まさかこんなことになるなんて


 もうドラルクさんには会うまいと固く心に誓ったその翌日。私は紆余曲折を経て吸血鬼の催眠術によってたまたま居合わせていたドラルクさんと一時間手を繋ぐ羽目になってしまっていた。う、うえーん……! 昨日の今日なのに。魔都と自分の巻き込まれ体質を完全に甘く見ていた。
 手が片方塞がっている状態じゃろくなことが出来ないので、一先ず事務所に退避した私達は、二人並んでソファに腰掛けていた。う、また私達しかいない。しかも隣、隣って。こんなに近いのは初めてだ。心臓が口からでそう。しかも素肌。どうして今日に限って彼は手袋をしていなかったのだろう。視界の端に映る赤い爪に眉が下がった。
「きみ、末端冷え性?」
「え、違うはず、ですけど」
 はっきりしない私の回答に、ドラルクさんはへえ、と気のない返事をした。もしかして冷たくて不快だったのだろうか。出来る限り指先を浮かそうとすると、ほんの少し手を握る力が強くなったので、それ以上動かすのは諦めた。
「あ、あの」
「ん?」
 話しかけたあとで本当に言っていいものか今更悩んで言葉が詰まる。しかし殊の外柔らかく促されたので、私は意を決して口を開いた。
「もっと死なないんですか?」
「迷った末に言うことがそれなの?」
 事務所に辿り着くまでの帰路でもう何回か死んでいる。それなのに死に方が甘いのか、不思議なことに手だけは絶対に実態のままだった。もっと全身全霊で死ににいけばこの手も外れるかもしれないのに。私の疑問に、ドラルクさんは「そういう能力なんだろう、きっと」とむっつり答えた。
「たかが一時間――なんならもう三十分もないんだから、お行儀良く我慢しててくれ」
「はい、すみません……」
 不機嫌な声に項垂れる。たしかに死を強いるなんてひどいことを言ってしまった。それによく考えたら、それで解除されたとしても私は灰の山に手を埋めることになるのだ。それはそれでとても恐ろしいのでいやだ。赤切れするまで手を洗うことになるところだった。考えなしだったなと思い、素直に謝罪をする。ため息の後、ドラルクさんは仕方なさそうに口角を弛めた。そこまで怒っているわけではなかったみたいだ。
「別に謝らなくていい。きみは巻き込まれただけの被害者なんだから」
「……ド、ドラルクさんも、ですよ」
「……まあ、そうだね」
 変な間を挟まれたが、控えめな肯定が返ってくる。少し心が落ち着いたので、私は言いつけ通り大人しくしようと、時間を数えることにした。約千八百秒か。これでも減ったとはいえ、途方もない数字だなぁ。こんなに数えたことないや。時計の秒針に合わせて黙々と数えていれば、隣の彼が身動ぎしたのを感じる。
「ところで、宿題を出したはずなんだが」
 ぎしりと身体に力が入る。声を出さなかったのが奇跡だ。でも繋いでいるから、こんな緊張バレバレなんだろう。そう思うとますます居た堪れない心地になる。
「あれから分かった?」
 無視をしたわけではない。ただ、私は数字を数えなきゃいけなかったから。結局動揺のせいで幾つかとんでしまったが。
「いや、別に宿題のつもりはなかったんだけどね。ただきみが帰ってしまったから」
「ごひゃく!」
 唐突に叫んだのにもかかわらず、彼はころころと笑う。それもそのはずだ、だって私がいま叫んだのは、ドラルクさんが私の手の甲を指で擽ったせいなのだから。ちらっと彼を見ると満足そうに微笑んでいた、ので、慌てて目を逸らす。……すごくやさしい顔だった、と思う。
「さあ、答えを聞かせてくれないかい」
 隣から強い視線を感じ、少しだけ顔を背ける。聞かせる、宿題、答え。でも答えとか、そんなこと言われたって。
「……い、いやがらせ……とか、でしょうか……」
 触れる冷たい手がぴくっと反応した。情けなく萎んだ声が呼び水となったかのように、事務所には先日のようないやな沈黙が広がっていく。先日この空気を作ったのはドラルクさんから。でも今日は、私からで。私は慌てふためいてさらに言葉を重ねた。
「私がドラルクさんを怖がっ、あの、畏怖してるのはドラルクさん自身よくご存知でしょうし……なのでそれをうまいこと使って、こう……私で遊ぼうとしてるのかなって。ロナルドさんにセロリをけしかける感覚的な……だから二人きりに……あと心を開いてた方が遊びやすい、みたいな……」
「――い、や、なぜそうなる?! あまりのことに放心しちゃったわ! それならきみ好みの紅茶を用意してた件はどう説明するんだ!」
「紅茶は……あ、飴? 飴と鞭を意識で?」
「アアアアメトムチィ?! 誰がんな変態プレイするか! 大体、大前提としてロナルド君ときみはぜんっぜん違うだろうが! 月とスッポン、ゴリラとチワワ! そもそも、私がきみにそんな無為なことをする理由があるか?!」
「鬱陶しくて目障りだから、とか……?」
「あっいや、まあ、ぶっちゃけそう過剰に怯えられるのが気にならないとは言わないけど。でも、え? 本気で言ってる?」
「う、いや……はい」
「……、……そう」
 右手の中のものが崩れた感覚がしてそちらを見る。先程となんら変わらない白い手が収まっていた。一瞬変な感じがしたんだけど……気の所為だったのかもしれない。
「時間がきたようだ」
「え、」
 不意にそう呟いたかと思うと、ドラルクさんがすっと立ち上がった。まだ三十分経ったとは思えなくて、私は座ったままぽかんと口を開いて彼を見上げる。ポケットからいつもの手袋を取り出したドラルクさんは、雑な仕草でさっさとそれを手に嵌めながら、眉を上げてじろりと私を見遣った。
「もしくは、誰かがあの吸血鬼を倒したのかもな。まあなんでもいいが。きみは怖い私から解放されて万々歳なんだろう?」
「あの、ドラルクさん――」
「さあ、疾く帰るといい」
 ドラルクさんはそう言って皮肉げに顔を歪め、吸血鬼の象徴ともいえる鋭い牙を光らせた。

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