頭が上がらない


 すぐ死ぬ吸血鬼と恋仲になって数ヶ月。彼との仲は一向に進展していなかった。
 ドラルクさんは決して奥手というわけではない。いや、この現状を鑑みれば、まあある種そうともいえるのかもしれないけれど。しかしスキンシップはごくごく自然に行うし、愛の言葉も惜しみなく――なんならこちらが涙目になるくらいたっぷり注いでくれる彼を『奥手』や『ヘタレ』と称するのは、どうにもしっくり来なかった。むしろ、奥手でヘタレなのは彼からの欲をただ待っているだけの私の方だといえる気がする。つまり、私次第――というわけで。
「押し倒させてください!」
「……きみが? 私を?」
「はい」
「なんで?」
 なんで?! ドラルクさんの疑問は最もだ。なのに私はそう返されることを全く視野に入れていなかった。いやそりゃそう、なんでってなるよね。よく考えたら本当にそうだ。訝しげな眼差しの圧に、うまい言い訳も思い付かないまま、口を開く。
「その……そ、そういう気分だったからです」
「……押し倒したい気分?」
「う……そ、そうです」
 私の回答に、ドラルクさんは笑い出したそうにひくりと口端をピクつかせた。じわじわと顔が羞恥で火照っていくのが分かる。バレた、これ絶対邪なこと考えてるってバレた。押し倒したい気分って我ながらなに? ばか? ド直球すぎる。どうしてもっと捻れなかったのか。ちょろぎを見習え。
「ん、ふ……い、いいよ、どうぞ?」
「ウア〜〜〜〜!!」
「んはは」
 気遣ってるつもりなのか結んだ口から控えめに笑い声を漏らす彼に、笑うならいっそのこともっと盛大に笑ってくれという気持ちで顔を覆って悲鳴をあげる。軽く笑ってからその余韻をはあ、と逃がした彼は、仕方ないねという顔を作って「ほら」と、抵抗しませんよとばかりに両手を広げた。余裕綽々な態度に唇を噛み締めながらも、私の手は誘われるように彼の肩に吸い付いていく。手の中に骨ばかりの薄い肩を感じた。
「じゃ、じゃあ、いきますよ?」
「うん」
 優しく落とされた許可にえいと力を込めて押す。かなりおっかなびっくりの力加減だったのに、ドラルクさんはそれはもう呆気なくソファに背中をぺったり付けた。よ、よわ。まじで弱いし軽すぎる。恋人の貧弱さを思いもよらないところで実感してしまった。押した力や倒れ込む衝撃で死ぬんじゃないかと一瞬危惧したけれど、事前に来ると分かっていたからなのか、ドラルクさんは砂にはならなかった。
 寝転がった彼は、猫のような大きな瞳でじっと見つめ上げてくる。きっちり決められた髪型が、押し付けられているせいで少しだけ乱れていた。稀に見ない角度からの彼が新鮮でつい唾を飲む。
「それで?」
「え?」
「ここからどうするんだ?」
「……はい?」
  私の下で、ドラルクさんは楽しくて堪らないといった様子で喉を震わせた。こ、ここから? どうって、……えっどう?! 困惑していると、指先を口へと添えられる。下唇がむに、と押し上げられた。
「私を押し倒して、きみはなにがしたいのかな?」
「ドッ、うぁ、え……?」
 感触を楽しむように唇を揉まれていて、話しづらい。いや、そもそも今ちょっとまともに話せないんですけど。だって別に、そんな大それたことをする気はなかったんだ。ちょっと行動を起こせば、彼が私の意図を汲んでくれやしないだろうかという、結局彼任せの計画だったから。
「きみは私になにをしてくれる?」
 軽く握られた指の背が、唇から、頬、そして耳までゆっくりと滑っていく。耳を擽るような動きに甘い痺れを感じて少し震えた。なにを、これ以上――私が? でも、これでも私にしては、かなり頑張ったほう、で。唇がわなわなと戦慄き、じわりと目尻が湿ってくる。もう完全にキャパオーバーだった。
「……は、なんで泣い、えっ?」
「ご、ごめんなさ、わたし、分かんな……」
「いやいやいいよごめんね私こそ意地悪しすぎたかな?!」
 早口でそう言って、ドラルクさんはガバッと起き上がり、私を抱き締めて「よーしよし!」と背中をぽんぽん叩き、あやすように前後に揺れた。ゆらゆらされながら、私は肩に置いたままの手に力を込めて縋るようにぎゅうっと握り締める。ここまでしておいてノープランな挙句ショート。なんて不出来な恋人だろう。呆れられてしまったかもしれない。捨てないでほしくて「ごめんなさい」ともう一度めそめそ繰り返す。泣くのも、本当はよくないのに。
「謝らないでいいから……恥ずかしかったね。頑張ってくれたのに虐めてごめんね」
 鼻を啜りながら首を横に振る。あんな拙いものを頑張りと呼び、褒めてくれる彼にまた情けなさが募った。与えられるやさしさに溶けてしまいそうになるが、このままじゃだめだと覚悟を決め、深呼吸をして自分を保つ。
「……ドラルクさん」
「ん?」
「ドラルクさんは、私になにをしてほしいんですか?」
「…………エッ」
 背中を叩く動きが止まる。少し身動いで腕の中から至近距離の彼を見上げると、彼はなぜか急にぎしりと全身に力を込めた。
 私にはなにもできない、思い浮かばないのだ。だから、教えてほしい。あなたがなにをしたら喜んでくれるのかを。そんな一心で顔を近付ける。私の動きにドラルクさんが驚いて身を竦めたので結局少しだけ遠ざかったが、それでもめげずに訊ねた。
「私がなにをしたら嬉しいですか?」
「、いや、べつに――」
「なにもない? 私にはなにも期待してない?」
「そ、んなことはない、けど」
 けど、なんだろう。なにをそんなに言い淀んでいるのか。白目がちな瞳は忙しなく動き回っていて、その真意を掴むことができない。もっとちゃんと覗き込もうと彼の首筋に頬をぴたりと寄せ、角度を変えて見上げる。真ん前の喉仏が奇妙な音を立てて大きく上下した。
「お願いです。ちゃんと教えてください、ドラルクさん」
「う、……、……な、なにをしても」
「……? なにをしても嬉しいんですか?」
「は、はい」
 ぎこちなく敬語で答えられ眉をひそめる。答えになってないというか、なんか流されている? もしそうならいやだ、気なんて遣わずはっきり言ってほしい。あんまり私を甘やかさないでくれ。そう半ば詰る気持ちでじいっと見続けると、彼の頬にじわりと朱色が浮かんできた。獣の耳のような大きな後ろ髪が、心なしかぺたんと垂れている。本物の耳じゃないんだから、そんなことは有り得ないんだけれど。
「ほ、ほんと、うれしい、うれしいんだって。ね、うそじゃない」
「本当に? なんでもいやじゃないんですか?」
「じゃないです……」
 ふと気が付くと、尖った耳がさらさらと崩れていた。なぜ今死んで……? もしや重かったのかと慌てて頭を持ち上げる。ドラルクさんは眉を下げたまま、ぱちぱちと瞬きをしてそろそろと私を窺った。彼は安心したような、それでいて少し名残惜しいというような複雑な表情をしている。もう押し倒してはいないのに、不思議と先程のように上目遣いされているような心地になった。
「なに?」
「いや、耳が……重かったのかなって」
「ちが、あー、……んん……」
 眉間に皺を寄せ、難しく唸った彼は、深いため息のあと「そういうことにしておいて」と言って私を再び抱き締めた。するりと回った大きな手に後頭部を撫で付けられ、そのまま首の付け根あたりに頭の位置を軽く固定される。ここ、重くて死んじゃうんじゃなかったのかなぁ。大丈夫かな。不意打ちじゃなきゃ平気ってことかな。
「ドラルクさん」
「あー、うん、ちょっとまってね」
 待てと言われたので、頭を預けながらぼんやり無言で考える。衣服越しに触れる肩口は、さっきまでと較べたら、なんだかやけに熱い気がした。

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