宵闇惑いて黎明となる


 昔から吸血鬼と名乗るのが恥ずかしくなるくらい貧弱だった。さすがにドラルクさんのように死にやすい性質ではない。しかし私は怪我の治りも遅いし、多分もし死ねばそのまま彼岸から帰ってこられないだろう。弱点と言われる弱点は当然余すことなくだめで、月光にすらふらつくほど。とりわけ満月はだめだった。昼間の太陽を強く感じすぎる。この世に生まれて百云十年、太陽とは無縁な新月の宵闇だけがずっと私の居場所だった。
「青……空色が好きなんですか?」
「え?」
 私が新横浜に来たのは昔馴染みのゼンラニウムに誘われたからだった。「吸血鬼の研究に熱心な人間がいる、あの人間ならば虚弱な体質を改善してくれるやもしれん!」とあれよあれよという間に屋敷から連れ出された。気のいい彼だけど、些か人の話を聞かない気性がある。その強引さに救われているところもあるのであまり強く言えないのだが。とにかく、ゼンラニウムは私にヨモツザカと名乗る研究者を紹介した。
 ロナルドさんとは新横浜に訪れた初日、VRCでの身体検査の最中に出会った。目を焼き焦がすような銀髪に、息が止まるほど美しい青い瞳。体に走った生まれて初めての激しい衝撃は今でも鮮明に覚えている。見慣れぬ吸血鬼に驚いたのか彼も私同様に暫く硬直していた。少しの間声も出さずに二人そうして見つめ合っていたのだが、ヨモツザカさんが部屋に帰ってきたことでロナルドさんはハッと顔を険しくさせ、「なにしてやがんだテメェ!」と儚い見た目からは考えられないほどの声量で怒鳴り上げヨモツザカさんに殴りかかった。「おいやめろド愚物俺様は善意で」「うそこけこのサイコ犬仮面こんないたいけなご婦人をこの世で最もおぞましいこの魔の巣窟に監禁してんのか?!」「アホが誰がそんな無駄な真似」「通報いや今ここでこの俺が焼き入れてやる原型留めてられると思うな!」「聞けこのバカッガガアアァァッたい! いたい!」あまりのギャップに驚愕してすぐ助け舟をだすことができなかったのは申し訳なかったと思っている。彼は本当に善意で協力してくれていた。騙されているわけじゃないと納得してもらうのに一刻半ほど要したのは懐かしい思い出だ。
 それからずっと、ロナルドさんはVRCに薬を受け取りに行くときは必ず着いてきてくれていた。毎回悪いので断ってはいるのだが、彼はいつも「今日はたまたまヒマなんで!」と笑ってくれる。十中八九うそだろうと踏んでいる。出不精で世情に疎い私とて、彼が人気退治人だということは知っていた。幼馴染でさえここまで過保護ではないのに、と複雑になる反面、そうして彼が自分を気にかけてくれることに喜びを感じてもいた。夜空をぽっかり切り取った円を好きだと思えるようになったのは、月光に照らされた彼の髪が、そして月を浮かばせる青い瞳がこの世のなにより美しいものだと気付けたからだ。
 さて、そんなVRCからのいつもと変わらぬ帰り道。隣を歩いていたロナルドさんから投げ掛けられた言葉に、私はぽかんと口を開く。彼の視線が捉える先は私の髪を結わえている明るい青色のリボンだ。
「俺が会う時、いつもそういう系統の格好なんで。……いや似合ってますよ、もう新横浜一素敵だと思ってます! 文句とかじゃなくてちょっと気になっただけです!」
「ど、どうも……?」
 ロナルドさんが血の気を引かせて慌てふためくので、とりあえずお礼を述べておく。分かりやすく安心している彼を横目に、これのどこが空色なのかと考え、すぐにああそっかと思い至った。
「人間にとってはこれが空色なんですね」
「え?……あっそうか」
「はい、私達にとって空は黒なので」
 一部特例のすごい人達を除けば、私達夜に生きる吸血鬼にとっての空といえば漆黒を指す。幕を下ろしきった重たい、それでいて延々と続くような黒色。少なくとも、それが私にとっての空色だった。
「そっか……これ、空色っていうんですね」
「あ、いや、アクアブルーとかなんなら普通に青でも全然いいと思います! すみませんカッコつけの配慮とデリカシーゼロばか野郎でいやマジですみませんでしたゴメンナサイ」
「なぜ謝るんです……」
 突然過剰な落ち込みをみせる彼に困る。別になにも気にしていないのに。どうしたものかと少し迷って、気を逸らせるといいなという思いから、苦渋の判断で「実は」とそっと呟いた。
「私、この色をロナルドさんの色って呼んでたんです」
「へ……俺、ですか」
 ロナルドさんは若干涙目で小首を傾げた。水膜が張っているせいか、彼の水色の――空色の瞳は普段以上にどこまでも澄んでいるように見える。本当は個人的にはとても恥ずかしいカミングアウトだったけど、しかしそんなことは些事と思えるほど神秘的な揺らぎをしていた。
 もちろん写真や絵画で青空を見たことくらいはあるし、空が青いことは知っていた。でもこの色にそんな名前があるなんて、まるで知らなかった。
「空色、空の色、ロナルドさん……ふふ」
「あの……?」
 そうか、ロナルドさんの瞳は空色というのか。戸惑っているのが分かったが、喜びで口が綻ぶのを止めることができない。なんとか笑い声だけ抑え、彼を見上げる。
「あなたは空だったんですね」
 そう言うと、宿された晴天が大きく広がり、静かに瞬いた。
「道理で綺麗なわけです」
 私の見てこれなかった眩い景色をたくさん映して吸い込んできた色だから。だからきっと無限に澄んでいて、美しいのだ。どうしてこうも綺麗なのかと思ったら、なんだそんなこと。蓋を開けてみれば、うつくしくて当然だった。一頻り笑い、ふうと満足して息を吐く。ああ、そういえばまだ彼の問いに答えてなかったな。会話を放棄してしまったことを申し訳なく思いながら口を開く。
「好きですよ」
「デゥエッ?!?!」
「え?……あっやだ、ちが、そうじゃ……あの、そら! 空色です! 好きでなんですかって、最初に聞いてくれたでしょう?」
「あ、ああ……はい……」
 彼も忘れていたのか「そういやそうだった……」と気まずそうに宙へ視線を投げる。が、少しの間をあけてから「エッ」とまた裏返った声とともに立ち止まった。つられて私も足を止め、突然耳まで赤く染めあげた彼に驚く。
「ロナルドさん? どうしたんですか?」
「ゥア、ア……っ、……あ、あの! それ、あの、色……お、俺の色って、思ってくれてたんですよね」
「はい。浅学でした、お恥ずかしい……」
「や、そうじゃなくて、えっと、……じゃあその、俺の色を、す、すきだなって思いながら身に付けてくれてた……って、こと、で、しょうか……なんて……」
 どんどん声が萎んでいき、やがて完全に途絶える。消えた言葉の代わりとばかりに、明るい青が私をじっと刺した。私はしばらく放心してゆっくり時間をかけて彼の言葉を咀嚼し、やっと自身の失言に気付く。そ、その通りだ。いや、その通りなんだが。そんなこと正直に言えるはずがない。だってそんなの告白と一緒だ。バレ、え、これ、バレてるの?
 胸のあたりから羞恥がせり上がってきて、唇が勝手に細かく戦慄いた。そんな私の様子を見て、ロナルドさんの顔にまた濃い朱が滲む。夜目のきく己の視力が恨めしい。普段はその恩恵に預かり綺麗な彼を堪能しているけれど、今ばかりは目に毒だった。
「おれが」
 何を言われるのかこわくて、つい足が爪先一つ分だけじりっと後退する。この場から逃げ出したい気持ちは山々だったのに、それと同じだけ恥ずかしくて動くことができなかった。しかしたったそれだけの僅かな逃走――とも呼べないほどだが――だったのに、ロナルドさんは大きく一歩近付いて、必要以上に距離を詰めた。
「にげないで、おねがいです、きいて」
「わ、わかりました。にげないです」
 これ以上近付かないでほしい一心で頷く。こんな近いと夜目がきかない人間の彼だって私の情けない顔がよく見えてしまうだろう。それに心臓の音が聞こえてしまいそうでいやだった。私が逃げないと言ったことに安心したのか、ロナルドさんは深い息を吐きながら俯いた。それから、すう、と息を吸う音と一緒に顔を持ち上げる。先程より赤みの引いた面持ちで、ロナルドさんは私を真っ直ぐ見下ろした。
「おれがあなたの空になります」
 思いもよらぬ台詞に心臓が止まった、気がする。そのくらいの静寂が唐突に降りかかった。気紛れな夜風が揺らす葉の音すら聞こえなくなる。
「俺はあなたを月のような人だと思ってました、思ってます。初めて会った時からずっと、月が落ちてきたかと思った、ちがう、思ってるんです、今だって」
 ロナルドさんはもどかしそうに言葉を重ね、一度黙り込み、唇を噛み締めた。少し切れてしまったのか、本能が甘い鉄の匂いを嗅ぎとる。色素の薄い瞳孔が徐に開いてゆく様がはっきりと見てとれた。
「すきです、あなたが」
 彼の口からカチ、と歯かかち合った音がした。薄い唇が震えている。
「どうかおれをあなただけの空にしてください」
 一度も逸らされなかった瞳が切なげに歪む。空はそれでも美しいままだった。

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