隣人を愛せよ


倫理のない暗い話 バドエン風味


 波紋一つない湖畔みたいに綺麗な紅い表面。に、金のティースプーンを躊躇なく突き刺す。どちゅ、と汚い音を立てながら、スプーンはズブズブと赤の奥底へと沈みこんでいった。柄の先に付いている貝殻のような飾りを摘み、何度も円を描く。糖分いっぱいのジャムは、か細い柄の儚いスプーンではいやに重たく感じた。掻き混ぜられて露出した中身が、白っぽい蛍光灯に照らされてらてらと赤黒く輝く。内臓を掻き混ぜているみたいだと思った。
「やめなさい、行儀の悪い」
「内臓みたいだなって」
「見たこともないくせによく言う」
 ゲームから視線を外さないまませせら笑いを浮かべる男に、む、と口が尖った。イジワルだ。揚げ足をとってくれる。人間は考える葦なのだから、想像でものを言ってなにが悪いのか。
 当て付けのような気持ちで、底からほじくり返すみたいにジャムをたっぷり掬い上げる。山盛りのそれは、ちいさなティースプーンには収まりきらず、ボタボタと溢れていった。そのともすれば不気味ともいえる様に少し勝ち誇る。ほら、やっぱり血と内臓みたいじゃないか。垂れる雫がある程度落ち着いた頃合で、スプーンを紅茶の上へと移動し反転させ、ジャムを落とした。ぽちゃんと跳ねる。
「ロシアンティーって、本来そういう飲み方するんじゃないんだけどねぇ」
 小言を無視してジャムを溶かす。間の抜けたゲーム音に紛れ、ティースプーンが回る音がカチャカチャ鳴った。みるみるうちに匙からジャムが乖離し、紅茶が濁っていく。点々と浮いた果実の名残がなんとも汚らしかった。一度スプーンを置いてから、ジャムの瓶の蓋を閉める。
「あ、それ、あんまりきつく閉めないでくれ。私じゃ開けられなくなる」
「ざっこざこのざこ」
「おい没収するぞ」
 閉めた蓋を少し緩めてあげた。衛生的なことを考えると、あまりよくないだろうに。素直にロナルドさんに頼めばいいのでは? 男の矜恃というやつだろうか。くだらない、というかよく分からない。重たいジャムの瓶をローテーブルに置き直し、改めてカップを手にする。彼いわく間違いだというロシアンティー、いざ実飲。といく前に、聞きたいことがあったので先に「あの」と前置きをして話しかけた。
「私が人を殺したとして」
 テレレン。あらまぁ、ゲームオーバー。温い紅茶を啜りながら、分かりやすい音に肩を竦める。
「殺すな」
「殺してないです。例え話です」
「例えるな」
 困った、話が進まない。彼は私が思っている以上に、倫理観がしっかりした吸血鬼だったらしい。どうしようかなと口を噤む。
「……で?」
「はい?」
「そこで止められちゃったら気になるでしょうが」
 彼がゲーム機越しから、じろりと上目遣いするように睨んでくる。それもそうかと話を再開した。
「私が人を殺したとして、あなたはその死体を埋めてくれますか?」
「……タコピー読んだな?」
 ザッツライト。ピ。タコピーの原罪。ジャンププラスにて毎週金曜日に連載中です。わくわく楽しいドラ〇もん。秘密の道具でしあわせを掴む、少年少女らの煌めく青春サクセスストーリー。
「きみは傾国のしずかちゃんじゃないだろ」
 呆れた声と回答になっていない返事に、胃が沈んで落ち込む。さっきから彼は、どうしてこうイジワルなことばかりを言うのか。なんて少し哀しくなってしまったけれど、唐突に納得する。だってそもそも、私が彼にイジワルなことばかりしているから。其は、当然のことだった。
「埋めないよ」
 ゲーム機をソファへ雑に放りながら、彼は当たり前だろう、と続けた。埋めないのか。当たり前なのか。……そっか。「しかし、まあ」落胆する思考に、気軽な声が割り込み、顔を上げる。
「追い詰められたとき、きみが求める『救い』として私が選ばれたということは、それは大層光栄なことだがね」
 彼は――ドラルクさんは、粛々と微笑む。宗教画にでもなっていそうなほど、たおやかで美しく、慈悲深い笑みだった。
「だから埋めはしないけれど、救いにはなってあげたいと思うよ」
「……すくい」
「そう。ね、なるたけ、早めに頼むよ」
 思いもよらない言葉に呆然とする。ドラルクさんはまた穏やかに笑ってみせた。
「紅茶、美味しいかい?」
 ⿴⿻⿸
 頬を撫でる冷たい風。それから軋む身体。暗い部屋と射し込む月光。カーテンのはためく音に、機械音。夜に混じって、薬品の匂いがする。
 五感が伝えてきた情報に失望した。生きている。私はまだ生きているのか。人間は案外丈夫なものだ。
「私は」
 卒前と鼓膜を揺らした声に、視線をそちらへ移した。山のような影の塊。目を凝らせば、つい先程まで夢の中で話していた彼の顔がぼんやりと浮かんでくる。
「きみの死体を埋めるのはいやだよ」
 そうか。吸血鬼も泣くのか。
 月明かりが照らした筋とさらさら流れてくる砂に、困ったなと思う。判明した事実は、できれば知りたくなかった事実だった。
「救われたいというなら、もっとちゃんと救われにきてくれ」
 死人のような冷たさの手に握られながら、内心で首を捻る。はて。私は一度でも、あなたに救われたいなどと宣っただろうか。私は神に救いを求めるような、信心深く敬虔な教徒ではないのに。
「でなきゃ、砂の手では掴みきれない」
 掴もうとする傍から死ぬのか、あなたは。ほんとうに、あなたの死は易くて安い。おかしくなる。息だけで笑うと、全身に電流のように痛みが走った。その苦痛よりも、生きてる痛みに辟易して顔が歪んだ。
「笑い事ではないだろう、なあ」
 涙に濡れた赤い目が睨んでくる。次いで「きみがなにを考えているのか分からない」と、苦しげな呟きが聞こえた。
 ええ、私も。声はでないため、心の中で返答する。私もです、ドラルクさん。私も自分がなにを考えているか分からないんです。でも逃げたいと思っていることだけは、たしかなんですよね。別に終わりたいわけではない。ただただ、逃げてしまいたいのだ。それ以外のことは、自分でもやはり判然としていない。どうしてそう思うかのすら、分からない。
「『逃げたい』? 充分分かってるじゃないか。大いに結構。そういうことをもっと教えてくれればいいんだ」
 あれ、いま私、声にでてた? いや、まさか。だって息をするのも苦しいんだもの。おしゃべりなんてできるはずがなかった。なのになぜドラルクさんはこんなことを言えたのだろう。恨みがましく見下ろされながら、驚嘆する。なぜか口内には、あの紅茶特有の吐瀉物のような余韻がこびりついていた。

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