蜘蛛糸ほつれて赤い糸
「どういうことかな?」
背後に壁、前方に笑顔のY談おじさん。左右には黄色いタータンチェック柄。今日は、ユザワさんに話しかけなくなって、きっかり半年目の夜だ。そんなおめでたい日に路地裏へ連れ込まれたかと思えば、避けていたはずの相手からの壁ドン。どういうことかは、私が聞きたかった。
新横浜で暮らすにあたり、彼を避けるのはなかなか大変だった。ユザワさんはY談活動を精力的に勤しんでおられるから、普通に暮らしているだけで少なくとも週に三回は金髪を見つけてしまう。しかしなんとか顔を背け、道を変え、近くの店に逃げ込み――を一ヶ月、二ヶ月とひたすら繰り返し、そうして半年。私はついに、彼を視界から外すのに――いや、映すことにすら、たいした感情を抱かなくなった。半年も経つと、『あ、今日もいるなぁ』で済ませられるようになっていた。さすがに話すとなれば、まだそれなりの勇気を要するだろうが、しかしそもそも私が話しかけなければ会話など始まらないので。だからそのうち、気軽に挨拶なんかもできるようになったりして――なんて思った矢先にこれだ。まだそこまで無感情でいられる境地には至っていないのにな、と顔を顰めれば、ユザワさんの笑顔がやや崩れた。
「きみ、私のことを避けていたよね?」
「はい」
「……随分と潔がいいな」
「まあ……避けていたという事実に、後ろめたいことなんてないので」
あっけらかんとしている私に、どうしてかユザワさんのほうが狼狽えていた。じろじろと知らない人間を見るように、見下ろしてくる。
「……なら、どうしてこんな真似をしたのか教えてくれるね?」
「そんなの、これ以上ユザワさんに好意を伝えても、無駄だと思ったからですよ」
「なぜそんなこと――」
「最後に会った日、覚えてますか。女性と一緒にいて……キスをしていた日」
淡々と問いかけると、彼は「ああ」と苦々しげに頷いた。
「私、あの日以外にもああいう場面に出会したことはあったんです。でも私はあなたの恋人でもないし、あなたが誰かと交友関係を築くのを止める権利はない。だから、今は割り切るしかない――そう思ってました、あの日までは」
ああいう場面で、ユザワさんと目が合ったのは初めてだった。けれど、愉悦で弓なりになった瞳で気付いてしまった。今までも、彼は私が見ていることを知っていたのだ、と。
「これ以上あなたを好きでいたら、心が壊されてしまうと思ったんです」
「壊れたらいいじゃないか」
「え」
「それのなにが悪い?」
ユザワさんの顔は、今やのっぺりと、能面のように無機質になっていた。薄っぺらい笑顔が取り払われたその相貌は、夜の暗さも相俟って、恐ろしさを増していた。急変ともいえる態様の差に、つい臆して息が詰まる。
「私への愛で狂って壊れて、一度めちゃくちゃなってみたらよかったんじゃないか? 狂気に身を委ねたほうが、きみもきっと楽だったろう」
面白くないという調子でつらつらと並べられた言葉に、愕然とする。どうしてこんなことを言えるのだろう。こんな酷いことを、そんな、さも当然のように。
「……いや」
「なに?」
「壊れるなんていやです。絶対に」
低く威圧するような声で聞き返されたが、それでも私は強く彼を睨み上げた。「え」ユザワさんが唖然と声を零す。パチパチと繰り返される瞬きは、ぶつける視線の圧を緩和しようとしているみたいだった。
「だって人間の一生は短いので」
たった八十年。しかしされど八十年。さらにいえば、私にはもう残り六十年もない。壊れている暇なんてない。
「私は私で、自分が幸せになれる道を歩みたい」
好意を玩具に、純情を食い物にされるのはもうごめんだった。
「分かり合えなくて、残念だとは思っています」
「え、いや、ちょっ――」
「最悪な恋をどうも。大変勉強させていただきました。それではさようなら」
動きを阻んでいた腕の檻を、頭を下げてくぐって抜ける。完全に絶交みたいなことを言ってしまったし、これでもう挨拶することもないのかな、とぼんやり思っていると、手首を掴まれた。犯人は一人しかいない。離してほしくて振り返り、瞠目する。
「してない」
「え?」
青い顔、のくせして弧を描く口。しかし無様に引き攣っていた。汗がいくつも浮かんでいる。ユザワさんは、見たこともないくらい取り乱していた。
「だ、だから、キス、してない、あの夜――他のときだって、私、誰ともしてないよ」
「……はあ」
そうですか、と気のない声で返事をする。今更そんなこと言われても。というか、別にキスをしていたことを問題にしているわけではない。私がいると分かっていてああいう行為に及んだことが無理だったんですけど。分かってんのか? という猜疑で眉根が寄る。
「してないし、しない――これからも。約束する」
「……いや、私にされても困るんですけど」
「ウ、グ……な、なら、どうすればいい?」
「どうすればって……」
なにを、と続きを待つが、ユザワさんは苦悶の表情を浮かべたまま、喋ろうとしなかった。薄い唇が震えるたび、噛み締められた犬歯がちらちら覗く。ただ手首を掴む力だけが、ギリギリと強くなっていった。けれど痛みを顔に出さぬよう彼を見据えていれば、固まっていたユザワさんの顔が少し脱力する。ふ、と目が淡く伏せられた。
「……人間なんて脆いから、簡単に壊れると思ってた」
ゆっくりと絞り出された本音に、ああやっぱりと思うと同時に、少し悲しくなる。予想していたとはいえ、直接正解を聞くとショックだった。
「私がなにかせずとも壊れてしまう存在だと思った。だったら、先に私の手で壊してやろうと思った」
けれど続いた台詞は先に感じたショックを軽く上回るほど意外で、そしてむちゃくちゃだった。
「それに脆い存在のくせに、きみがいつまで経っても純粋で、あんまりにも無垢なものだから……腹が立って」
「……は? な、なにそれ……え、ひどくないですか?」
吸血鬼の、いやユザワさんの発想怖い引く、いや引いた。率直に困惑をぶつけ詰るが、「ごめん」なんて素直にしおらしく、そしてしゅんと項垂れられてしまって勢いが削がれる。
「綺麗でかわいいままのきみに、私は触れてはいけない気がしてしまった。私は触れられないのに、きみは無遠慮に気持ちをぶつけてくる。だから……だからもういっそ、一度壊してやろうと」
そうすれば、赦されるかと。
懺悔の声は、耳を澄ませなければ逃がしてしまいそうな音量だった。『ゆるされる』とはなんだろう。触れることか、もしくはそれまでの心ない言動か。はたまたその両方なのか。小さな声も、合わない視線も、曖昧な口ぶりも、その内容も。彼のすべてがもどかしく、ずるいなぁと思う。しかしそれと同じだけ、ここにきて初めて曝けだされた彼の心に、ぎゅっと胸の奥が締め付けられていた。
「……思ってたより強かったでしょう、私」
私の言葉に、彼は諦めたような疲れた笑みをして頷いた。こんなに握られたら、たしかに軽く跡くらいはついてしまうかもしれない。でもそれだけ。全力で手を掴まれたって、壊れたりはしないし、案外丈夫なものなのだ。……そういえばこの人、戯れでだって私に触れてきたことなかったな。そんな理由だったなんて、思いもしなかった。空いた手を伸ばして、金の前髪を撫でつける。逸らされていた赤い目が、そろりと私を捉えた。
「ゆるしてあげます」
しょうがない、だって今のユザワさん、とっても可哀相で、可愛そうなんだもの。頬に手を滑らせ、目元を親指でそっと撫ぜる。大きな涙袋は、思いのほか柔らかかった。ホッと分かりやすく、剣を突き立てたような縦長の瞳孔が緩みかける。が、私が「ただし」と先手を打つとびくりと固まった。
「な、なに?」
「私のことをどう思ってるか、素直に言えたら、です」
散々焦らされたのだから、これくらいのワガママ、あなただって許すべきだ。強気に言い放てば、一度はまあるくなった赤い瞳が、とろりと幸せそうに輪郭を蕩かしていった。紡がれるであろう二文字を期待して、聞き逃すまいとじっと待つ。
「あいしてる」
鼓膜を揺らした五文字は予想だにしていない音だったから、一瞬喉が詰まった。それでもすぐ目の前の首元に飛びついて、動揺を誤魔化す。あまりに突然だったせいか、ユザワさんは僅かによろけたけれど、しっかり背中に手を回し、私を受け止めてくれた。
「あいしてるよ」
抱きついたまま返事をしないでいたら、耳元でもう一度同じ言葉を囁かれる。不安の滲んでいる声にひっそり笑う。返事はちゃんとします、ゆるしてあげます。だからもう少し。もう少しだけ、優勢でいさせて。きっとこれからは、またあなたに振り回される日々が続くんだろうから。
◆
「……ところで」
ふくふくと幸福に浸っていれば、ユザワさんがゴホン、と咳払いをした。
「きみのほうは、アー……もう言ってくれないのかな?」
「え?」
肩を掴んで、距離を作られる。私の顔を覗き込んだユザワさんは、まだ頼りなげな表情をしていた。
「なにがですか?」
「だから、ほら、私をどう、とか……前言ってくれてたこととか……」
「……そうですねえ」
言葉を濁す――いやあんまり濁せてはないけど――ユザワさんに、ピンとくる。間延びした私の相槌に、ユザワさんは機嫌を伺うみたいにこちらを見た。
「ピカッてしてみたらどうですか?」
原理は詳しく知らないが、きっとそういう使い方もできるんだろう。笑いを含ませながら意地悪く告げれば、ユザワさんの頬がピクピクと痙攣する。彼の動揺に呼応するように、前髪がひと房さらりと流れ落ちた。不格好な笑顔や強ばった目元が、その風貌の情けなさを煽っている。
ユザワさんはそうして長いこと苦悩し、葛藤したあと、やたら意気込んだ動作でとうとういつものステッキを高く掲げた。あたりがピカッと明るくなる。あんなに尻込みしてたくせに、結局やるんだ。辺りを煌々と照らし上げた眩い光に、咄嗟に瞼を閉ざしながら、少し笑う。欲求に素直な吸血鬼! 最初から変な躊躇をせず、そうしてくれればよかったのに。仕方ない人だと思わずにはいられない。でなければ、ここまで拗れることはなかった。それなのに妙なところで臆病をみせて――これは仕方ないと言わずなんという。
光が収まっていったのを察し、そっと目を開ける。広がった視界では、ユザワさんがステッキを両手で握り締めて私の言葉を待っていた。叱られ待ちの子どものような態度に、どうしようもないなあ、と思う。そんな呆れでつい溜息を零せば、ユザワさんは怯えたように少し肩を縮こめた。そのくせ、赤い瞳はじっとこちらへ固定されたまま。その健気ともとれる様に、また胸の奥がきゅんと高鳴ってしまう。なんとなく悔しさを抱きながら、口を開いた。
「私は、ユザワさんが――」
そうして半年ぶりに紡がれた言葉は、もう何十回と口にしてきたものだった。逃げたつもり、捨てたつもりだったのに、結局私は彼に囚われたままだったんだなと思い知る。やっといつものような爛漫な笑顔を咲かせる彼に苦笑した。
本当、どうしようもない。私も、この吸血鬼も。
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