何かが芽生え始めてる


 幼少期の刷り込みや思い込みは覆すことが難しいと思う。種を飲むと臍からその実が生えてくるとか、指を組んで寝ると死人に間違えられて死神に連れて行かれるとか。単純な私はこんな与太話を信じ込みやすい質だった。耳から入った蟻が身体の中で巣を作ると聞いていたら、今頃はゴマ粒にすら怯える人間になっていたに違いない。だが私が聞いたのは蟻の話ではなく、吸血鬼の話だった。聞いたというより、『観た』というのが正しい。恐ろしい吸血鬼に見初められた美女が拐かされ、必死に逃げ惑うというだけの、なんてことのないホラー映画だ。結末だって吸血鬼は朝日に焼かれて灰になり、美女は助けに来た退治人と逃げ果せたというありふれたハッピーエンド。それでも私の記憶には、美女を追うあの怪物の姿がしっかりと刻みつけられてしまった。
 影がないのが怖い。鏡に映らないのが恐ろしい。蝋人形のような血の気ない肌が不気味だ。鋭い爪に背筋が凍る。皮膚に牙を立て、肉を食い破り、生き血を啜るあの生き物を受け入れることができない。
 私にとって転勤先であるシンヨコハマは恐ろしい魔都だった。なにかと巻き込まれることが多いせいで荒療治ではあるが、ほんの少しだけ慣れたけれど。
 先日助けていただいたお礼をと、ロナルドさんの事務所来ていた私は、扉を開けるなりきゅっと心臓を握り込まれたような感覚に襲われた。
「やあ、昨日ぶりだね」
 吸血鬼という存在にも多少は慣れた。しかし未だに慣れない吸血鬼もいる。それがまさしく彼、ドラルクさんだった。彼は見た目も態度も、私のまさしく苦手とする『吸血鬼』で、初めて邂逅した時は死を覚悟して気絶した。聞くところによると真祖様の孫らしい。本当、さすがの貫禄だ。全く嬉しくない。ロナルドさんたちは過剰に怯える私に、「こんなんすぐ死ぬだろ」と安心させるように意図も容易く叩き殺してみせるけれど、死にやすいという点は私にとって一ミリもプラスには働かない。むしろ灰の山こそが勝利の証明であり安心材料だったのに、それを覆されて余計にトラウマですらある。死んだって生き返るなら(しかもこんなに素早く!)もうどうしようもないじゃないか。
 事務所にいたのはそんな超絶苦手としているドラルクさんだった。「来ると思ってたよ」なんて言う彼を他所に、縋る気持ちで室内に視線を激走させる。ロナルドさんはともかく、ジョンくんすらいない――つまり、今この場にいるのは私と彼の二人きり。二人。ふたり? え? ふたりなの? 心の中で繰り返して事実を認識し、全身の血の気が引いていつぞやみたくまた倒れそうになった。
「と、突然お伺いしてしまってすみません……! ご不在のようなのでまた日を改めます……!」
「まあそう言わず。ぶぶ漬けあるよ」
「大変申し訳ありませんでした改めます!」
「冗談冗談。きみが好きそうな香りのお茶を手に入れたんだ。淹れてあげるから座ってて」
「えっ、や、あの……」
 ドラルクさんはお上品に微笑んでキッチンへと隠れてしまった。引き留めようとして引き留められなかった手が力無く下がる。う、やだ、要らない。紅茶なんてほしくない。帰らせてくれればそれでいいのに。紅茶は好きだけど、今飲んだって……彼の前で飲んだって、どうせ味なんて少しも分からないのだから。料理上手なドラルクさんは、いつも来る度多種多様で見目も美しいお菓子を振る舞ってくれる。緊張と恐怖のせいで心の底から「美味しい」と思えたことは一度としてないが。
「なにしてるの?」
「あ、いや、あの、わたしやっぱり――」
「ほら、もう用意できたから座った座った」
 帰りたい、でも逆らうのは怖い。そんな気持ちで判断に迷って佇んでいれば、用意を終えたドラルクさんにきょとんとした顔で促されてしまった。仕事が早い、手際がいい。それはすごい、すごいんだけど。泣きそうになりながらテーブル席に腰を下ろす。迷ったところで結局こうなることなんて分かりきっていたんだから、心の準備くらいしておくんだった。
 トレイにティーセットとシフォンケーキを乗せて現れた彼は、おどろおどろしい音程の鼻歌を歌っていた。なにかを召喚するつもりなのかもしれない。それか私のアポ無し突撃の無礼さを歌にして責め立てているのかも。どちらにせよ怖い、胃がキリキリ締め付けられていて吐きそうだ。こんなことなら、お礼になんて来るんじゃなかった。でも、でも、いつもならいるじゃないか。不在のロナルドさんたちに内心で八つ当たりする。そう、いつも。吸血鬼に襲われて助けられた翌日に私がお礼に足を運ぶことはもはや通例となっていたはずだ。それこそ事前連絡が不要になるほど。もしかしてついに呆れられた? 私はあのやさしいロナルドさんにまで見捨てられてしまったのだろうか。俯いていた視界に、ティーカップがことりと置かれた。
「ミルクは? 砂糖いる?」
「どちらも結構です、ほんと、お気持ちだけで……」
「あ、そ。さあ、ドラドラちゃん渾身の出来栄えのシフォンケーキだ。しっかり畏怖してじゃなかった、普通にたっぷり味わうといい」
「は、はい」
 ドラルクさんは、頬杖をついて向かいから私を無言で眺めていた。突き刺さる視線から逃げるように目線を落とし、震える手でケーキにフォークをいれる。味のしないふわふわしているだけの物体を咀嚼しながら、漠然と殺されそうだと思った。吸血鬼と二人きり。こんなに近い。物を食べていると、人間どうしても無防備になるから、その隙をつかれたら私なんて瞬殺なんだろうな。いや、ロナルドさんという相棒がいる彼が軽率にそんなことをするわけがない、と頭では理解していた。それでも心がやっぱり受け入れられていない。「人間というかきみに危害を加えるような真似は絶対しない吸血もしない、まじでほんと、ジョンに誓ってしないから」と両肩を掴まれて捲し立てられたことすらあるのに(とても怖かった)。未だこんなことを考えてしまう自分は相当失礼だろうなという自覚はある。
 私は罪悪感と恐怖を少しでも溶かそうと、熱いお湯を口に含んだ。いい紅茶、なんだろうけど。熱いな、紅茶だな、ということ以外、判然としなかった。私なんかに出すには相応しくないが過ぎる代物だろうに、ドラルクさんも勿体無いことをする。いや別に彼の判断にケチをつけたいわけじゃないです。素晴らしい紅茶をこんな無礼で雑魚な私にも施していただけるなんて大変に有難く光栄なことだ思っている。
「畏怖が心地好くないと感じたのは初めてだな」
「えっ」
 ふむと独り言ちるドラルクさんに情けない声が溢れる。顔を上げると、つまらなそうに私を見つめていた彼と目が合う。
「というかそもそもきみのは畏怖じゃないな」
「えっ」
「きみのは思考放棄した末の拒絶だものな。気分が良いと思えなくて当然か」
 えっしか言えなくなった。冷たい声音に息が止まる。顔は普段通りだけど、絶対怒ってる、分かる。でも肝心の怒りの原因は分からない。どうして突然。
「そんなに恐ろしいかね、この私が」
「う、ぁ……い、いえ、わ、わたし、わたしは……」
 なにか言わなきゃ、返さなきゃと、そんな焦燥から口を開いたが、意味を成さない音だけがぽろぽろと零れていく。ついに手から滑り落ちたフォークが皿に落ちてかちゃんとはしたない音を立てた。紅茶が波打ち、水面に映った死んでしまいそうな顔の私が揺らぐ。今や痛いほどの沈黙が私たちを包んでいた。
 心臓が早鐘を打ち、指先が冷えて震えている。器官が狭まって、胸が苦しい。いき、息をしなきゃ。……本当に? していいの? わたしはいま、ドラルクさんになにを許されてる? 挙動の全てを管理されているような、そんな威圧感を押し当てられ、頭が真っ白になって回らなくなる。瞬き一つの権利でさえ彼に握られているようで、生きた心地がしなかった。
「……ジョンは残しておくべきだったか」
 静まり返った事務所に脈絡なくそんな言葉が落とされる。さっきよりは温度のある声色につられて彼を窺えば、ドラルクさんはなぜかとても動揺した表情できゅっと口を噛んでいた。その頬には汗さえ滲んでいる。悪い事をしたのがバレた子どものような少し珍しい態度は初めて見るもので、僅かに緊張が解れた。気を抜いたのが彼にも伝わったのか、ドラルクさんもホッと息をついた。
「違うんだ、怒ったわけじゃない。ただ少しやるせなさで気が急いだというか」
「やるせなさ、ですか」
「そこは置いといて。気にしなくていいから、今は。とにかく、すまない……怖がらせた」
 悔しそうに、もう今にも舌打ちが飛び出そうな顔で謝罪をされ、激しく首を横に振る。そんな私に、ドラルクさんは眉をひそめて苦笑した。
「きみに怒ってるわけじゃない、自分に腹が立ってるんだよ。……これも気にしなくていいことだが」
 自分で紡いだ言葉をどこぞへと追い払うように、ドラルクさんはぞんざいな仕草でぺいと空中を跳ね除ける。そして「きみさぁ」と、わざと気を抜けた声をあげて張り詰めていた空気を変えた。安堵しながら続きを待って小首を傾げる。
「吸血鬼が怖い怖いというけれど、野球拳とは仲が良いじゃない」
「べつに良くはないと思います……ジャンケンを挑まれてるだけなので……」
「あのマナーの小僧にだって控えめにだけどたまに注意してるよね」
「たまたま目に付いた時だけです、サテツさんも困っていらしたし……」
「この前なんかはゼンラニウムと楽しそうに地域の緑化運動に参加してたらしいし」
「ゼンラニウムさんはやさしいですから」
 彼はいい人、いい吸血鬼だと思っている。たしかに全裸だけど、水着を着たお父さんみたいなものだと思えばそんなに気にならない。聞き上手で、あまり社交的とはいえない私でも話しやすい空気を作ってくれる。彼に会うのは楽しい。つい微笑んでそう答えると、平坦だったドラルクさんの眉間に皺が寄った。反射で笑顔を消し去ると、さらに深く刻まれる。
「私だってきみに対しては充分、かなり、この上なくやさしいと思うが?」
「は、はい、そう思います」
「ほぉぉぉう? とてもそう思ってるような態度には見えないけど」
 痛い言葉に口を噤むと「そこで黙っちゃだめだろう」と呆れられた。嘘をついたつもりはない。実際彼はやさしい。私に対して、と言っていたが、決してそんなことはなく、彼はみんな平等にやさしい、と思う。少なくとも悪い吸血鬼ではないと思っている。思ってるけど、幼少期の刷り込みが邪魔をするのだ。
「きみはいつになったら私に心を開いてくれるんだろうね」
「んん……えっと、ドラルクさんは、あの……なんていうか……いい意味で近寄り難さがあるというか」
「いい意味ねぇ」
 意味ありげに復唱されまた黙る。嘘なのがバレバレだった。はあ、と吐かれた溜息が怖くて、自然と瞬きの数が増える。
「そんなにきみの心に深く根付いているとは、本当に妬ましいな」
「えっ」
「昔観たという映画の吸血鬼の話だ。凡百の吸血鬼をしのぐこの私がフィクション作品に出てくるようなド低級の紛い物に負けるなんて」
 やだやだと吐き捨てられた言葉に、つい「あの」と話しかけてしまった。どこか落ち込んでいるような眼差しに臆しながら口を開く。
「あの、ドラルクさんもちゃんと怖いですよ、負けないくらい、いえ、むしろあの吸血鬼なんかよりも怖いです」
「怖いって言ったなついに」
「あっ」
「『あっ』じゃないこのおっちょこちょいのうっかり娘」
 だって、負けるなんてとんでもないと思ってしまったから。ドラルクさんは朝陽に焼かれても復活するのだし、恐ろしさでいうと比じゃない。彼は軽く目を伏せて隠し、また溜息を吐いた。
「きみが“私”を“本当に”恐れてるなら、それはそれでいいんだけどね。まあ良くないが。でもそうじゃないからなぁ」
 彼はそう言っていかにも悩ましいというふうに肩を竦めるが、こちらとしては訳が分からない。結局良いのか悪いのかどちらなのか。なにより、本当に怖いと思っているのに、これ以上恐れよというのか。なんて残酷なのだろう。しまいには本当に呼吸すら出来なくさせられてしまいそうだ。私があまりのことに言葉をなくしていたからか、ドラルクさんは先程より多少は機嫌を持ち直した顔をしていた。……そもそもどうして心を開いてほしいなんて言葉がでてくるんだろう。私なんて知り合い未満のようなものなはずなのに。路傍の石レベルでどうでもいい存在なはずなのに。
「幾つかヒントをあげようか」
「え、お、お願いします……?」
 心を読んだかのようなタイミングに戸惑ったけれど、流れに身を任せた言葉が口をついて出てくる。ドラルクさんは「うん」と緩やかに目を細めた。
「まず、きみが今日、先日のお礼の品を持ってここに訪れるだろうということは私もロナルド君も予想していた」
「えっ……じゃあどうしてロナルドさんはいないんですか?」
「私が頼んだ」
 あんな若造に頭を下げるなんてそれはもうとんでもなく癪だったけれど。と、そのことを思い出しているのか、ドラルクさんの唇が尖った。
「なぜそんなことを……」
「なんでだと思う?」
 逆に聞き返されて困り果てる。そんなの私に分かるはずがない。吸血鬼の考えることなんて――。
「なぜ“私”は、ロナルド君にわざわざお願いしてまで、“きみ”と二人きりになりたかったのだと思う?」
 ドラルクさんは噛んで含めるようにして一言一言をしっかり紡いだ。私が絶対に聞き間違えたりしないように意識して話しているみたいだった。彼は少しだけ背中を丸めてテーブルに肘をつき、両手を組んで、その上に顎を乗せて私を覗き込んでいる。逸らしてはいけないと言われている気持ちになって、緊張で体に力が入った。
「『分からない』以外の回答でお願いするよ、自分で考えて気付いてもらわなきゃ意味がない――それからね」
 組んでいた指が解かれ、手袋に包まれた長い人差し指が、指揮でもしているかのような滑らかな動きで、すっかり冷え切った紅茶を指差す。
「私はどうでもいい子の好きそうな紅茶なんてわざわざ用意しない」
 彼の望まない答えばかりが頭に浮かぶが、この答えはもう使えない。二進も三進もいかず硬直する。頬に手を戻したドラルクさんは愉快げに喉を鳴らした。
「どうして心を開いてほしいのか。どうしてきみと二人きりになりたいのか。どうしてきみ専用の紅茶を用意するのか」
 繋げてみるといい、とドラルクさんが口角を上げると、尖った牙が鈍く光った。吸血鬼の象徴ともいえるそれを見る機会は、そういえば、あまりなかった気がする。こうやって口を開けた笑顔も珍しいというか。呆然と見ていれば、視線に気付いたドラルクさんがサッと口元を手で覆い隠しじっとり私を睨んだ。
「怖いとかいうならそんな穴が開くほど見るんじゃない」
 そのセリフを聞いて『わざわざ隠してくれていた』と分からないほど馬鹿ではない。私が怖がるから、あえて見せないようにしていたのだ。そう考えを巡らせ、じゃあ、と関連付けられた思考は彼がたくさん紡いだ『どうして』の答えで。多分、もしかしたら――頭が整理しきるより早く、私は急き立てられるように椅子から腰を上げる。家具や食器がたてる騒音も気にかけず、ドラルクさんは期待を込めて私を見上げた。
「分かったかな?」
「……、……か」
「か?」
「帰ります」
「は?!」
 私は出会って初めて恐怖も忘れ、ドラルクさんを無視して事務所から飛び出した。
 脳が激しい危険信号を鳴らしている。多分だめ、いけない。あのまま彼と二人でいたら、なにか知ってはならないものに触れてしまいそうな予感がしていた。なにをとは明確に言えない、言いたくない、分からなくていい。
 がむしゃらに足を動かしながら夜の街を駆け抜け、ぎゅうっと胸を抑える。心臓がはち切れそうなほど拍動するのは、急に走ったせいか、それとも恐怖からなのか、自分でも曖昧だった。でもそれ以外の理由なはずはない。それだけははっきり言える。疲れか怖いかの二つに一つ。他の理由なんて、なにもあるはずがないんだから。
「ちがう、きっと、絶対。絶対ちがう――そんなの有り得ない」
 何度もこれが事実なのだと言葉を繰り返す。しかしふと、零れる声が『そう思い込もうとしているだけ』みたいな必死なものだということに気が付いてしまって、途端にやるせなくなった。

 >>back
 >>HOME