ふたりのこども


 命あるものは、往々にして前を向いて生きている。人間も吸血鬼もアルマジロも、そこに大きな差異はない。
 だからこそ、こうして足元を掬われるのだ。
「どちら様ですか?」
 街中で偶然見かけた後ろ姿に機嫌良く声をかければ、遠慮がちに返ってきたのはこんな言葉。たった一言、それだけなのに、サウンドのスイッチが切られたように周囲は無音になり、目の前の彼女すら太陽をまとっているみたいに白く揺らぐ。急に地面が割れ、足元に空いた穴へと落ちていく錯覚に襲われる。いま自分が砂なのか、まだ実体を保っているのか、判然としない。五感が一斉に仕事を放棄していた。
「あの……?」
「……あ、ああ」
 恐る恐る話しかけられたことで意識を冷たい夜の街に引き上げられる。なんとか平静を装って喉を震わせた。まだ砂にはなっていないことに安堵するも、それでも落下の感覚はまだ鮮明に身体にこびり付いていて、心臓の鼓動の激しさで今すぐ死んでもおかしくはない気がした。自分が地に足を付けて立っていることが未だに信じられない。
「すみません、記憶喪失になってしまったらしくて……えーっと……ついさっきに」
「そう」
 言いづらそうな彼女に短く返事をするのが精一杯だった。ついさっきに。ということは吸血鬼の仕業だろうか。だから私が分からないのか。そうか、忘れているのか。忘れたのか、私のことを。
「……そうか」
「お知り合い、なんですよね? もしかして恋人とか――」
「いや、人違いだったようだ。私と貴女は赤の他人ですよ」
「エッッッい、いや、えっ、あの――」
「いやァ、お忙しいだろうに突然呼び止めて失礼しましたな! お大事に……なんて、もう会うこともないでしょうが」
 押し殺しきれなかった余計な台詞は、存外に皮肉っぽい声色になってしまった。まあ別にいいか。自分で言った通りもう会うことはないのだから。と、開き直りかけたが、しかし私の勢いに呆気にとられている彼女に、このままだと彼女の記憶に残る自分は、さぞ感じの悪い変なおじさんになってしまうのかと気付く。そう思ったら、少しだけやるせなくなった。
「それじゃあお嬢さん、良い夜を」
 咳払いをして声のトーンを変える。なるべくやさしく見えるように心掛けた笑顔を作った。願わくば、この顔がさっきの悪印象を打ち消してくれますように。そして彼女の心に今度こそ深く根強く刻まれますように。そんな切実で、なんとも見苦しい祈りを込めて。これ以上ここにいるとまた要らんことを言ってしまいそうな気がしたので、私はマントを翻し彼女を残しその場から離れた。
 重たい蓋を外し、着替えもせずノロノロと棺桶に入る。自分を裏切ることのないいつも通りなふかふかマットに気が抜けて一度死んだ。緩慢に再生しながらマントを脱ぎ捨てその辺に放る。着替えは……どうせ出掛けたばかりだったからいいだろう。皺にはなるが、今はどうでもよかった。蓋を閉め直すのも億劫で、惰性で横になる。しばらく虚ろに天井を眺めたあと瞼を下ろしてみるが心がそわそわと落ち着かなくて、一向に眠気を捕えられる気がしなかった。睡魔の代わりとばかりに襲ってくるのはぞわぞわした不安だけだ。心臓をヤスリにかけられているみたいで、このままだと一欠片もなくなってしまうような、そんなえも言われぬ恐ろしさが私を掴んで離さない。眠るのを諦めて起き上がり、棺桶の中で体育座りをした。息を吐きながら脱力し、背中を丸めて膝に額を押し付ける。震える指先で二の腕を掴みすぎてまた死んだ。
 今まで彼女の気持ちに胡座をかいていた、という自覚は大いにあった。どれだけ突っぱねたとて、次会う時にはけろりとした様子で懲りずに好意を剥き出しにして吸血を誘う姿に毎度呆れと、ほんの少しの安堵を胸に抱いていた。これはその罰なのかもしれない。
 いやだが、いい機会だったのは事実だ。これでよかった。私は正しい選択をした。じくじくと全身を蝕む喪失感を拭い去るようにそう自身を奮い立たせる。そうだ。前々からあんな若くて未来ある女性がこんなおじさんに血を吸ってほしいと頬を紅潮させて言い寄って来るのはどうかと思っていたのだ。こう、人間として色んな意味でかなり不健全なのではないかと。たしかに思いもよらぬ形であったから些か動揺してしまったけれど。しかし吸血鬼に熱烈アプローチをかけていたと知ったら御母堂もさぞ悲しんでいたに違いない。今時異種間婚なんて珍しくはないが、ほら、これでも私高等吸血鬼だから。格の違いにド肝を抜かしてしまうこと山の如しだ。
「……なんで私は結婚を視野に入れてるんだ」
「ドラルクさんいますか?!」
「ドッッッデッドゥワア、ア、ハ?!」
 事務所に繋がる扉がバンと開け放たれる。驚きと衝撃、というより、その声に砂になった。さっき別れたはずの彼女だったからだ。
「お、お嬢さん、なぜここが……ん?」
 狼狽を取り繕って上擦った声で問い掛けようとして、はたと口を噤む。いま彼女は私の名前を呼ばなかったか。忘れているはずなのに。私は名乗っていないのに。彼女は棺桶の中に座り込む私を見下ろしてグッと唇を噛んだ。ああ、そんなに噛んだら血がでるだろう。
「ごめんなさい」
「え?」
「さっきのはうそ、というか冗談というか」
「……は?」
「じ、地味ハロウィン……題して『好きな人の記憶だけなくなってしまった人』ー……みたいな……」
 目線を彷徨わせて弱々しく告げた。地味ハロウィン。好きな人の記憶だけなくなってしまった人。一度通り抜けていった言葉を頭の中で数度繰り返し、私はゆらりと立ち上がり、棺桶から出てすぅーっと息を吸った。
「みたいなじゃねえタチが悪いんじゃこのお惚け小娘!」
「すみませんでしたぁ!!」
 彼女に対し、未だかつて無いほど乱暴に心のまま怒鳴った。しかしウエェンと泣き出した彼女を見ても溜飲はまだ下がらない。泣きたいのはこっちだと歯軋りをする。
「やっていい事と悪い事があるんじゃないか?」
「はい……」
「きみだって知り合いに忘れられたと思ったら少なからず衝撃を受けるだろう」
「仰る通りです」
「大体なんだあの無駄な演技力は」
「えっ……ありがとうございます」
「褒めとらんわ」
 反省してんのかと睨むと、彼女はまた慌てて謝った。はらはら涙を流す姿に虐めているような気持ちに駆られて眉をひそめる。いや別に、泣いてほしいわけじゃないんだが。ちゃんと謝ってくれるならそこまで泣かんでいいというのに。
「本当にごめんなさい……ドラルクさんがあんなにショックを受けるとは思わなかったんです……浅はかでした」
「は?」
 浅はかなのは本当にそうなので否定はしてあげない。しかし、ショック? え、私が? 驚きで零れた声を批難によるものだと捉えたのか、彼女はさらに眉を下げた。
「う、すみません、ほんとうにごめなさい……とにかくもう二度としないです、絶対しないので、お願いだから嫌いにならないでください……」
「……いや……」
 垂れた耳の幻覚がちらちら見えるせいで嫌いにはならないけど、と言ってしまいたくなるが、なんとなく癪で曖昧に濁す。はっきりしない答えに、彼女の瞳がさらに潤み、玉のような涙がぼたぼたととめどなく溢れていった。そろそろ溶けてしまいそうだと、苛立ちも忘れ、哀れになってくる。
「ああもう、そんなに泣くなら最初からバカなことしない……ならないよ、別に」
「う、うう、ぇ……よかっ、傷付けてごめんなさ……」
 やっぱり、どうも彼女は私が悲しんでいると思っているらしい。今この場で悲しんでいるのは誰がどう見たって彼女のほうだというのに。見当違いなバカさに呆れたくなるやら、愛らしいやらで頬が緩んだ。しょうがないから、このいじらしい彼女に免じてそういうことにしておいてあげよう。
「うん、かなしかったから、もうしないでね」
 建前のはずなのに、思っていたよりもずっと滑らかに告げることができた。そのことに内心でちょっと首を傾げつつも、うんうん頷く彼女の涙をハンカチで丁寧に拭って抱き締めてやる。特別サービスに頭も撫でてあげよう。だって泣いているから、このくらい甘やかしてあげてもいいかなって。誰も見ていないのに脳内でそんな言い訳を組み立てる。腕の中の存在は、泣いているせいかひどく熱かった。伝染した熱が胸の奥に染み込み、身体の芯がじわりと柔らかくなる。全身が砂になるのとはまた違う、どこか甘さのある不思議な感覚だった。そんなまろやかな安心感に誘われるまま、私はゆっくり息を吐いた。
 率直な感情に充てられているせいか、私まで泣きそうだなと思う。つられて泣くなんて、そんな子どもじゃあるまいし、と自分に苦笑してそっと彼女の頭に顔を寄せた。一瞬背中に回る手の力が強くなったけど、砂になることを怖がっているのかすぐ弱くなる。もう少し強くしたって、平気なのにな。泣いてるんだから、そのくらい甘えればいいのに。
 気にしいな彼女に代わって、私の方から力を込めてやる。ああ、許してあげるに加えこんなことまでしてあげるなんて、私ってほんとつくづく器が広い吸血鬼だ。項を朱に染めだした彼女に、そんなことを考えながらクスクス笑った。

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