犬は打てぬ


 ふと目が覚めた。起きるにはまだ随分と早い時間だが、たまにはいいだろう。そう棺桶から身を起こす。ぺたぺたとスリッパを鳴らしながら客間へ迎うと、ちょうど彼女がカーテンを開け、夜の支度を始めていた。
 窓の外にはまだ太陽の名残を大いに含んだ茜が広がっていた。雲もすっかり片付けられ、晴れ晴れとした夜空を予感させる、穏やかな夕間暮れの景色だ。
「おはよ」
「おはようございます。本当に早いですね」
 珍しい、とコロコロ鈴が鳴るように笑った彼女に、突発的な思い付きが顔を覗かせる。今なら、できるかもしれない。なんとなくだがそんなことを確信し、私は愛用の杖を取り出した。いったい寝間着のどこからだしたのか、と驚いた彼女だったが、私がにっこり笑って見せると、それを真似るように口許を僅かに緩めた。わけも分かってないだろうに、おバカな子だ。いや流されやすすぎやしないか? 私と離れている間、なんか変なのに目を付けられてそうだな……。しかしかといって昼間、ましてや大学になんて同行できるわけもないし、うーん、どうしたものか。もういっそ同族にして退学――。
「おじさま、それはなんですか?」
「ん? ああ、いやなに。きみがちょーっと素直になれるようにとね」
 わざと要領を得ない言い方をすれば、疑問を湛えたつぶらな瞳がぱちくりと瞬く。純新無垢という四文字が正しく相応しい。そんな彼女に、これからお得意の催眠をかけるのだ。吊り上がっていく己の口角は、傍から見ればさぞ悪どいものだろうに、彼女はまだ穏やかな顔をしていた。
「おじさま、楽しそう」
「そりゃあね! なにせ常々、きみの口から是非聞きてみたいと思っていたのだから」
 ついに。ついに! 来たる愉悦を想像して、ますます頬が高く上がっていく。さて、それでは。と、いつもの如く波ァ! としようとして、いやちょっと眩しいかも。と止まる。明るさ控えめで、いや、でもそしたら威力が……ちょっと離れてやるか?
「おじさまの楽しそうなお顔、可愛くてだいすき」
「……は」
「新鮮な柘榴みたいにきらきらしてるの、知らないでしょう? 鏡に映らないから。……私、おじさまの知らないおじさまを知ってるの」
「…………ああ、そ」
 ひっそりとした囁きに瞠目したのは一瞬だけ。すぐに顔から力が抜け、目も口もぐでんと溶けていく。ハー、でた。でーたよ、この子は。いっつもこれだ。歪んだ口を引き結ぶと、唇に牙が食い込んだ。これが私の催眠のせいとかなら構わないけれど、そうじゃなく素だから、本当に――。
 むっつり黙り込んだ私を前に、ずっとふわふわしていた彼女が、そこで初めて不安そうな様子を見せた。恍惚としていた表情を消し去り、眉を垂らして私を窺うようにこてんと小首を傾げる。「おじさま?」見つめあげてくる瞳は、早くも潤みはじめていた。私は深いため息を吐いて、杖先をインタビュアーの如く淡い桃色の唇手前に近付ける。
「……夜ご飯はなにがいい?」
 彼女の表情が、パッと花が綻ぶように明るくなった。現金な子め、と内心でちょっと詰る。別にいいだろう、口にはしてないんだから。
「チーズオムレツがいいです! この前一緒にインスタで見た、割ったらトロトロなやつ……出来ますか?」
「もちろん、お易い御用さ」
 そんなくらい、造作もない、ないけれど。笑顔を張り付けはしたが、胸中には苦々しい気持ちでいっぱいだった。彼女の陥落も、これくらい簡単だったらよかったのに。もはや何度目か分からない敗北に、がっくり肩を落とした。
 次こそは、と決意を固めながら杖をしまい、かわりに彼女の手をとる。その柔らかさとあたたかさに、なんとなく次も無理な気がする、とかいう情けない感想を抱いてしまった。いや、まだ。諦めないぞ私は。何度だってチャレンジしてやる……!
「おじさま、とっても幸せそう、なにがあったのか私にも教えて」
 無邪気に尋ねてくる彼女に虚をつかれて、なんとも言えない心地になる。嬉しそうって、んなバカな。何世紀も使ってきた自慢の催眠を散々封じられて、もうこれ以上ないくらいの屈辱を感じているというのに。
 しかしわざわざ否定するのもアホらしい気がしたので、弧を描く唇に八つ当たり半分で噛み付いた。このくらい許してもらいたいね。

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