待って、もう少しだけ
私の巻き込まれ体質は相変わらずだが、助けてもらったときロナルドさんはいてもドラルクさんの姿はない、ということが増えた。それがドラルクさんに避けられているからだと気付くのにそう時間はかからなかった。それに、今までは巻き込まれたときだけでなく、普通にすれ違ったときなどもよく話しかけられていたのに今やそれも全くない。彼の声をもう二週間近く聞いていなかった。レンタルショップの袋を片手に歩き、小さくため息を吐き出す。その次の瞬間、私は後ろに吹き飛んだ。
「おわ、すみませ……って、あんたか。悪い、大丈夫か?」
「ロナルドさん。いえ、こちらこそすみません」
前を見ていなかったせいで壁にぶつかってしまった。と思ったらロナルドさんだった。凶器のような筋肉だ。歩くコンクリート。そんなことをぼんやり考えながら立ち上がらせてもらう。ふと地面に目をやったロナルドさんが「落としたぞ」としゃがみこむ。え、と彼の手元を見れば、さっきまで持っていたはずの袋から、借りていたDVDが飛び出してしまっていた。
「待っ――」
「『ヴァンパイア』?」
止める間もなく、彼はその題名を見てしまい、怪訝そうに読み上げた。
「なんでこんなの借りてるんだ? 嫌いなんだろ?」
「き、嫌いじゃありません。怖かっただけで……」
「一緒だろ」
ロナルドさんは私の屁理屈に呆れたように眉をひそめた。一緒じゃないです、と差し出された袋を受け取りながら口を窄める。
「この映画は、私が初めて吸血鬼を知った映画なんです」
「ああ、例の。元凶のやつか」
「そう、元凶です」
重く頷く。これの存在を多く語る必要は無い。私がドラルクさん他吸血鬼に遭遇する度あんまり怯えていたため、もはやこの街の知り合いほぼ全員が承知している。
「そんなものをなんで?」
「……ちょっと確かめたいことがありまして」
「確かめたいことって――」
「そ、それよりロナルドさん!」
あんまり追求されたくなくて、彼の声を遮って詰め寄る。勢いで彼の両手を握ればすぐさま「うわやめろ!」と焦ったような声があがった。本気で嫌がっていそうな反応にすぐ手を離しショックで少しよろける。
「え、その反応、ちょっとだけ悲しかったんですが……」
「あ、いやわり、でもあとで面倒になるから……で、なんだよ」
わざとらしいから笑いをしながら、ロナルドさんは小さく首を傾けた。面倒ってなんですか……私の手から変な粘液がでてるとでも……? まだ心に傷を負いつつ私は渋々口を開いた。
「実はお願いがあって――」
◆
そびえ立つビル――ロナルドさんの事務所を見上げる。今日はロナルドさんとの約束の日だ。一段一段を踏み締め、いつもよりずっと長く伸びる廊下を進み、やっと辿り着いた事務所の扉を前に、私は深呼吸を繰り返した。ノックしようと上げた拳が震えていたので、一度強く握り締めて震えを収める。しっかりするんだ、今日はチワワじゃいられない。……というか、あの人は私をチワワだと思ってるのか。今更そんなことに思い至ってちょっとおかしくなり、緊張が解れた。この街ではちょっとトラウマが刺激されまくっていただけで、別にそこまでか弱い存在ではないのに。
改めて、落ち着いて戸を叩く。軽やかな足音の後、パッと扉が開かれる。
「はーい、ご依頼の御仁かな? 今ロナルドは不在だが、なに、このウルトラ天才IQ五千億のドラルク、が……」
「お久しぶりです、ドラルクさ――えっ?!」
彼がぽかんとしていたのは一瞬で、すぐに閉められた。鼻の先でピシャリと。これは、相当……。分かっていたことだけど気持ちが重く沈む。
「あの、開けてもらえませんか?」
ダメもとで扉越しに話し掛けてみたが、案の定返事はない。奥の部屋に引っ込んでしまったのかもしれない。心がめげそうになりつつ、私は携帯を取りだした。文明の利器はこんなときのためにある。メッセージアプリをたちあげ、ほとんど自分から開いたことのない彼とのトーク画面を開く。電話をかけようとして、でも声を聞くのもイヤかもしれないと考えやめる。文字だけならまだ不快感を与えず済むだろうか。
【これまでの謝罪に来ました】
作成した文章が、一番最新のメッセージ――二週間前のドラルクさんからのメッセージのあとに続く。緑の吹き出し横に現れた小さな既読の二文字に僅かに臆する。は、はやい。思わず扉をみたが、当然中の様子は分からなかった。気を取り直して続けてメッセージを送信する。
【怖がっていたの、失礼だったと思います。本当に最低なんですが、傷付けていたことにも気付かなかったです】
あなたがやさしいから。正直な気持ちだったがこれを送るのは言い訳じみている気がして躊躇われ、結局やめる。しかし笑うことまで我慢するなんて、やさしすぎると思う。そう考えてちょうどいい言葉を思い付く。
【甘やかされていました】
そう、これだ。ぴったりだ、しっくりくる。もっというなら甘やかし"過ぎ"だ。責任転嫁するつもりはさらさらないけれど、彼もやり過ぎだった気はする。本来なら、彼がこんな面倒臭い相手にそこまでする必要はないのだ。なのに、そうしてくれていたのは。
【ずっと仲良くなろうとしてくれていたのに】
滅多に笑った顔を見たことのない私でもあの笑顔は泣きそうで、ひどく痛々しいと感じた。やさしさを沢山紡いでくれた彼に、私はとうとうそんな笑顔を浮かべさせてしまったのだ。
【ごめんなさい】
罪悪感がぐるぐると体内を掻き混ぜる。電話はしなくて正解だった。被害者ぶって声を震わせてしまっていたかもしれない。
「……ごめんなさい」
言わずにはいられなかった。聞こえるはずがないと分かっていたからこそ吐き出せた言葉でもある。私はどこまでいっても小心者で情けなかった。目の奥から僅かな痛みと熱がじんわり昇ってくるのを感じ、帰らなきゃと思う。事務所前で泣き濡れる女がいたら営業妨害になってしまう。そう携帯の電源を落とした瞬間、目の前の扉が勢いよく開け放たれた。足元に室内からの柔らかい明かりが伸びてくる。驚いて顔を上げ、反射でした瞬きのせいで涙が零れた。
「待っ、え、泣……!」
顔を見るなりギョッとしたドラルクさんの全身の輪郭が波立ち、一瞬だけ砂になる。違うんですこれは、と弁明する暇もなく、私はすぐさま再生した彼によってソファまで引っ張られた。私を座らせたドラルクさんは凄まじい速さで奥に引っ込み、すぐに大きなポットと山盛りのクッキーとケーキが載ったトレーを手に帰ってくる。彼はだらだらと汗を流しながらテーブル脇に屈んで、それらを長机に並べていった。紅茶の香りがふわりと漂って鼻腔を擽る。……いい匂いだ。心に馴染む好きな香りに勇気を貰ったような気になって、私は眦に残る水滴を拭い去った。
「ミルクと砂糖は要らないんだっけ。それから、ええと……どれ食べる? ここに欲しいのなければ作るけど」
「いや、え、えーっと……」
返事にならない言葉で濁しながら、もしかして動揺しているのかなと推測する。たしかに扉を開けていきなり泣いてる奴がいたら怖い。ドラルクさんは膝を折り曲げてしゃがみ込んだ状態のまま、恐る恐るといった様子でこちらを窺っていた。
「疲れた? 眠い? 奥で休む? いいよ、私はずっとこっちにいるから」
「いえ、大丈夫――」
「あ、帰る? ならタクシー呼ぼうタクシー。いま手配するから少し待ってて。いやごめんね本当ならあのアホゴリラに送らせたいところなんだがあの若造今留守で……しかもジョンまで連れていって。いやほんと肝心な時に使えないルドくん――」
「私がお願いしたんです」
忙しなく動いていた口がピタリと止まる。ドラルクさんは何を言ってるのかと目を見張っていた。そんな彼から目を逸らさないでいると、ドラルクさんの方が先に気まずげに視線を泳がせた。
「お願いって、ここを空けるように? いやまさかとは思うけど」
「そうです、そのまさかです。あなたと二人きりになりたくてお願いしました」
「ふたっ」
「あ、依頼料もちゃんとお支払いしてます」
「いやそれはいいけど……い、いやぁ、彼いよいよなんでも屋じみてきたな……この前だって吸血化したわけでもないただの蜂の巣駆除を頼まれてたし。お人好チョロいからなんでもかんでもばんばん引き受けちゃうんだよね」
矢継ぎ早に並べられる言葉は本題から逃げているみたいだと感じた。名前を呼べばまた声が途切れる。所在なく視線が動き回り、やがてそうっと私を捉えた。
「開けてくれたってことは、お話してくれるってことでいいんですよね」
「あー……いや、まあ、うん……きみの具合が悪くないっていうならね。吝かではないですけど……」
「よかったです。もう顔も見たくないくらい嫌われてしまったんだと思っていたので」
ドラルクさんはしばし苦虫を噛み潰したような険しい顔で迷った末、深いため息を吐いた。
「そんなわけないだろう」
「はい、もうそうなんだろうなって分かりました」
「……きみ、やっぱり具合悪いだろう。熱でもあるんじゃないか?」
まじまじと私を見遣る彼は、熱を測りたかったのか額へ手を伸びしてきた。受け入れるため私は静かに目を瞑ったが、いつまで経ってもあの冷たい手の感覚が来ないため、不思議に思ってすぐ目を開く。ドラルクさんは目を閉じるまで見えていた体勢のまま、距離感もそのままに硬直していた。
「どうしたんですか?」
「きみがどうしたんですか?? いやほんとに」
同じ言葉をそっくりそのまま返されて戸惑う。が、すぐにそっか、と思い当たった。一応の謝罪はしたけれど、私はまだ大事なことを伝えていなかった。
「ドラルクさん、この前はごめんなさい。この前だけじゃなくて今までずっとなんですけど……」
「あれは……まあ私も結局怖がらせたしな。おあいこみたいなものだろう」
「怖くなかったです」
間髪入れずに切り返すと、ドラルクさんの瞳が再び驚いたように見開かれた。しかしすぐに困ったように細められる。信じていないとすぐ分かる顔に焦燥感が募る。
「あの時、別に怖くなかったんです。本当です」
「別にきみが私の牙やらを怖がろうが、今更怒ったりしないよ。むしろ私が大人げなかったなと反省してるくらいで――」
「違います、やめてください。ドラルクさんはなにも悪くないです」
そう言っても彼は黙って首を振った。伝わらないということはこうももどかしいのかと眉根を寄せる。それなのに、ドラルクさんはずっと見捨てないでいてくれたんだ。なら私も簡単に引き下がるわけにはいかないだろう。
「映画を観ました」
「へえ、なんの?」
「私が初めて吸血鬼という存在を知った映画です」
「えっあの元凶の」
話題が変わったと安堵していたドラルクさんの顔が、「なぜそんなものを」と忌々しげなものへと変わる。
「全体的にかなり雑な創りだなと感じました。いえ、それ自体は元々古い映画なので時代的にも仕方ないんですが。それでも小さな頃は恐ろしかった演出も、まるで本物に見えた牙も、何一つ恐ろしいとは思わなかった」
エンドロールが流れる頃には、どうしてこれに恐怖を覚えていたのだろうと自分でも首を捻ったほどだった。
「なにもかもがドラルクさんとは大違いでした」
「……そう。じゃ、トラウマ吸血鬼もどきは克服したってわけだ?」
「はい。ドラルクさんの本物っぷりが今更ながら身に染みました」
「……喜んでいいのか微妙だな」
彼は難しい顔で「いやでも前進には変わりないし」など、色々考え込んでいる。思考の邪魔かなと思いながらも、一番伝えたかったことを音にするため、小さく息を吸った。
「あなたが私にとてもやさしい吸血鬼だったということがよく分かりました」
「…………え?」
「あなたは言葉も行動も尽くしてそれを教えてくれていた。仕草のひとつでさえ、私を意識してくれていた。そんな歩み寄りを拒絶した挙句、今まで自分にとって楽な道ばかりを選んであなたを傷付けてしまっていた。本当にごめんなさい」
彼の誠意に答えるための謝罪だったが、独り善がりになっていないか心配だった。紡ぐ言葉はどれも本心だけれど、今抱えてる感情の三割も伝えられている気がしない。しかし当然といえば当然なのかもしれない。彼への気持ちを、自分でも明確に出来ているとは断言し難いのだから。これまでの事を申し訳ないと思っている。情の深さに感動している。そしてもし許されるなら、多分、この先の未来はもう少し近い場所にいたい、と思っているはず。
「今は尊敬と感謝と……あと、心ばかりの好意を込めて、ドラルクさんを畏怖してます」
「…………つまり」
「えぇと、怖いけど怖くない、と言いますか。……もしドラルクさんが私にまだ辟易していないというなら、できれば仲良くなりた――」
「ストップ」
「えっ」
出し抜けに、ピンと指を綺麗に揃えた手を顔の前にかざされる。ドラルクさんは空いた手で目の辺りを隠して深く俯いていた。長く息を吐き、貝のように黙り込んでいる。
「ちょっとタンマ。席外すけど、まだ帰らないで」
「はい」
彼が作ったTの字に私が頷いたのを確認すると、ドラルクさんはよしと言って立ち上がった。立ち上がり、様子を見るようにちらりと私を見下ろす。なんだろう。帰ると思われている? 帰らないのに。それにしたって、ドラルクさんはやっぱり背が高いなぁ。視線の意図に首を傾げながら黙って見つめ返せば、彼は「うわまじかこれはやばい」と早口で呟いて奥の生活スペースへと姿を消した。「ッシャーーー!!」というかなり大きな声がしたあと、ドタバタと激しい足音が聞こえてくる。目を瞬かせていれば、少し髪を乱れさせたドラルクさんが扉を開けて顔だけ現した。満面の笑みだ。
「ところで今更なんだけど、ミルクが欲しかったりするんじゃない?」
「お願いします」
本当は紅茶にはミルクをたっぷり入れたい派だった。きっとこの紅茶には特によく合うと思う。
私がミルクティーが好きだと気付いていたのか、ドラルクさんの口角がさらににんまりと高く上がる。鋭い牙が覗いた。彼がそれを隠すことも、そして私がそれを怖いと感じることも、きっともう二度とないのだろう。漠然とそんなことを確信しながら、微笑みを返し、用意してくれたクッキーを一つ摘む。
「おいしい」
自然と顔が綻ぶ。バターがたっぷり使われたクッキーはサクッと甘くて、とてもやさしい味だった。つい感想が零れる。その瞬間、奥の部屋で、物が壊れたような音が聞こえた。
「今日は私もご相反に預からせてもらうよ。親睦を深めたいというきみの望みを叶えるためにね」
ややあってからご機嫌に自身の分のカップも持ってきた彼にまた笑う。笑われたというのに、ドラルクさんはこの上なく嬉しそうにしていた。
「それじゃ手始めに――ご趣味はなにかな、お嬢さん」
おどけた口ぶりなのに、顔と声音はいつになく真剣なものだ。ちぐはぐさが面白くて口が緩みかける。それに気付いた彼の痩けた頬に若干の赤みが差す。
「こら、笑うんじゃない」
「ご、ごめんなさ……」
目と眉の幅を狭めて「私は本気なのだよ!」なんて怒っている。そんな拗ねているような彼の姿に、私は初めて、吸血鬼を――ドラルクさんを可愛いと感じていた。
『宿題』の答えも、尖った耳が赤かったことも、私は気付かないふりをする。今はまだ『友達』の距離感が精一杯だ。追求しない彼の優しさに甘えてしまおうと、私はまた狡いことを考えていた。
そう、待って、もう少し。
何かが芽生えているから。
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