ホテルに行く


「実際にしたら死んじゃう気がするんですよね、ドラルクさん」
「…………はあ」
 長い沈黙の末に短く促されたが、それは『大変気が乗らないがここで無視しても後々面倒そうだしな……』という気持ちがもうありありと伝わってくる声音だった。もう少し隠してほしい。
「……ちなみになにを“したら”って?」
「えっちなことです」
「ああ、そう」
 ゲンドウポーズで厳かに切り出すと、向かいからまた同じ調子の、投げやりな返事が返ってきた。めげないしょげないドラゲナイの精神でじろりと恋人を――ドラルクさんを見る。
「性的欲求に男も女もヒトも吸血鬼も関係ないと思うんですよ。だってほら、性欲なんて要は子孫繁栄! 生き物としての本能!」
「吸血種の存続に性行為は必ずしも必要では――」
「そこで私、ちょっと色々考えてみたんですよ」
「聞けや」
 珍しく荒い口調になったドラルクの額に青筋が浮かぶ。彼は「絶対ろくなことじゃない」と苦虫を噛み潰したように顔を顰めた。
「すぐ死んじゃう恋人とえっちなことをするために、考えたんです!」
「あーあーあーあー声がでかい、はしたないぞ全く……。というかそもそも、別に死なないんだが」
「あのですね、本番が無理でも素股、エッ死なないんですか? は? なにその確信ある声……はっ?? 実践済み? は??」
「は? 待て今なに? なんて言った? 何言いかけた? すま、は??」
 そういえば一世紀前は彼も“吸血鬼らしい吸血活動”を試みた時期があったという話を聞いたことがある。えっつまりそのときそういったことをしたってこと? 
「え、なに、なんでそんな発想――誰、どこで知った?」
「いや、昔彼氏に……」
「は??」
 体をがくがく揺らされながらぼんやり答える。大学生になりたての頃、付き合ったばかりのサークルの先輩に本番を断ったら「じゃあ」と提案された。当時は断ったし、その先輩とはそれからなんとなく気まずくなってすぐ別れてしまった――いや、そんなことはどうでもよい。それより今はドラルクさんの話だ。
 私は別に彼を童貞だと、なんの経験もない吸血鬼だと思ってた訳じゃなかった。だって私がどれだけアプローチを仕掛けてみても泰然としているし、いつも余裕たっぷりで倍返しされるから。経験値の違いは普段からずっと、それこそイヤになるほど感じていた。
 だからこそ、恥を押し隠してこんな荒唐な提案をしたのだ。いつまでも『あんまりしつこいのでとりあえず恋人の肩書きをくれてやった人間』止まりではいやだった。
「……つまりきみは、昔の彼氏としたことを、この私としたいって?」
「はあ、まあ……」
 とにかく、狩りの上手なハヤブサへ無謀に挑むガチョウの雛のような。そんな心持ちでこの提案をしたはずだった。それなのに唐突な匂わせを受け、私は心の武装していなかったところをがっつり抉り取られた気分になっていた。なにこのカウンター。角度えぐない? えきっつ視界クラクラしてきた。まだなにもしてないのにダメージやっば。ものすごくショック。むり、立ち直れない。燃え尽きちまったぜ、真っ白な灰によ……あしたのジョーってつまりドラルクさんのことなのかな。まじかよタイガーマスク。
「……へえ、そう」
「はい……」
 ショックのあまり思考回路がひどく混線していて、リオよりしっちゃかカーニバルだった。そんな状態で呆然と発せられた言葉に、私の明確な意思なんてこれっぽっちも含まれていない。あれ今なんか言われて反射的に口動かした気がするけど、なに言ったっけ。それより結局ジョーは生きてるのか? そしてジョンはメロンパンの化身。背負いしは世にも甘美な格子模様。なんかお腹空いてきた、夕食なんだろう。
「いいだろう」
「……へ? え、なにがです?」
 そう、私はひどいショック状態で、精神崩壊寸前で、それはもう現実逃避に必死だった――ドラルクさんの異変に気付けないほどに。ドラルクさんのやけに冷たい声で、やっと意識が現実に戻ってくる。「なにがって!」彼は心底愉しそうにうっそりと口角を緩めた。ドラルクさんの手がついと見えない糸に吊られたように上がり、トン、と私の鎖骨の下、胸の付け根あたりを押す。ぐっと力を込められ、手袋越し、衣服越しに人差し指の硬い爪を感じた。
「きみが望んだことだろう」
 向けられた笑みはどこか意地悪くて、せせら笑っているという表現がぴったり当て嵌るようなものにも見えた。え、あれ、今この瞬間突如として私の視力がマイナスになっちゃったのかな? だってドラルクさんは、面倒くさがりながらもなんだかんだいって私に甘い。だから、そんな彼がこんな顔を向けるなんて、そんなはずは。
「しようじゃないか、お望みどおり。えっちなこと」
 どうやら耳までバカになってしまったらしい。謳うように囁かれた言葉にフリーズする。予期せぬショックって恐ろしいな。私は本日二度目の現実逃避に走った。
 ◆
 ご馳走様してもらうはずだった夕飯も食べず、私は夜の街へと連れ出された。普段全く通ることのない道をすいすい進んでいく恋人の背中を小走りで追い掛ける。ドラルクさんの足はとても早くて、気を抜くと見失ってしまいそうだった。
 やがて辿り着いた、お城のような今日び珍しいほど『如何にも』なホテルにビビって一瞬足が止まる。けれどドラルクさんが外観を何も気にせずさっさと行ってしまったので、私も意を決して中へと踏み入った。
 見た目に反して、中は思っていた以上に普通だった。なんなら高級ホテルみたいな……じゃあ外観も普通でいいだろ……。既に券売機みたいな機械の前に立って画面を見つめているドラルクさんの近くに怖々と近寄る。
「どこがいい?」
「ど、どこでもよいです」
「そうですか」
 ドラルクさんの指がパネルの上を迷いなく動いていく。あっ宿泊なんですね……たっっっか。え、暫定料金たかくないか? こんなもん? いや絶対ちがう……ていうかドラルクさんすごい慣れてんな……と思ったところで「いやぁ」とドラルクさんがやたら大きな声をあげた。
「人と来るのは初めてだなぁ」
「あ、そうなんですか?」
「うん、帰りそびれた時とかに避難したりはするけど、誰かと入ったことはないな。私は」
「へぇ……」
 てことは、ご自分の城か相手のおうちで……。へ〜、そうなんだ……。それはつまりプライベートなお付き合いってことで……。もしかして実は、めちゃくちゃ……仲がよかっ……。
 メンタルが死ぬ気配を察知したので私はそれ以上考えるのをやめた。ふと隣から妙な含みを孕んだ視線を感じて首を傾げる。
「なんですか?」
「……べつに? ただ私はないけどねって! 私は!」
「そうなんですね」
 フロント隣には、色んな種類のシャンプーやリンスのボトルが薬局のように並んでいた。好きなものを持っていっていいらしい。え〜どれにしよう、あ、これ一度使ってみたかったんだよな。
「ドラルクさんはどれにするんですか?」
「……きみと同じのでいいよ」
 紫のボトルを一セット持ってエレベーターに乗る。前を歩くドラルクさんについて指定の部屋に入っていく。真っ先に視界に飛び込んで来たデカい天蓋付きベッドに慄いた。背後の扉からカチャンと勝手に鍵が回る音がして肩が跳ねる。あっそういう感じなんですね。
「お風呂、お先にどうぞ」
「いや、私はあとでいいです……」
 先に色々物色してこの空間に慣れておきたかった。外套とジャケットをハンガーにかけながら、彼は「そう」と返事をした。
「じゃ、お言葉に甘えて」
「ごゆっくり〜……」
「はーい」
 シャンプーを受け取ったドラルクさんは、気軽な様子で奥のバスルームへ消えていった。パタンと閉じた扉を見ながら、ぼんやり立ち竦む。ジャケットとか脱ぐと、あれだな、ドラルクさんすごく華奢になるな……。黒色は目の錯覚で細く見える効果があるというけど、脱いでさらに細く見えるってなに? え? じゃあシャツとかその他諸々を脱いだらどうなっちゃうの? さらに薄くなっちゃうの? それはもう存在の消滅じゃない? 
 入口脇のコンビニボックスを見ないようにしながら、掃き出し窓前のテーブルまで進む。テーブルに置いてあったメニューにはサービスのドリンクやフードについてが書かれていた。ソフトドリンクはもちろんカクテルやタピオカ、クリームソーダまである。でもスイーツはドラルクさんが作ったやつの方が美味しそうだな、当たり前だけど。ていうか、花。ねえ。花弁が散らばっとるでおい。ベッドにそろそろと歩み寄り、マゼンタ色の造花を一枚つまみ上げる。ど、どうするのが正解なのこれ。このままでいいの? 掃除したほうがいいですか?
「なにこウワッ」
 サイドテーブルに置いてあった白い宝箱みたいなものを開けるとコンドームが入っていてウワッとなった。ああ、うん、まあ、ありますよね。そりゃあそう。そういえばラブホなのにガラス張りのシャワールームじゃないんだなぁ。ヘッドボードに備え付けられたボタンをポチポチしてみる。ムーディな灯りがついたり、歯医者で流れてそうな音楽が流れたり、テレビが大音量で喘ぎ出したり。AVが流れることは知っていたけれど、このボタンでテレビがつくとは思ってなかったのでまたウワッとなった。
「……ローション!」
 やることもなくなったので、結局そのままにしていた花弁の上に漠然と寝転がっていた。が、ハッと飛び起きる。素股にはローションが必須だとネットで読んだ。
 先程素通りしたコンビニボックスまで駆け寄ると、お目当てのブツは『1000円』と表示されていた。相場が分からん。ていうかここめちゃくちゃ高かったんだけど私払えるかな。手持ちが……。札を挿入し、ボトルを取り出す。想定より重かった。あれかな、ドロッと……してるからですかね……。なんとなく照明に翳してみたら、自分の手が震えていることに気付く。うわあ、ビビってる……。深く息を吐きながら、ボトルをギュッと胸に抱えこむ。いやビビるよ、だって処女だもん……。いや、本番まではしないけどさ……。
「お次の方〜」
「デァイッ、ダッ、ハイ! あっ」
 驚いた拍子にうっかりローションを放りだしてしまった。慌てて手を伸ばしたがそれも虚しく、コンッゴトッゴロゴロ……と、ピンクのボトルが転がっていく。ローションは示し合わせたように赤い爪の前で静かに動きを止めた。何故よりによってそこまで。えも言われぬ沈黙が生まれた。血の気がザアッと引いていく感覚がたしかにするのに、毛穴という毛穴から汗が噴きでる感覚も同時に襲ってきていて、うわなんかきもちわるい吐きそう。
「入ったら?」
「…………ハイ」
 なんにも気にしていない声色に、逆に殺してくれよという気持ちが強くなる。顔を見ないようにしながら、バスローブ姿のドラルクさんの隣を通り過ぎた。
 ◆
「あっローション置いてきちゃった」
 並ぶクレンジング類を物色しながら、転がったままのローションを思い出す。いや、持ってきたところでって感じではあるけれど。
 浴室の蒸気はすっかり引いていた。お湯は張っていないらしい。こういう時の作法はシャワーだけなんですね分かりました、先人に倣います。ていうかドラルクさん、めっちゃ早かったな、カラス? と思ったけれど、時間を確認したらホテルに入ってからもう一時間近く経っていた。騏驥過隙〜……。そういえば髪の毛も乾いてたような。髪の毛乾かしてもいいんですね。ラブホといえばなんとなくもつれ込むようにすぐさま事に及ぶイメージが強ああああやめよ、もうやめようこれ以上は。余計な事考えると自爆して一生バスルームからでれなくなる。
 死んだ目でカラフルなライトの中念入りに体を洗い、毛先までしっかり乾かし、備え付きのスキンケアもたっぷり使わせていただき、バスローブを身に纏う。扉の前で何度も深呼吸をした。うう、いつもより時間かけたのに、もう終わっちゃった。……でも一時間はかからなかったな。ドラルクさん、実はお風呂入ったのかも。じゃあわざわざお湯抜いてくれたんだ。私も入ればよかった……。気遣いに気付けなかった自分の勘の鈍さに今更歯軋りする。
 覚悟を決めて扉を開ける。明るい部屋の中、ドラルクさんは花弁を気にせず、天蓋付きベッドにうつ伏せで寝っ転がっていた。枕に顎を乗せてつまらなそうに携帯をしている。ぽんぽんと足をリズミカルにばたつかせ、完全にリラックスしていた。まじで慣れてるじゃぁん……。緊張しきっているのは私だけで、劣等感で泣きたくなる。私に気付いたドラルクさんは、携帯をサイドテーブルに置いて起き上がった。垂れた前髪が新鮮で心臓がきゅうっと掴まれた心地になる。う、幼い、かわいい、でも後ろ髪は立ったままなんだ。新たな一面を発見できてうれしい、うれしいけれど。
「ちゃんと髪も乾かしてるね」
「ドラルクさんも乾かしてたので……あの、いい匂いでしたね、これ、シャンプーとか」
「分かる。サラサラになるしね」
 普通に話せたことで少しホッとする。緊張が緩んだ勢いでそのまま歩を進め、ベッドに腰掛けるドラルクさんの前で立ち止まった。……そうだ、ローション、どこだろう。シャワールームの入口の外に落ちてなかったし、ドラルクさんが拾ってくれたんだろうけど――そうベッド周りに意識を向けていれば、右手首を掴まれた。
「え――う、わ」
 一度柔く抱き締められた、と思えばそのまま体が後ろに倒される。ふんわりとしたベッドが背中を受け止めた。熱が離れ、かわりに影が落ちる。「ど、ドラルクさん」咄嗟に零れた呼び声は、なにかを乞うような響きをしていた。返事の代わりか、彼は無言で伏せられた目を向けてくる。凪いだその表情から、感情を読み取ることはできなかった。
 乗り上がらなかった片足の半分が、ベッドの外へ中途半端に投げ出されている。私の足の間に、ドラルクさんが片膝を差し込むと、ベッドが沈んだ。身動きを制限されているような気持ちに襲われ、呼吸を止める。
「じゃ、はじめようか」
 汗ばむ右の掌に滑らかな肌がぴとりと擦り合い、指の間では皮膚の薄い節ばった指の感触がする。降ってきた嗅ぎ慣れないシャンプーの香りが、ふわりと鼻腔を擽っていた。

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