチャン? いやねーよ。即座に自分の甘い考えを否定して頭を振る。ああもう、次会うとき……多分来年のバレンタインになるけど、そのときどんな顔をすればいいんだろう? 何か言ってくれるかな。それともなかったことにされちゃうのかな。もしそうなったら、もうそのときこそ言ってしまおうかな。

 ぐるぐると纏まらない考えを廻らせながらしゃかしゃかと足を動かす。一際冷たい風がいやに火照った頬を淡く撫ぜながら吹き抜けていった。
 
 来年が、待ち遠しいなあ。早く会いたい。
 ……あわよくば、彼も同じことを考えていたらいいな、なんて。


###


 と、ここまでが私と彼の最後の思い出だ。
 高三のバレンタインを終わりに彼との連絡はぱったり途絶えてしまった。隣家から人の気配はすっかり消え去り、メールをしても返信はなく。長いコール音の末に返事をするのは無機質な電子音声。
 要するに、『次会うとき』なんて、『来年』なんて私達には存在しなかったというわけだ。
 
 しかしそれでも、私は諦めることが出来なかった。
 だって初恋だったから。こんな形で潰してしまうのはどうにもしのびなかった。疎遠とかそんなつまらない理由で気持ちを捨てなければいけないなんて、あまりに寂しすぎる。
 
 ときに、拗らせた初恋ほど厄介で面倒なものはこの世に存在しないのではないだろうか。
 初恋を拗らせた女子大生は、彼への想いを後生大事に抱えようとした。ただひたむきに、一度たりとも余所見をせずに。端的に言えば、楽しいこと盛りの四年間を棒に振ったのだ。
 
 今考えると、まったくもって馬鹿らしい。よくもまあ連絡一つ寄越さない幼馴染にそこまで入れ込めたものだと、我ながら呆れてしまう。さすがに大学を卒業してからは諦めたが。自分に酔ってたのかな。それはちょっとだけあるかもしれない。でもやっぱり、それだけじゃなかったはずだって思いたいな。終わりが散々でも、できるだけ綺麗な思い出にしておきたいし。
 
 
 そう、『綺麗な思い出』にしておきたかったというのに。
 
 
 
「ご注文お決まりでしょうか?」
「ブレンド、ホットで。きみは?」
「……ホットティーお願いします」

 腕を掴まれ、話もそこそこに……というかなんの説明もないまますぐ近くの喫茶店に連れ込まれた。視界の端に映り込んだ『十時閉店』という看板の文字に慌てて時計を確認する。あと三十分ちょっとしかない。こんな閉店ギリギリに、なんて迷惑な客だろう。表面上は穏やかに接客してくれるが、なんとなくヒヤヒヤする。もっとこう、深夜まで営業してるファミレスとか……ああ、私と長話する気はないっていう彼なりの意思表示だったり? へえ、そう。勝手にそんなことを邪推して、澄まし顔で注文する彼を睨みつけた。

「……」
「……」
「お待たせ致しました」

 席についたときから微動打にしないまま、じりじりと時が流れる。連れてきたのはそっちなんだから、なにか喋ってほしい。そうして無言のままでいれば、暫くして、コトリと二つのカップがテーブルに置かれた。店員さんが腰を折ってお辞儀をして去ると、そこで彼はやっと言いずらそうに口を開く。

「……その、久しぶり、だな……」
「高三以来だもんね」

 淡々と返事をしながら紅茶を口に運ぶ。なんで『久しぶり』だなんてことになったかは、あなたが一番よく分かってることでしょうけど。短い返事でも私の言いたいことをきちんと察したのか、降谷くんは気まずげにもぞりと身動ぎをした。
 ……なんで今更、現れるのかな。昇華できてきてると思ってたのに。さっきの夢ってもしかしてこの伏線だったりするの? ありえない、最悪。こんなの、要らないのに。
 熱い紅茶を流し込みながら、心の中で恨み言を吐き出す。味なんてこれっぽっちもしなかった。熱いからかな、もうちょっと冷ませばよかったかも。

「……怒ってるか? いや、怒ってるよな、ごめん」
「それ、なに対してのごめんなの」
「……色々」

 曖昧でずるい言い方だ。癪に触って眉がピクリと上がった。机に置いたカップが、勢いあまってカシャンと音をたてる。降谷くんはそれに怯えるように小さく肩を跳ねさせた。怒られる前の不安そうな子供みたいなその様子が、初めて会ったとき、そして初めてチョコレートをあげた日の彼とダブって見える。
 ……前よりずっと背も伸びて、力も強くなって、男の人らしくなったというのに。変わらないそのさまに思わず毒気が抜かれる。なんだか、私一人ヘソを曲げているのがバカみたい。大きな溜め息を吐けば、所在なさげに揺れていた彼の瞳がそろりとこちらへ向いた。
 ああ、うん。もういいや、降谷くんだし。

「いま、なにより言いたいのが」
「……うん」
「元気そうでなによりだなってことかな」
「……え」

 目も口も、ぽかんとまあるくさせた降谷くんがなぜか無性に可笑しくて笑いが止まらなくなった。なんとか呼吸を落ち着かせて、なにがなんだか分からず、困ったように瞬きを繰り返す彼を横目に、ぬるくなった紅茶に再び口をつける。
 ……ああ、美味しい。次はもっと明るいときに来よう。
 
 
 久しぶりの再会に話の種は尽きることなく、当然花は咲きまくった。結局閉店ギリギリまで居座ってしまい、店員さんに追い出される形で慌ただしく店からでる。外で降谷くんを待ちながら、手持ち無沙汰になんとなく白い息を吐き出した。もう明日はバレンタインだなぁ。自分用のチョコレート、やっぱり買っちゃえばよかった。カランカランとベルを鳴らして支払いを済ませた降谷くんがでてくる。

「お金ありがと、幾らだった?」
「いいよ、別に」
「うーん、いや、でも……」
「……な、なら、明日!」

 めんどくさいやり取りをしていれば、意を決したような表情の彼が唐突に大きく声をあげた。心なしか頬が赤いように見えるのは気の所為だろうか。

「バレンタイン、だから……」
「うん、そうだね……?」
「……だから、欲しいんだけど」

 小さな声で「お前の作ったチョコ」と付け加えられ、驚きで目を見張る。見つめ返された彼はひどく恥ずかしそうだったが、それでも視線は逸らされなかった。

「……無理かな」
「っ……」
「明日も仕事だから、材料揃えに行けない」

 今日はもうお店も閉まってるし、作って渡すとなると早くとも次の休みになってしまう。私の言葉に降谷くんは虚をつかれたように口を開けた。さっきみたような顔、デジャブだ。

「青い着色料なんて家に常備してないし」
「青って、……あ」
「ふふ、ちゃんと美味しく作るんだから」

 懐かしそうに頬を緩める彼にふふんと鼻を鳴らす。ちゃんと食べてもらわなきゃ。数年前、美味しく食べてもらうために、何回も試行錯誤したんだもの。そう伝えると降谷くんは少し眉を下げて優しく微笑んだ。

「お前の作るものが美味しいのはちゃんと知ってるよ」
「……じゃあこれは?」
「ん?」

 小首を傾げる彼に、一先ずは気持ちを落ち着けようと深く息を吸った。
 吐き出した息が震えている。緊張で奥歯ががちがちとかちあった。心臓の音が身体中に響く。胸が痛いくらいに締め付けられて苦しい。
 それでも、拗らせたこの想いを昇華したくて。どうしても伝えたくて、薄紙をはぐような速度でのろのろと口を開く。

「零くんが好きだからバレンタインが好きなんだって、知ってた?」

 私の大好きな碧が、喜びを噛み締めるようにさざめいて、そしてゆっくりと蕩けていった。
 

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