お疲れ様


 なにかミスをしたとか、怒られたとか。そういう特別いやなことや理不尽なことがあったわけではない。それでも疲れるときは疲れるもので。溜まりに溜まった疲労で、漠然と生きるのが億劫なってくる、そんな気分だった――自宅の扉がひとりでに開くまでは。
「ご飯にする? お風呂にする? それともわ・た・し?」
 お腹は空いていなかったし、湯船に浸かる元気もなかった。なにより今日はもう誰とも話したくなかった。
 そう心の底から思っていたはずなのに。出迎えた美味しそうな匂いや、冷えた頬や耳を撫でるあたたかい空気。そして予期せぬエプロン姿の恋人を前にしても、いやな気持ちはまったく覚えなかった。先程までの鬱屈とした気持ちはどこへいったのか、仄かな安堵さえ感じている。なぜいるのかという疑問はあったけれど、それよりも風船が萎むようにどんどん気が抜けていき、やがては疑問すらどこかへ消えた。ただ呆然と彼を見つめる。
 ドラルクさんは「ひぃ〜さむさむ!」と身震いしながら、玄関口で棒立ちする私の両手を引いた。引かれるがままに体が動き、少しだけ足がもつれる。私が完全に室内に入ると、ドラルクさんは鍵を閉めた。「つめた〜もう手袋が必要だね」繋いだ手をにぎにぎと揉みながら、彼は上目遣いでこちらを見遣る。帰ってから一言も声を発さない私へ、とろりと眦を落とした。
「今日のメニューはね、サラダとミネストローネ、ヒラメのカルパッチョ。あと鶏胸肉の蜂蜜レモンソテー。デザートにはドラルク特製フォンダンショコラ、ローズフレーバーのグラニテを添えて!」
「グラ……シャーベットみたいなやつ?」
「そうそう。一度作っただけなのに、よく覚えてたね」
 えらいえらいと言うように頭を撫でられた。「気に入ってたもんね」という言葉に頷く。前作ってくれた時は夏だった。シャクシャクしてて、でもかき氷より濃厚で。お腹壊すでしょと怒られるまでつい夢中で食べてしまった。
「お風呂はね、バスボムセット貰ったんだよ。イースターのカップケーキみたいにカラフルな見た目の、種類も豊富なやつ。洗面所置いてあるからあとで見てごらん。それ使ってもいいし、いつも通りバブでもいいし」
「あ、バブ、もうなかった気が……」
「あるある、買っといたから」
 けろりとした調子で桃のやつね、と続けられて小声でお礼を言う。そう、桃のやつ。4種類パックの、私が好きなやつ。
「で、どうする?」
 ご飯もお風呂も、聞いているだけで素敵なものばかり。至れり尽くせりだ。私は迷った末、まだ手を揉んでいる指をそっと握った。
「……ドラルクさんがいいです」
「仰せのままに」
 玄関の柔らかい常夜灯の中、ドラルクさんはにっこり微笑んだ。勿体つけた言葉とともに、重なった手が恭しく上がる。驚いたり引いたりする素振りをちらとも見せない、流れるような彼のその態度に、私がドラルクさんを選ぶと分かっていたのかもしれないと感じた。……どこかうれしそうに見えるけれど、これはさすがに思い上がりだろうか。
「お姫様抱っこしてください」
「えっ、いやそれは多分ちょっとでき、……、……いや、いいよ。いいだろう! やってやろうじゃない!」
 ドラルクさんは「さあ来たまえ!」と目をクワッと見開き両腕を広げた。色々と覚悟をしているのがありありと伝わってくるその表情に少し笑ってから靴を脱ぐ。ごとっと転がった音がしたけれど、あとで片付ければいい。今は、それよりも。
 愛しい彼に「冗談ですよ」と言いながら抱き着いた。一部の隙間も作らぬようぴったりしがみつく。
 無茶をさせて砂にしてしまうよりも、今はとにかく抱き締めてほしかった。
「おかえりなさい、今日もお疲れ様」
 後ろ髪を梳かすように動く手と、耳元からじんわり沈みこんできた優しい低音に、現金だけど、生きててよかったと本気で思った。


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