ギャップ萌え


 思えば朝からツイてなかった。目覚ましの設定がなぜか普段より十五分も遅くなって朝からバタバタしたし、信号は全部引っ掛かるし、定期は忘れるし、自分がかかわっていないはずのよく分からない件で上司に怒られるし。帰りの電車ではちゃんと並んでいたのに横入りされて最後尾に追いやられ、――極めつけに、『乙女ゲ大好き』と名乗る吸血鬼に妙なビームををかけられるし。
「大丈夫か?」
「はい、ありがとうございます」
 颯爽と現れて即解決してくれたロナルドさんへ、情けなく地面に座り込んだまま返事をする。差し伸べられた手を借りて立ち上がると、彼は私の足を見て眉を下げた。
「悪い、膝、怪我させちまった」
「え?……ああ、このくらい全然――」
「手当てするからちょっと事務所に寄ってくれるか?」
「え、そんなわざわざ大丈夫です。怪我も軽い擦り傷だし、絆創膏買って帰りますよ」
「いやでも俺がもっと早く駆け付けてればさ……」
「……ちなみになんですけどドラルクさん居ますか?」
「多分いる」
「帰ります!」
「なんでだよ」
 ロナルドさんは「最近は仲良かっただろ」と首を傾げた。そんな彼になんと説明すればいいか分からず口をまごつかせる。
 少し前まで、吸血鬼が怖かった。そのせいで如何にも吸血鬼〜なドラルクさんに失礼な態度ばかりとっていた私だったが、まあなんやかんやで仲良し、に、なっていた。でもちょっと色々心境の変化があってまた顔を合わせづらい期に入ってしまっている。怖いんじゃなくて、もっと別の、前の自分では到底考えられないような理由で。
「……なんか顔赤くね?」
「はい?! なななになにを、何を言ってるんですかね?!」
「吃りすぎだし。汗も酷いな……もしかしてさっきの吸血鬼のせいか? なんかかけられてたよな」
「あ、それは多分なんともない、と思います」
 全身を軽く確認しながら、こういうときととりあえず手のひらや甲をくるくる見てしまうのなんでだろうなぁと思った。さっきの吸血鬼が『クックックそのビームは』まででロナルドさんが殴り飛ばして意識を奪ってしまったので、結局なにをかけられたのかは分からない。でも性癖を暴露したくなる気持ちにもならないし、その他身体的異変もないようにみられた。
「失敗したのかもしれませんね」
「そんなことあんのかぁ? まあなんともないならそれに越したことはないけどよ。じゃ、とりあえず手当てだな」
「えっいや大丈夫ですほんとに、あの、え? ロナルドさん聞いてますか? え?」
 断ったはずなのに掴まれた腕を外してもらえず、気が付くと間に事務所についてしまっていた。ろ、ロナルドさんってたまに人の話を聞かない……。そんなことを思われているとは露知らず、彼は扉を開けながら「ただいまジョン、メビヤツ――おいドラ公!」と横柄に居候の吸血鬼を呼び付けた。
 ドラ公、吸血鬼ドラルクさん。若干勝手に気まずくなっているドラルクさん。 しばらく顔合わせたくなかったんだけど人生うまくいかない、本当いかなすぎる。「おかえりー」暫くしてからのんびりとした声が近付いてくる。
「救急箱持ってこい」
「まさか怪我したのかね、運動神経くらいしか取り柄がないのに。廃業?」
「殺すぞボケ俺じゃねえわ」
「……私です」
 いつまでも隠れているわけにもいかないので、私は覚悟を決めて真紅の背中から顔をだす。私の姿にドラルクさんの瞳が僅かに見開かれた。目線が私の体を検分するように素早く動き、やがて血の滲む膝小僧を捉えてすっと細まる。
「一般人に怪我させるなんて退治人失格なんじゃないの?」
「ウ、ぐっ、るっせーよ、早く持ってこい!」
「はいはい」
 ロナルドさんに「ほら、座ってろよ」と促され、仕方なくソファの端に腰掛ける。
「怪我は膝だけか?」
「はい。……なのであの、本当に大丈夫なので帰――」
 断りの言葉をコール音が遮る。ロナルドさんはコートのポケットからスマホを確認し、先程の私のように顔を真っ白にさせた。
「もしもしロナルドです!……え? え、これから? アッハイ全然大丈夫ですすぐ伺います!」
「え?」
 今『すぐに伺う』って言わなかった? 誰と話しているのかは分からないが、彼はとても怯えていて、とても畏まっているようだった。話しながら大股で出口へと向かい、メビヤツに預けたばかりの帽子を被ると、ロナルドさんは私を振り返った。冷や汗だらけの顔の前で手を真っ直ぐ立て、それからひらりと小さく振り――。
「おや、また出掛けるのか」
「フクマさんに呼ばれた! ドラ公ちゃんと手当しとけよそれじゃ!」
 事務所の外へと姿を消した。扉がバタンと反動で閉まる音と、そして「忙しないな」という呆れ声を最後に沈黙が流れる。ふ、ふたりきりになっちゃった! 自分の気持ちをしっかり自覚して以降、会うの自体初めてなのに。ドッと緊張が襲ってきて、心臓が激しく鼓動しだす。耳のすぐ後ろで鳴っているかのように煩かった。テーブルに救急箱が置かれた音にすら過敏に反応してしまう。そんな私に、ドラルクさんは困りながらも、口元を緩めていた。私はこんなにいっぱいいっぱいなのに、ドラルクさんはいつもの通りだから、その対比が情けなくてますます恥で消えてしまいたい気持ちになる。
「じゃ、足失礼するよ」
「う、すみません……」
「ほんとによく巻き込まれるねえ。ああ、跡にならなきゃいいが」
「そんな大層な怪我ではないと思います」
 あああ、膝、ドラルクさんが膝をついている。それが一番やりやすいやり方なんだろうけど。なんとなく見ていられなくて太ももの上で拳を作り、スカートを握り締めて俯く。ドラルクさんの手が、足に触れた。
 ピロンッ。突然近くで響いた軽快な音に驚いて足が動く。あ、あぶない、危うくドラルクさんを蹴り飛ばしてしまうところだった。「どうかしたの?」困惑した声に申し訳なくなり、口を開く。
「すみません、通知の音に驚いただけで……」
「通知? 私には何も聞こえなかったが」
「え?」
 顔を上げると、視界に映ったのはきょとんと目を瞬かせるドラルクさん――と、その彼の前にこれでもかと並べられた、半透明なピンクのウィンドウ。
「え? え……え?」
「ちょ、大丈夫?」
 よく見ると一つ一つに違う文字が記されていた。『ドラルク』『ドラルク様』『ドラルク殿』『ドラドラちゃん』エトセトラ。見たところ、彼を示す呼称が浮かんでいるようだ。
「……、……」
 訳が分からないが、一先ず事態を説明するために口を開いた。が、肝心の声が出ない。さっきまでは出たのに、と思わず喉を抑えれば、新たな通知音と同時に白のポップアップが現れた。
【ニックネームを選んでね!】
「?!?!!!」
「ほんとにどうした?!」
 ドラルクさんがポップアップ越しで困っている。でも声がだせないのでなにも伝えることができない。携帯で文字を、と鞄に手を伸ばそうとしたが、縛り付けられているような感覚がして身体を動かすこともできなくなっていた。動くのは瞼と口くらいだ。瞳すら、ドラルクさんに固定されてしまっている。再び通知音がして、急かすみたいに同じことを繰り返した。
 なにがなにやら本当にさっぱりだけど、もしかするとこれはさっきの吸血鬼の仕業なのだろうか。……なんて、こうしてすぐ結び付けられるくらいには、悲しいことにこの街に慣れてしまっていた。でも名前を呼ぶくらいなら他のえげつない吸血鬼たちに比べればかわいいものだろう。私は諦めて、呼び名を決めるためにピンクの選択肢を眺めた。
「な、なんだ、なんで何も喋らないんだ……」
 ……ドラルク、は、ないかな。様もいやだ、引かれそう。この中なら殿が……あ、それよりもっと無難で呼びやすそうなやつがあっ、え、『ダーリン』?! 『あなた』?! い、『愛しい人』?! よくよく見ると後半は口に、というか頭で復唱するのさえ憚られるようなものばかりだった。これはひどい。選択権がこちらにあってまだ助かったなと戦慄しつつ、最もマシに思える呼び名を口にするために息を吸った。
「ねえ、本当に大丈夫? 念の為VRCに連絡を――」
「ドラルクくん」
「えっ」
 声が出せなかったのが嘘のようにするりと選んだ名前が口から吐き出されあ。広がっていたポップアップがたちまち空気へと溶け去る。身体も問題なく動かせるようになったので、再度説明を試みようと改めて彼を見遣った。
「実はですね、……どうしたんですドラルクさん」
「へァッぶァえッ?!」
 彼が口をぽかんと開けて放心していたので不思議に思って名前を呼ぶと、ドラルクさんは奇声を発しながら砂になった。殺してしまったというショックで私の肩も跳ねる。声をかけただけなのに……そんなに驚くなんて思わなかった。反省を活かし今度は声を潜めて呼びかける。
「ドラルクさん、大丈夫ですか?」
「だいじょ、いや、え、『さん』? え、あ、アレ? きみ、たしかにさっき、私のこと……え?」
 のろのろと再生した紫色の顔に朱色が広がっていく。ドラルクさんは顔を赤らめたまま引き攣った笑みを浮かべ、ひどく狼狽しているようだった。これまでの短いやり取りのなかでどこにそんな顔をする要素があったのかさっぱり分からない。
「……う、な、なんですか、ほんとどうしたんですか、ドラルクさ……」
「いや、だってきみがさ……」
 ……分からないけれど、その眼差しの熱に当てられ私の頬までじわじわ火照りだす。だって好きな人からこんなふうに視線を送られて平然としてるなんて、私には無理だった。しかも赤らんだ顔から向けられる瞳には期待が滲んでいるような気がして、ますますわけが分からなくなって混乱する。やだ、なに、なんで。ほんとにどうしたっていうんですか、もう。どうして最後まで言ってくれないのか。なにか望んでいるなら、もっとちゃんと教えてくれたらいいのに。私がなに、なにをしたって言うのだ。顔が熱くて泣きそうで、私はなんならちょっと彼を責めたくなるような心地になっていた。
 そわそわと落ち着かない空気は、ロナルドさんが時空の捻れより帰ってくるまでずっと流れていた。真っ赤になって見つめあっていた私たちに、ロナルドさんはなんだコイツらと目を眇めたけれど、私の怪我の処置がまだ済んでいないことにすぐ気が付いて「なにやってんだてめえ!」とドラルクさんを砂にしてしまった。一気に霧散した気恥ずかしさにホッとするやら、なんだか名残惜しいやら、そんな自分が恥ずかしいやら。もう感情がぐちゃぐちゃだ。
 でも意図せずしてドラルクさんの貴重な一面を見ることができたのもまた事実だ。私も私でかなり恥ずかしい思いはしたけれど、そのこと自体はとても嬉しかった。それこそ今日一日の不運が残らず帳消しになるほどに。
「……結局『私が』なんだったんだろう」
 今日一日の唯一の不満というか心残りは、ドラルクさんが途絶えさせた言葉の続きを推測できないということだ。なにを言いかけていたんだろう。……私になにをして欲しかったんだろう。よく分からないけど、私に出来ることなら、次会った時には彼の望みを叶えてあげられたらいいなと思った。




【吸血鬼乙女ゲ大好き】
乙女ゲーみたいな選択肢の幻覚を見せ、強制的に従わせる催眠術を使う恐ろしい吸血鬼。しかし効果の発動条件は『想い人に触れられたら』なので発動せずに効果が消えることが多い。ニックネームの選択肢は、相手の好感度によって数が変わる。


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