喧嘩


 週に三回。車で一時間半かけて通い詰めること、約一年が経とうとしている。慣れたとはいえ、仕事帰りに往復三時間運転するのも楽じゃない。ので、そろそろ埼玉に越そうかななんて考えている今日この頃だ。転職活動も行わなきゃならなくなるから、なかなか行動には移せないけれど。
「きみさ、せめて平日は来るのやめたら?」
 今日一日の疲れを癒そうと、ジョンの芳ばしい腹毛に顔を埋めていれば、そんな声がした。ぐ、とフワフワに頬を押し付け、ひと吸いしてからのっそりと顔を上げる。呆れ顔のドラルクさんと目が合った。
 ドラルクさん。この埼玉の森奧に構えたお城の主人。真祖――本当は真祖じゃないらしい――にして、最強――これもまた要審議だが――の、ルーマニアからやって来た吸血鬼。彼とは、一年前の一人旅で知り合った。当時、私は知らない土地の鬱蒼とした森の中を、月が頭上高くで輝く時間帯まで彷徨っていた。携帯の充電は切れていたし、辺りは真っ暗だし、散々転ぶし、寒いし、足が棒のようだったし、もう心がボロボロで。いい歳して泣きそうになっていたところに、悠然と現れたドラルクさんに「どうしましたかな、お嬢さん」とやさしく手を差し伸べられ――びっくりするほど私は簡単に落ちた。だって月を背負って微笑む彼が王子様に見えてしまったのだ。……ちょっと乙女すぎて恥ずかしいけれど、だって本当にそう見えてしまった。「結婚してください」そんな突発的な好きが溢れて、うっかり第一声はこんなものになってしまった。彼はドン引きして砂になったが、今ではいい思い出である。多分。
 とにかくそれ以降、私はこうして彼の元へ足繁く通っている。想いに応えてくれる気配はとんとないが、そこそこ仲良く慣れたと思うし、着実に距離は縮まっている。少なくとも嫌われてはない……はずだ。
「人間ならもっとしっかり休むべきだよ」
「なら吸血鬼にしてくださいよ」
「しないよ」
 一考の余地もない却下は、すっかり慣れた口ぶりだった。このお願いは、この一年、もう何度もしている。けれどあんまり執拗いせいか、最近では吸血すらしてもらえなくなった。
「ジョンはいいのに、なんで私はだめなんですか」
 キッと睨めば、ドラルクさんは珍しく鼻白み、一瞬だけ瞳を泳がせて口篭った。しかし瞬き一つで動揺を抑え込むと、「あのねぇ」と私をじろりと見遣る。
「きみとジョンとでは、状況やらなにやらが全く違うだろう。当時の彼は怪我をしたはぐれマジロだったけど、きみは――……」
「……私は?」
「……きみは家族も友人もいる、普通の人間なんだから」
 嘘をついている感じはしない。けれど、言葉を濁していて、本心をどこか隠しているように聞こえた。急に引かれた謎の線に、口が自然と尖る。
「……今すぐ吸血鬼にしてくれないなら、私、死んじゃおうかな」
 あんまり響かないものだから、つい迂闊な言葉が口から零れたが、もちろん冗談。言葉の綾みたいなものだ。けれどその瞬間、部屋の室温が一気に数度下がった。なにかを感じ取ったのか、手元のジョンがか弱く鳴く。
「へえ」
 ドラルクさんの冷たい声音が、長い沈黙を破った。「知らなかったなァ」彼の膝の上に開きっぱなしにされていた本が、片手でパタンと閉じられる。彼はにっこりと、一目で上辺だけと分かる笑顔を私に向けた。
「きみがそんなことを安易に言ってしまうことができる人間だったとは」
「……や、その……」
 すっくと立ち上がり、コツコツ靴音を鳴らして近付いてくるドラルクさんに身を強ばらせる。あんな言葉、いつものように窘められるか、スルーされるか、笑い飛ばされるか。そのどれかだと思っていた。だって彼は、いや彼だって、彼こそすぐ死ぬから。死なんて近しいものだろうし、本当にこんな、まさか怒らせるなんて――。
「い、まのは、えっと……」
「――失望したよ」
 ドラルクさんは私の目の前で足を止め、平坦な顔で見下ろした。薄っぺらい笑顔が消え失せた彼の顔からは、感情を読み取ることができない。咄嗟に口をぎゅっと引き結ぶ。無味乾燥とした視線が、針のようにチクチクと突き刺さる。全身を椅子に縫い付けられている錯覚すら抱いてしまって、呼吸もままならない。心臓を見えない手で無理やり小さく握り込まれているような、そんな痛みも胸の中で蠢いていた。
「ヌヌヌヌヌヌ……」
「……ああ、分かっているとも」
 ドラルクさんは一度目を瞑って深く息を吐くと、顎を引いて、肩まで登ってきたジョンの頭を指先で撫でた。視線が外れたことに安堵で全身の力が抜けていく。抑えられていた反動なのか、心臓がバクバクと耳の後ろで鳴っているようだった。
「きみ、今夜はもう帰りなさい」
 ジョンを見たままの言葉に無言で頷く。まともに声をだせる気がしなかった。きっと視界には入っているはずだから、問題はないだろう。翻る外套を横目に、震える足を叱咤してなんとか立ち上がった。
 ◆
 先日のことを謝らなければ、と再び訪れた城――倒壊した城の前で、呆然と立ち尽くす。地元の人の話によると、つい昨日、吸血鬼退治人が来て、この城と、そして城主であった吸血鬼を――。
 全身から力が抜け、その場に座り込む。尖った砂利が膝小僧に食いこんだ。

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