嫉妬
束縛が嫌いな人だと思ってた。
それは私独自の勝手な見解ではなかったはずだ。少なくとも、お付き合いを始めた当初は、確実に。 根拠となるエピソードはある。それは彼が初めて家に遊びに来た時のことだ。飲み物に牛乳をだしたら、「このブランド、好きなんだよね」と嬉しそうに言われた。ので、私は「以前好きとお聞きしたので」と素直に述べた。愛する恋人のために――言うほど大した気遣いでもないのだけど――したことを、特段隠す理由もないだろうと思ったからだ。しかし私がそう言った瞬間、彼は一度、不自然にぱちりと瞬きをした。表情こそ変わらなかったが、咄嗟に行われたそれは、込み上げた感情を消そうとするような仕草だった。「そう! 嬉しいな。愛されてるね、私」返ってきたのは、にっこりとした屈託のない、いつも通りの笑みだ。彼の調子に合わせて、その時は私も曖昧に微笑んだ。
生じた空白は本当に一瞬のことで、沈黙とも呼べないような間だ。けれど、素早く泳いだ瞳に、僅かに強ばった口。刹那に見せた彼の動きは、あまりにも雄弁で。あ、嫌だったんだな、と悟るのは、そう難しいことではなかった。好きな牛乳の銘柄を把握されるのも、不愉快だったと。私とて、恋人成り立てほやほや相手からの、そんなにべも無いあんまりな拒絶に傷つかなかったわけではない。けれど、まあ。そういう壁を除けば、彼からの愛情はちゃんと感じていたし。嫌というなら、仕方ない。恋人だからといってなんでもかんでも制限したり把握したりは、たしかに鬱陶しいかも。うん、そうだ。これから気を付けよう。恋人の地雷を早々に知れてよかった――と、当時の私は思ったのだ。
「あ、すみません、今日夕飯は要らないです。これから友達に数合わせを頼まれて合コンに行くので」
「は?」
束縛されるのを厭うのなら、束縛するのだって面倒臭く思うに違いない。そんな私の予測通り、それなりに長いお付き合いを続けてきたが、彼は一度も私の交友関係に口を出してはこなかった。急な飲み会も、仕事のせいでのドタキャンも、先約があるからという理由でのデートのお断りも、全て笑顔で許してくれた。だから今日だって、例に漏れず明るく送り出してくれるのだろうなと考えていた――のに。
謝罪を混じえた私の報告に、夕飯の支度をしようと彼専用の黒いエプロンを身につけたドラルクさんは、聞いたこともないような低い声を上げた。
「合コンに行く?」
「か、数合わせです。抜けを作れないからって」
伝えた言葉の後半だけをオウム返ししてきたドラルクさんに、きちんと前半部分も再度口にして念押しする。それでも彼の眉は、不機嫌にひそめられたままだった。常とは違う恋人の様子に困惑しながら、口を開く。
「仲のいい友人なんです、ほら、前にお話したあの子。困っているなら助けてあげたくて。……私に恋人がいることはその子も知ってますし、最初は断ってくれてたんですよ」
「はあ?」
先程よりもさらに低い声に、つい肩を跳ねさせる。その子に非はなく、やむにやまれぬ事情だったのだということを伝えたかったのだが……やはり『恋人の存在を他者に伝える』こともダメだったか。焦りながら恐る恐る上目遣いでドラルクさんを窺った。恋人の顔に表情はなく、その瞳は恐ろしさを覚えるほど据わっていた。
「断ってくれてた。大いに結構、ご友人は正しい判断をしてくれたじゃないか。じゃあ、つまり。今のきみは、自分の意思でその合コンに『行きたい』と言ってるわけだ?」
「え、いやちが、あ…………そ、そう、なります、ね……?」
「へえ、そう。合コンに。恋人をほっぽって、他の男のところに。ふぅん」
ドラルクさんは、「そう」と繰り返した。棘のある言い方に言い訳というか口を挟みたくなる。
「や、行きたいというか――」
「その参加、いつ決まったの?」
「へ……せ、先週です、先週の日曜日……」
「ほー! だのにきみが私にそれを教えたのは、なんとたった今ときた!」
おかしいねえ、と彼はにっこりする。語尾に星でもつきそうなほど明るい調子だが、声音は冷え切っていた。
「六日も月が昇って沈んでを繰り返したのに、どうしてきみは、仮にも恋人である私に、そんな大事なことを教えなかったのかな?」
「だ、大事……? え……?」
「……ねえ、あのさ」
ドラルクさんは苛立ったように、組んだ腕を人差し指で神経質にトントン叩いた。
「これ、前からもうずっっっと思ってたんだけど。出掛ける予定とか、そういうことをろくに私へ伝えないのはどうして?」
「……いちいち報告されるのは面倒かなと」
「面倒? 恋人のことなのに?」
だ、だって、と口篭る。前、あなたが嫌そうにしていたから。だってなんだと促すように目を細められ、言葉に迷って俯いた瞬間、ポケットの携帯が通知を知らせた。縋るように画面を確認すると、件の友人からだった。会話を投げ出す形にはなるが、これで一先ずは間が持つと安堵しながらトークを開く。が、その途端携帯を抜き取られた。
「え、あ、あの」
私の呼び声を無視し、ドラルクはスッスッと指を動かし、画面を見つめた。え、もしかして勝手になにか送ってる? 怯えながら「なにしてるんですか」と何度か声をかけてみたが、悉くを無視された。先程携帯に逃げようとした仕返しだろうか。しばらく私の携帯で恐らく勝手に会話をしたあと、ドラルクさんは携帯の電源を落とし、ポイとソファへ放った。
「断ったから」
「え?! で、でも――」
「お友達、いい子だね。謝ってくれたよ。で、きみはそれでもまだ行きたいの」
「……べつに、行きたかったわけでは」
「嘘つき、さっきはそう言ったじゃないか」
じっとり詰られて気まずくなるとともに、口がちょっと尖った。さっきのはドラルクさんの聞き方にも問題があったのでは。そんな反発心から、私も調子を取り戻す。負けじと睨み返せば、意外にも、ドラルクさんはちょっぴりたじろいだ。
「は、な……お、怒ってるの? どうして? だって隠してたのはきみなのに」
「隠してないです、家を出る前にはちゃんと伝えるつもりでした」
「遅いわ!」
オド……と僅かに萎んでいた彼の調子が一気に膨らみ、ギャンと噛みつかれる。今日の彼の機嫌は随分と忙しそうだ。珍しい、いつもニコニコなのに。深い溜息を吐いたドラルクさんは、「そりゃあ」と零しながら、疲れたように額に手を当てた。
「きみにも友達付き合いとか、色々大事にしなくちゃいけない人間関係があるのは分かるよ。……でも私、きみの恋人なんですけど?」
「……? 存じております」
「いや、だから……だからね、恋人なんだから、どこ行くかとか、誰と、とか……あとはどんなところ、とかさ。そういうの、色々教えてくれたってよくない? って言いたいわけ、私は」
「……知りたいんですか?」
「当たり前だろう。だっていつも事前なんて名ばかりの、事後報告みたいなものじゃないか。毎度後手後手で、デートも断られるしさぁ……」
だからこうして押しかけるみたいな真似しちゃうんだよ、と彼は私を責めるように呟いた。そう、彼の来訪はいつも突然で。ふらりと気侭に現れては、夕飯を作り、泊まったり泊まらなかったりで。でも、そういうのも、こう、束縛が嫌いゆえの行動なのかなって、私はずっと――。
口を噤んだドラルクさんは、視線を落として逡巡し、ぱちりと、いつかのように瞬きをした。少しだけ眉間を狭めて、ぎこちなく微笑む。
「さみしいよ」
そんな五文字を静かに落とされ、そっと指先を握られる。掴む冷たい手は控えめな力加減で、少し身動ぎしただけで解けてしまいそうだった。いや、ていうか、あれ。さっきからずっと、私は何を言われているんだろう。なんだか、とっくの昔に『仕方ないよね』なんて、物分りのいいフリをして飲み込んだはずの感情を向けてもらっているように聞こえる。嬉しいのと、困惑と、何故だか無性に泣きたくなるのとで、心がザワついて落ち着かなかった。
混乱して二の句を告げないでいると、「いいよね?」と睨まれてしまったので慌てて頷く。彼の目元がホッと緩んだ。
「じゃ、これからはそういう連絡が来た時点で私にも伝えること。分かった?」
それは分かった、分かりましたけど。でもやっぱり、もう何がなんだかわからなくて、「ええ……」と零してしまったのは許してほしい。結局許されなくて、「ええ、じゃない」とムスッとしたドラルクさんにおでこを弾かれてしまったのだが。
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