白木蓮


 服も髪も向日葵色の、吸血鬼にしては派手な見目の男との出会いは、まだなんの臆面もなく自分を少女と呼べた時代だ。
 大人になり、社会の歯車の一端として疲れ果てていた頃、春嵐を引き連れ悠々やって来た彼から手を差し伸べられた。うっかりその手を掴んでしまってから、もう何年経っただろう。両の手の数を越してからは、数えるのをやめてしまった。
「ユーランさん、お手紙が」
「ン、ありがと」
 吸血鬼の名を、ユーラン。
 人間にしては短くない年月を共にしているというのに、私はそれが本名なのかさえ、未だに知らなかった。恐らくは、偽名だろうと思う。しかし私にはそれを確かめる術も勇気もない。彼は詮索を嫌う。自由で気紛れな彼にとって、少しでも都合よくいたい。そうすれば、好かれることはなくとも、嫌われることもない。それが、人ならざる彼に懸想してしまった私にできる、唯一の愛情表現だった。
「おや、きみ、体調が優れないのかい?」
「え? いえ、そんなことは」
「そう?」
 受け取った葉書へと向くかと思われた切れ長の瞳孔が、真っ直ぐ私を貫いた。人間とさして変わりのない肌色の手が伸びてくる。緩く曲がる指が、すっと頬を撫ぜた。咄嗟に瞬きをして、動揺を押し殺す。好意を悟られないようにする立ち回りだけは、この十数年でかなり上達した。
「いつもより顔色が良くない気がしたけど、思い過ごしだったかな。……うん、あたたかい」
「そうですか」
 彼はにっこりと赤い目を閉じて笑った。あたたかい理由は体調云々では確実にないだろうけれど、気取られては堪らないので薄く微笑んでおく。ユーランさんは満足気に今度こそ葉書へと視線を落とした。伏せられた赤い瞳が、綴られた文章を優雅になぞる。暖炉の炎がぱちぱちと爆ぜる音だけがしていた。
 底抜けに明るい振る舞いが常の彼だが、ここ数年はこうして黙りこくった姿を見せることも多い。集中している時だけでなく、基本的に意外と静かなのだ。私はこういう時の彼と過ごす時間が好きだった。ほんの少しだけでも、彼にとっての『とくべつ』になれたんじゃないかと錯覚できるから。私は肘掛椅子に腰掛けて、彼が与えてくれた黄色のブランケットを羽織って目を閉じ、ゆったり流れる時間を堪能した。
「ああ……」
 うっかり零れたというような苦笑混じりの音が耳朶に触れ、驚いて瞼を持ち上げる。ユーランさんは葉書の裏面を見ていた。今こちらから見えるのは文字列のみだけれど、渡したのは私だから、そこに写っていたのがなにかは知っている。朝焼けの写真だ。境目を焼いて暈し、海に一条の光の道を作る景色はとても見事で美しく、そして非常に見覚えがあるものだった。なぜならそれは、少女だった時分に、私が彼に送った物と寸分違わない代物だったからだ。
 先にも述べたが、彼は詮索を嫌う。故に分かりやすく好悪を顕にすることは、基本ない。つまらなかろうが退屈だろうが、人前であればのらりくらりとした食えない笑みを浮かべるのが彼の様式だ。なのに、今の声は私に分かってしまうくらい飽き飽きしていた。この場に他人がいても漏れてしまう――つまり、それ程この葉書が、この朝焼けの写真が『いや』ということで。
 そのことに気付いてしまった瞬間、心臓がいやな軋み方をし始めた。胃が蜻蛉返りして暴れ、唐突な嘔吐感に襲われる。喉の張り付くような乾き、指先の急速な冷え。全身が過去の自分の行いを全力で責め立てていた。
 昔、私がこれを送った時も、彼は今のような声色と顔をしていたのだろうか。それこそ確かめる方法はない。しかしそれは想像するだに恐ろしいことだった。いや、もしかしたら覚えていないかもしれない。そうだ、覚えていないのだろう。私がそんな愚かな真似をする人間だと分かっていたら、きっとこんな気紛れを施したりはしない、はずだ。
 視線に気付いた彼が些か困ったように口元を緩め、「これね」と葉書を振った。
「よく送られてくるんだよね、これ系。朝焼けのね。……でもマ、これはちょっと懐かしいかな」
「そうなんですか?」
 懐かしいという言葉にさっき感じた負の感情はないように思えた。安堵しかけたが、まだ私の前だから取り繕っているというだけの可能性も否めない。私はすっとぼけることにした。「ん?」ユーランさんの形いい眉が吊り上がる。
「そうなんですか、じゃないだろ、きみ。昔送ってくれたじゃない」
「……そうでしたっけ」
「そうでしたっけェ?!」
 ユーランさんが甲高い声とともにパッと立ち上がる。対して私は、彼の分かりやすく取り乱した様子が珍しくて目を白黒させた。大股で私の目の前まで歩いてきた彼が居丈高に私を見下ろしてくる。彼の機嫌を損ねている現状が不安で、ブランケットを手繰って胸前で握り締めた。
「よく思い出してごらん。まだ一緒に暮らす前だよ」
「え、っと……」
 彼がこうもしっかり覚えてしまっているなら、惚けても無意味な気はした。しかし一度でも彼をガッカリさせたという現実を認識したくなくて、つい口をまごつかせる。 煮え切らない私に、ユーランさんは焦れた様子で椅子の背もたれに手をついた。よく見ろとばかりに、葉書を顔の前に掲げてくる。
「ほら、どう?」
「わ、分からない、覚えてないですね……」
「ハア〜〜〜?」
 ぽいとぞんざいに投げ捨てられた葉書にあっと小さく声が零れる。ひらひら落ちていく先を追っていたが、ずいっと割り込んできた煩わしげな顔に視界を遮られた。骨ばった高い鼻先が今にも触れそうで思わず息を止める。
「随分簡単に忘れてくれるね」
「ごめんなさい……?」
「ああ、本当にひどい子だ。……そうだ、手紙の内容を諳んじてあげたら思い出すかな?」
「は?!」
 ユーランさんはとんでもないことを名案だとでも言うように宣った。内容なんてそれこそ本当に覚えていない。多分会いたい的なことを書いたような気がしなくも……。しかし諳んじることができるほど短くはなかったはずだ。
「『できるわけない』って顔してるね」
「まあ……記憶力がいいのは知ってますけど」
「そうとも。私は忘れっぽい質じゃない。きみと違ってね」
 嫌味たらしく付け加えられた言葉に、知ってますと内心で返す。ねちっこいですよね。しかし思うだけに留めたが、顔にでていたのか彼はぴくりと目を細めた。ああ、しまった、私のばか。さらに怒らせてどうする。
「いや、でも、さすがに手紙の内容を全て覚えてはいないでしょう?」
「無論、覚えているとも。一言一句違わずに。なんなら筆跡も真似て再現してあげようか」
「是非やめてください」
「じゃあ早く思い出して」
 にこやかな彼に閉口する。もしかして思い出したと言うまでこのままなのだろうか。「どうして」そこまで固執する理由が分からずぽろっと落ちた。それを拾い上げた目の前の彼の顔が、ムッと歪む。
「思い出を共有したくてこうして共に過ごしているのに、忘れられたら意味がないだろう」
 だから早く。
 そうせっつく声は、『D』と呼ぶ吸血鬼の悪態をついているときのように不機嫌な響きをしていた。


――あるいは、置いていかれて寂しがっている子どものような。

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