深淵に触れる


 二人分の珈琲を持ってリビングへ戻ると、作業をしていたはずのフクマさんがパソコンを開いたままうたた寝をしていた。『あの』フクマさんがだ。え、怖い。なにかの罠かな。こうして『うたた寝を目撃した』こと自体がもう既に彼の術中なのだろうか。……なんて恋人に対して思うことではないけれど、そんなことを真っ先に考えてしまう。そのくらい彼は、こう、計り知れない人間なので。まあそういうところが好きなんですけどね。
 私は内心で独りごちながら、音を立てないようテーブルに珈琲を置き、隣に座ってPCを覗き込んだ。真っ暗な画面に目を閉じた彼が反射している。反射するなら、奈落の底を感じさせる彼の瞳よりはマシなタイプの黒だなぁと無為なことを考えながら、彼の髪の毛をそっと摘んだ。なんだかんだ一度も触ったことがない。艶々とした滑らかな黒檀はシルクのようで、ずっと指を通していたくなる触り心地だった。うーんこの人外じみたサラサラ感。いったいどこの星のシャンプーを使っているのか。少し撫でたりサラサラを楽しんでから、ひと房とって三つ編みにしながら唄を口ずさむ。
「ラプンツェ〜……髪の毛おろ〜して……」
「ラプンツェルですか? それならもっと長いほうがいいでしょうか?」
「ウワッ起きてたんですか?」
「はい、起きてました」
 当然のように歌に返事をされ驚く。底の見えない黒い目をぱっちりさせた彼は、悪びれもせず、むしろ心做しかいつもより機嫌よく口角を上げていた。掴んでいた三つ編みの先を離すと、髪は確実に意志を持った動きでしゅるりと解け、元のストレートに落ち着く。こ、こわ。なんてものを触っていたんだ私は。
「髪の毛、もういいんですか? 伸ばしますか?」
「もう大丈夫です、遠慮しときます、伸ばさないでください。……ていうか髪の毛伸ばせるんですね」
「いえ、伸ばせません」
 すぱっと答えられ、ちょっと拍子抜けする。珍しくジョークだったらしい。最近の編集者は髪も駆使して戦闘を行うのかと思っちゃった。オータムなら有り得そうだし。
「ですが貴女が望むなら習得してもいいかなと思いました」
「……そうですか」
「はい。業務には必要ないかと思い、これまで習得を考えたことはなかったのですが」
 ふ、ふうん。つまり私のために。へ〜、そうですかぁ!……いや落ち着け、冷静になれ。髪の毛を伸ばす方法を習得って。よく考えたら変っていうかすごい怖いよ。人為的にできるもんじゃないから。
 しかしこんな恐ろしい言葉を愛のように錯覚してしまうあたり、私の感覚はかなり麻痺してきてるのかもしれない。そう遠い目をしかけたが、「ところで」と突然手首に絡み付いてきた黒い髪にギョッとする。黒い髪が誘導した先は彼の頭だ。豊かな髪に触れ(させられ)たまま何事かとフクマさんを見るが、彼は相変わらずな瞳でにっこりしていた。
「遠慮しなくてもいいんですよ」
 この言葉は確実に愛だと思う。いつもと変わらない涼しい顔。それなのに、髪の毛はもっと撫でてというように蠢めいている。そのギャップについニヤケそうになったので、口内を痛いほど噛み締めて堪えた。
 無数の髪が手に擦り寄ってくる光景は、きっと傍から見ればとても恐ろしいだろう。なのに、当の私はちょっと可愛いななんて感じてしまっていた。もうだめ、確実に麻痺してる。きめ細やかな髪をまさぐりながら、今更そんな事実を確信してしまい、私はあーあとため息を吐いて微笑んだ。

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