タヌキとゴリラ


「ごめん、あの、締切が」
 意気揚々と事務所の扉を開けば、髪と同じくらい肌の彩度を落としたロナルドに出迎えられた。
 始まりは、私が知り合いからブリンスホテルのランチビュッフェお二人様券を貰ったこと。『お二人様』。一緒に行きたい相手として、真っ先にロナルドの顔を思い浮かべてしまった。
 トーク画面を前に何度も迷って、文を打ち直して、結局私は、ビュッフェ詳細URLと、【ホテルのビュッフェ券あるんだけど、一緒に行かない?】なんてストレートな文を送った。バカ二人を合わせて四人で集まることはあれど、彼と二人きりというのはなんだかんだ一度もなく、変に思われたり、または断られたりしないだろうかと不安だった。けれどいざ返ってきたメッセージは【え、絶対行く】なんて気軽な即レスで。あんなに身構えて心臓バクバクで三十分かけて送ったのに、拍子抜けもいいとこだ。素直に喜べないような、肩透かしを食らった複雑な気持ちで、期間限定デザートがあるんだって、とメッセ欄に打ち掛けていた言い訳のような追記を消していく。多分こいつ、いいホテルってとこにつられてるな。あんまりよく考えた返事じゃなさそう。単細胞、助かる。
 好きな人と初めての二人でお出掛け。浮かれないわけもなく。必要ないのにわざわざワンピースを新調したり、午前中はヘアサロンでセットしてもらったり。あとは――そう。体格のいいロナルドの隣に並んでも見劣りしない身長になるくらいの、たっかい踵のある靴とかも買っちゃったりして。私の顔を見るなり謝罪したかと思えば、そのまま流れるように土下座した銀髪を見下ろし、内心で溜息を吐く。旋毛が見たくて履いてきたわけじゃなかったんですけど。
「短いコーナー任せてもらってたの、忘れてて、あの……ほんとすみません……」
「……いいよ、それよりそんなとこに正座したら痛いでしょ、脚」
「や、おれ鍛えてるんで……」
 消え入りそうな声で変な理屈を展開してくる彼に呆れながら、床へ向いた肩を軽く押す。私の力に従って大人しく上体を上げたロナルドは、目一杯に涙をため、青い瞳を子犬のようにうるうるとさせていた。
「ごめん、あの……まじ、ごめ……」
「いいってば。売れっ子は大変だね」
 青白い唇がキュッときつく引き結ばれたことで、嫌味たらしい言葉だったと気が付く。私は自分で思ってるより、ずっとガッカリしているらしい。大人げない。仕事なんだから、仕方ないことなのに。……いや、締切忘れてたロナルドも悪いけど。それでも傷付けてしまった挽回をするために、「大丈夫だよ」と声音を意識して柔らかくした。たちまち青が安堵で溶けるのを確認し、ホッと胸を撫で下ろす。
「有効期限はまだ先だし。また今度予定合わせて行こう」
「えっ……いや、でもお前……その格好……」
「……なに?」
 ロナルドの視線が私を捉えて上へ下へと忙しなく動く。不躾ともいえる視線の圧に居心地の悪さを感じていると、やがて咳払いをしたロナルドは、「いや」と静かに呟いた。先程とは打って変わってすっかり落ち着いた声のトーンに驚く。
「やっぱり今日行こう。何時まで?」
「え、三時……あ、ラストオーダーは二時半まで」
 腕時計を見ると、時刻はちょうど正午を指していた。遅くとも二時には事務所をでてホテルに向かわなきゃいけないし、いつも締切に追われているロナルドでは、二時間で書き上げるのは到底無理なのでは。
「ならいける」
「……ええ? そんな無理しなくても……」
「無理じゃねえよ。今日ずっと楽しみにしてたし……お前もほんとは行きたいんだろ」
 誘った身でもあるし、その通りなので否定の言葉を紡げなかった。そりゃ、私だって今日行けるなら嬉しい。でも杜撰な仕事をして、あとで泣きをみるのは彼だ。
「大丈夫だって。追い込まれた時こそ、人間本気が出せるんだよ。二時までには終わらせっから……だから、悪ぃけど奥で待ってて」
「でも――」
「な、頼む」
「……わかった」
 澄んだ瞳で一心に懇願される。戸惑いながら小さく頷くと、彼は安心したように相好を崩す。
「ドラルクさん、まだ寝てるんだよね」
「ん、ああ。多分な」
「そっか、残念」
 暇だからお相手してほしかったな。それかゲームさせてほしかった。博識で親切な彼と話すのは楽しい。恐らくワンチャン吸血を狙われてるんだろうとは思うけど。通されたテレビ前のソファに腰掛けながらの呟きを拾ったロナルドは、ぴくんと眉を動かす。用意してくれたお茶菓子やらを机に置くと、なにやら考え込んでから、キッと険しい表情を浮かべた。
「……メビヤツ!」
 ロナルドの鋭い呼び声に、ビッという凛々しい鳴き声――鳴き声? がする。玄関にいたはずのメビヤツが、タイヤから火花を散らしてロナルドの隣に駆けつけた。
「これ、俺のオススメ映画。超面白いから。ほんと最高だから。あんなクソ雑魚砂なんてクソどうでもよくなるくらいクソ最強だから」
「最強……?」
 ロナルドはテキパキとDVDをメビヤツにセットし――そこに入るの知らなかった――、「じゃ、大人しくしとけよ!」と荒い調子で言い残して、事務所へと戻っていった。なんだかやたら怖い顔してたけど、なに? さっきから泣いたりキリッとしたり突然キレたり。情緒不安定だなぁ。締切のせい?
「ていうかこの映画、観たことあるんですけど」
 薦められるの、もう何度目だと思ってるんだ。呆れを隠さず溜息を吐くと、困ったように瞳を歪ませたメビヤツと目が合う。汗をぴょんぴょんと跳ねさせているように見えて不思議だ。無機物、しかも機械だからそんなはずないのに。ちょっとロナルドに似てるかも、と思いながらねー、と語りかければ、メビヤツは「ビ……」と分かりやすく判断に困っている声で返事をしてくれた。
 ⿴⿻⿸
「――ったぜ! って、あれ……」
 疲れた、でもうれしそうなロナルドの声。ゆっくりと意識が持ち上げられる。どうやら寝てしまっていたらしい。映画は――ちょうど山場のようだ。プロジェクターから、かつての英雄が、恐ろしい吸血鬼と死闘を繰り広げている音が聴こえた。
「……寝てんの?」
 隣が控えめに沈むのが分かった。起きてる、起きたよ。お疲れ様。そう返事をしなきゃと思ったが、心地よい微睡みからすぐに抜け出すことができない。瞼を開くこともせず、俯いたままぼんやりする。この映画、二時間もないし、ロナルド、随分早く終わらせたみたい。でもたしかに、ロナルドって追い込まれた時こそ頑張れるタイプだよね。
「かぁわい……」
 そんな頑張った彼を放って、どうでもいいことを考えていた罰だろうか。唐突に鼓膜を揺らした脈絡ない単語に、叫びそうになった。
「はー、ほんと……すきだな……」
 私が起きていることに気付いていて、からかって遊んでいるのかと思ったけれど。そうっと押し出すように重ねられた囁きを聞くに、ふざけているわけでもなさそう、となんとなく思った。垂れた髪が暖簾の役割を果たしてくれていたので、噛み締めた口の動きはバレていない。いやなに。なんだこの男急に。心臓吐くかと思った。猫の……いや、ジョンくんの写真でも見ているのだろうか。私が寝てて暇だから? 普通に起こしていいのに。
 しかし彼の声が、あんまり甘く穏やかに蕩けていたものだから、なんだか私も素直に目を開けるのが惜しくなってくる。もはやすっかり覚醒しているのに、この声をもう少し聴いていたくて、寝たフリを続けてしまった。
「へへ……好き」
 知ってるし分かる。私もジョンくん好き。そう内心で同意しつつも、ちょっとだけ寂しい気持ちになった。羨ましい。いいな、ジョンくん。私も一度でいいからそんなこと言われてみたいよ。そんな心底好きでたまらない、みたいな。私にはきっと一生向けられないだろう、羽のように柔らかい声。愛しいもの相手だと、ロナルドってそんな音だすんだ。知らなかった。
「かわいい、好きだ」
 わたしも。私もすきだよ、ロナルドのこと。気付いてないだろうけど――言うつもりもないから、別にそれは構わないが――、昔からずっと好きなんだよ。責任感強くて、気遣い屋で、繊細で。無機物の心を呼び覚ましてしまうほどに純粋なロナルドが、大好き。
 挙げ出したらキリがないな、なんて思っていると、不意にソファが揺れた。はあーっと大きく息を吐く音がする。ロナルドは脱力したらしい。
「……って、寝てるときなら、簡単に言えんだけどなぁ」
 ……は?
  思いがけない言葉に、とうとう誤魔化せないほど身体がビクッと動いてしまった。ロナルドがギシ、と身を強ばらせたのが気配で分かった。
「……は、……エッ?」
 未だ喋り続ける退治人と吸血鬼の声が、どこか遠く聞こえる。このソファ一帯の空間だけが隔離されているみたいに、痛いほどの沈黙が私たちを包んでいた。
 瞼の外が明るくなる。髪を避けられたのだろう。顔を隠すものがなくなってしまった。観念して恐る恐る目を開ける。飛び込んできたのは、銀と青と、もう一色。
「……真っ赤じゃん」
「お前が言うなよ」
 すかさず切り返され、グッと押し黙る。私を覗き込んだロナルドは、赤らんだ顔で目を眇めた。
「いつから起きてた?」
「さ、最初から……ごめん、あの、タイミングを逃して……」
「ッ、あー! くそ、全然気付かなかった……」
 彼は退治人としてのプライドが、と悔しげにしながら、ぐしゃぐしゃと髪をかきむしった。
「……で」
「え」
「だ、カラ、返事……き、聞いてたんだろ、全部」
 裏返った声に口を開け、声を出そうとして閉じる。喉の奥が張り付いていて、ろくな返事が出来そうになかった。私の様子になにを思ったのか、ロナルドは眉間に深く皺を寄せる。それからグ、と厚い唇を噛み締め、目を固く瞑った。ほんの数秒で白銀の睫毛は緩やかに上がり、底抜けに明るい蒼が私を真っ直ぐ捉えた。
「好きだ」
 私とロナルドの顔の距離は、もう拳一つ分もなくて。自分の頬の熱に加え、ロナルドから発せられる熱も感じて、ひどく暑かった。ロナルドの大きな瞳が間近できらりと輝き、揺らぐ。
「気付いてなかっただろうけど、ずっと好きだった」
「――わ、わたし、私も、私も好き。私も、昔から」
「……そっか」
 息も絶え絶えになんとか気持ちを返すと、ロナルドはじんわりとかんばせを綻ばせた。硬い皮膚をした親指が私の眦をなぞる。ぬる、と肌を滑る感覚に、自分が泣いていることに気が付いた。
「え、と……今日、その、服――や、髪とかもだけど。かっ、か……かわい……」
「……ん、ふふ」
「わ、わらうなよ」
 耐えきれず笑いを零すと、ロナルドは顔を茹で上がらせたまま、ムッと下唇を突き出した。だって、その続きは知っているから。ついさっきに聞いたばかりだった。
 突然鳴り響いたアラームが、弛んだ空気を切り裂く。「あ、ごめん、おれ……」ロナルドが狼狽しつつジャケットの内ポケットをまさぐった。化粧を崩さないようにハンカチを目元に押し付けながら、ふと気付く。そういえば、ロナルドの服装も普段より気合いが入っているような。
「一応、一時半にかけといたんだ」
「そっか。……ビュッフェ、行けるね」
「ん……」
 気まずげにはにかんだロナルドの名前を呼ぶ。意を決して深呼吸する私に、彼は小首を傾げた。
「ロナルドも、今日、あの……かっこいい、ね」
 サラリと何気なく、そしてスマートに伝えようとした。それなのに、先の彼と同じくらい吃ってしまった。羞恥でまた更に顔が熱くなってくる。でも私はリハなしなんだからしょうがないでしょう。ニヤケ顔のロナルドの腕を照れ隠しで軽く叩いた。もういい、いいから早く行こう、……デートに。意気込んで立ち上がった途端、映し出されていたエンドロールが、プロジェクターからプツンと消える。
「ビ!」
 周囲に花を舞わせたメビヤツが、私とロナルドをにっこり一つ目で見つめていた。

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