チェス


 秒針が時を刻む音がいやに響く室内では、呼吸すら憚られた。すこし息苦しい。でも、居心地の悪さは感じない。むしろ私は、この時間がちょっと――いや、かなり好きだった。空気を少しも揺らさぬようにと注意をしながら、口元へひそやかに笑みをのせ、こっそりと向かいに座す彼――ドラルクさんを見遣った。彼が盤面をじっと見据えて動かなくなって、もうかれこれ三分ほどが経とうとしている。しかしそれでもまだ、黒い駒が盤に落とされる気配はない。いよいよ抑えられなくなり、咳払いを装って込み上げた笑いを息とともに逃した。
 彼のこんな姿は、最近やっと拝めるようになった。チェスのやり方は、博識――というか、ゲーム好きなドラルクさんとお付き合いを始めてから覚えた。駒の名前すらろくに知らなかった私に、ドラルクさんはやさしく、そして容赦ない指南をしてくれた。時に褒め、時に叱咤し、『えっボードゲームでそこまでガチになる?』と感じたことも数知れず。そんなわけで、私は今ではもうジョンくんやマスターにだって負けないくらい上達していた。え、ロナルドさん? いや正直あの人は……お相手にならない……。とにかく、私はなかなかの腕前になったのだ。ドラルクさんにこうして長考を強いるほど。二世紀と時代を越えてきた吸血鬼から直々に何百ゲームと懇切丁寧な薫陶を受けたのだから、当然といえる。
 さて、それだけ強くなればゲームもさぞ楽しいだろう――と、思うかもしれないが、正味のところ、そこまでだ。手先を考えるのも疲れるし、腹の探り合いや駆け引きも気が滅入る。一ゲームもそれなりに長くかかるし。ならばなぜ、私は彼にゲームを挑むのか。理由はドラルクさんの思案する姿にある。顎の下に添えられた細い指の背。穏やかに合わせられた薄い唇。やや力の抜けた上瞼。未来でなにを見たのか、湖畔のような静けさを湛える赤い目が時折揺れ、眉根がピクリと動く。率直に言って、私はそれらが、もうたまらなく好きだった。だって普段見れない静の姿。その佇みから醸し出されるのは、正しく『畏怖』の雰囲気だ。それが披露されるたび、盤面の行く末がどうでもよくなるくらい胸が高鳴って、視線も意識も釘付けにしてしまう。本末転倒だ。だからチェスを叩き込んでくれたドラルクさんには感謝しているのだ。こういうボードゲームでなければ、彼のこういった姿を見ることは叶わなかっただろうから。
 あ、と内心でつぶやく。ドラルクさんが動いた。ついと持ち上がった黒のポーンが指先で弄ばれ、くるくる踊った。ポーンを持った手が流れるようにしなり、曲線を描いて音もなく白黒のステージへと舞い降りる。
「お待たせしたね」
 ドラルクさんは優雅に微笑んだ。その悠然たる微笑みに、勝敗を悟る。チェックメイトにはまだまだ早い。でも多分、今回も負けだ。しかしそれでもいいかなと思ってしまう。
「さて、今回は勝てるかな?」
「どうですかねぇ……」
 曖昧に答えながら次の手を考える。私は別に、彼に勝ちたいから挑んでいるわけではない。ゲーマーの彼からすれば、憤死案件だろうけれど。

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