押してダメなら引いてみろ
押してだめなら引いてみろ!
「――そうだな、恋愛は駆け引きという。お主は普段些か押しが強すぎる面があるだろう。時には引いてみることも大事なのではないか」
「なるほど……!」
泡沫の合間から、何時ものごとく金魚にしては的確なアドバイスが溢れていく。感銘で声を打ち震わせながら、女は「じゃあ」と急き込んで話し出した。
「わ、私しばらく……ドラルクさんと、きょ、距離を……置いて……みようかな?!」
「うむ、試してみるがよい。どれほどの効果があるかは分からんが」
「ウエーン無責任!」
「何事もまずはやってみないことには始まらんだろう」
「うえ、ド正論……」
女ががっくりと項垂れると、長い髪がさらさら流れ、ちらりと細いうなじが曝される。ほんの僅かに覗く白は輝かしく見え、露出面積が少ない分、余計視線が吸い寄せられた。女はその姿勢のままゆらりと上体を前へ倒し、紅く聡明な金魚がくつろいでいる水槽へ静かに額をつける。
「やめろ、汚れる」
「……あの……もし全然効かないかった場合は……私はもうどうしたら……?」
「知らん」
「ウエーン!」
……というやりとりを、事務所からまるっと聞いてしまっていたドラドラちゃんなのである。非常にいたたまれない。腕の中の愛しい使い魔に物言いたげに見上げてきたので、しーっとジェスチャーをし、背中を扉横の壁へと預けて天井を仰ぐ。長い溜息を、一つ吐いた。
今日、私へ懸想している――と常日頃から隠さず伝えてきている彼女が、この事務所へ遊びに来ることは知っていた。事前のアポもあったからね。どれほど袖にしてもめげることなく気持ちを押し付けてくる娘だが、その実、意外にもこういう律義な一面も持ち合わせていた。そういうところは、まあ好ましく思わないでもないというか。いやそれはどうでもいい、置いておいて。
とにかく、私とジョンは砂糖が足りなくなりそうだったので買いに行くため、一瞬だけ事務所を留守にしていた。が、それなりに早く戻ってきたつもりだったのだが、戻ってきたらすでに彼女は遊びに来ていて。閉じ切っていなかった扉の陰から中を窺えば、なにやらキンデメに必死で泣きついている彼女の姿。その時点で普通に入っていけばよかったものを、なんか面白そうなことしてる〜なんて好奇心が勝り、つい聞き耳を立ててしまったのが運の尽きだった。いやだって、まさか金魚に恋愛相談をしていたとはさすがのIQ五千でも思うまいよ。自分で言うのもどうかとは思うが、彼女の恋する相手は私だからね。そんなわけで出るに出られず、結局最後まで盗み聞いてしまった。
端末を起動させて、彼女とのトークルームを開く。毎日会うことはないけど、【好きです!】という元気なメッセージは毎日来ていた。それに対して私が適当に反応して、何回かやり取りして、時間があるときはたまに十五分くらい電話したりして。私たちはこんなことを、もう何か月も続けていた。そんな子が、私と『距離を置く』ねえ。
「……いや、無理でしょ」
ふは、と笑いが自然と零れた。ぐずぐずと泣き濡れる彼女の姿が今からもう目に浮かぶ。
「ま、お手並み拝見といこうじゃないか」
独り言ちてから笑みを収め、勢いよく扉を開け放った。ピギャッと甲高く鳴いて謎の縦揺れをした彼女へ、「あ、もう来てたんだ」なんてしれっと声をかける。
「一人で待たせてしまって悪いね。デメさん相手してくれてたの?」
「うむ。非常に面倒だった」
「わたしまだなにもしてません!」
「まだ?」
「ヒギャッ」
必要以上に慌てふためく彼女に、いやもう無理だろこれと、目元がピクピクと痙攣した。こんな調子じゃ、精々五日が関の山なんじゃないか?
「お主の主人、ほんと性格悪いな」
「ヌァー……」
そこ、うるさいぞ。あ、もちろんジョンのことじゃないからねー。
◆
三日が経った。連絡は一つも来ない。さすがにこのくらいはもつよな。むしろ安心だ。
◆
一週間が経った。うそでしょ、七日ももつなんて。意外過ぎる。まあそろそろ潮時かな。
◆
一週間と三日が経った。相変わらず音沙汰はない。最近携帯を確認する回数が増えた。魚類の視線が痛い。
◆
一週間と五日が経った。バカ造にはどうやら砂糖と片栗粉の区別もつけられないらしい。ったく、今日の唐揚げ砂糖で揚げるからな。なに? 私のメモが間違っていた? はぁー? んなわけ――……いや、これは地球の重力が突然捻じ曲がってペンが勝手に動いたんだよ。決して私のミスとかではなブエーーーッ!
◆
二週間が経った。軽快な通知音に秒でRIMEを開いたが佐藤健だったので非通知にした。ついでに、特に大きな意味をないけどなんとなく彼女とのルームを開く。アイコンも一言も、二週間前から変化はなかった。ちょっとは病んでたりするかと思ったけど、あ、そう。変わりないんですね。それはそれは、お元気そうでなによりですこと! ふと気が付けば、指が電話マークの上に乗りかけていたので慌てて放す。いやいや、なんで電話しようとしてるんだ。別に用もないのに。いつもは彼女がどうしてもって強請るからかけてあげてるだけだし。ていうかもし今メッセージ来たら即既読つけちゃうな。いけないいけない。アプリをタスキルして電源を落とす。指を組んで目を瞑り、一連の自分の行動を反芻して、あまりのキモさに音もなく体が崩れた。
◆
誰が世話してやってると思ってるんだこの赤。余計なことを吹き込みおって。もう何か月あの子に会えてないと……!「ぐぷぷ、我が輩に八つ当たるのはやめろ。というかそんなに気になるならお主から連絡すればいいのでは」それは癪。「身勝手〜」うるさい。あと別に気になってない。「ちなみにまだ二週間と四日しか経ってません」……。「お主の負けでは」負けてない!「まじで愚か」
◆
三週間と一日が経った。可及的速やかに連絡をとる必要があったので、やむを得ず私から【ちょっと来ない?】とメッセージをいれた。チョコのお菓子を作りすぎてしまったので。処分するのは材料がもったいないし、致し方ない。彼女を呼び出すのは私としても苦肉の策だ。悪いね〜、作戦を邪魔することになってしまって。いやぁ本当に申し訳ない! 非常に心苦しいよ。【すみません、ちょっと忙しくてしばらくは伺うの無理です……】スタンプと一緒に返ってきたふきだしを五回読み直し十回死んだ。「ドラルク、どうしてわざわざ別容器にお菓子を分けてるんだ? ハッもしかしてなにか特別だったり……?!」……さっきまできみが食べてたのと同じものだけど、食べていいよヒナイチ君。「えっいいのか?」うん。もう必要なくなったから。
◆
三週間と……多分五日。「あ、そういや昨日あの人に会ったぞ」は? マウントか? いい度胸だな、今日の夜食覚えてろよ。「変な事したら殺すからなてか今殺すわ。ハッ、ついに愛想尽かされたみてーだな」ちがいますぅそういう作戦なんですぅ! 駆け引きのかの字も知らん青二才は大人しく生暖かい目で見守ってろ。「そうでも思わなきゃやってらんない限界オジサンか?」違うわ! え、いやちがう、ちがうし、ほんとに言ってたし。私聞いたし。え? 聞いたよね? ね、ジョン?「不安になってんじゃねえか」なってない適当抜かすなボケ。「クソガリヒョロ雑魚が意地張ってても全くかわいくねーからさっさと謝るなり素直になるなりしろよ」うわなんだその偉そうな物言いとしたり顔。身の程を弁えてください童貞のくせに砂ァ……。
◆
沈んでいた意識が持ち上がる。枕元の時計を見れば、時刻は夕方の四時。動き出すにはまだ早すぎる時間だ。一緒に棺桶に入ったはずのジョンは、もうとっくに起き出したらしく、どこか寒々として感じる。あの子、今日は町内の親睦会に参加するとか言ってたっけな。棺桶の中でのっそりと寝返りを打ち、マントにくるまる。ジョンが明け方まで私のクラバットをしゃぶったまま寝落ちてしまったから、服装は昨夜のままだった。
端末の電源を付け、表示された通知を見る。【ごめんなさい、今日もちょっと……】はーい。はーい、知ってた。知ってました、クソ。歯噛みしながら画面に指を滑らせる。毎日連絡を送ってはいるものの、一言二言程度の簡素なやりとりしかないため、簡単に一か月前――彼女が妙な作戦を実行する前まで遡ることができた。楽しそうに話してる過去の自分すら憎たらしく思えてきて、我ながら末期だ。でも今日でちょうど一ヶ月。もうそんな長い期間、彼女の顔を見ていない。声を聞いていない。くそう、あの頑固者め。そろそろ私が恋しくなってたりしないのか? 好きというなら素直に会いに来い。来ればいいじゃないの。鬱屈とした気持ちを吐き出しながら、なにも気にしてませんふうのスタンプを選んで送る。
――ピロン。
「……、……うわっ、え、うそやばい、もう起きて――」
棺桶の外から聞こえた音に――声に、考えるより先に体が動いていた。蓋を渾身の力で押して外す。ガタンと音を立てて勢いよく床に落ちて絶対傷付いたあとで若造に殺されるなと思ったが、今はどうでもよかった。
飛び起きたはいいものの、室内はまだ夕陽で満ちていて、じり、と皮膚を焼く痛みに思わず目を眇める。「あっ」しかしそれよりも、鼓膜を揺らした、長く焦がれていた音のほうに意識をもっていかれた。痛みを超えて脳髄奥深くへと溶け込んでいくのを感じながら、伸びてきていた影の元を辿り、顔を上げる。
「わ、ちょっと、まだ太陽が……!」
突然起きてきた私に動揺しつつも、彼女はパッと背を向け、窓際まで駆けた。私も棺桶から這い出して、彼女の細長い影の中に踏み入るように、一歩二歩と足を進めていく。彼女の手が、それぞれ両端に寄せられていたカーテンへと伸びる。分厚い布が真ん中に寄せられ、チクチクと肌を刺していた光が断たれるのと同時に、後ろから彼女のほっそりとした首に腕を回した。カーテンを掴んだままの彼女の華奢な肩が大きく上下した。
「ドッ、え、どど、どら、どらるくさん……?!」
裏返った声に多少は気分がよくなったけど、返事はしない。してやらない。先に素っ気なくしてきたのはそっちなんだから。……、……いや、まあ、大元を辿れば私なんだけど。小ぶりな頭蓋のてっぺんに顔を寄せ、すうと呼吸をした。鼻孔を擽る彼女の匂いに脳をじんわりと痺れさせながら、緩慢に幾度か瞼を下ろし、多幸感に浸る。
腕の中の彼女がビクリと逃げるような素振りをみせたので、腕に力を込める。貧弱な私でも折ってしまえそうな程柔く、あたたかい。寝起きでちょうど手袋を外していたので、その熱は殊更よく伝導してきた。
「え、え、今嗅いだ、嗅ぎましたよね……?」
チャリ、とカーテンが震える音がした。伏せていた目をそっと上げると、合わせられたカーテンに物凄い皺が出来ていた。布切れに縋りつく小さな拳は、可哀想なことに、力を込めすぎてすっかり色をなくしている。それがなんともいたましく見え、甲へ被せるように手を添えた。緊張で固まった拳を揉むようにしてゆっくり咲かせ、ぎこちなく開いて強張った指の間に自身の指を差し込んで握る。親指ですりすりと手の側面を撫ぜると、ピンと伸びた桜色の爪先が弱々しく撥ねた。
「な、なに、なんですかドラルクさん」
「ん? なにが?」
「なにが?!」
さらにきつく抱き締め、身を乗り出す。こめかみのあたりへ頬ずりをすれば、悲鳴が上がった。失礼な、なんだその反応は。咎める気持ちでぴっとりと顔をつけたまま覗き込もうとしたが、顔を思いっきり背けられた。
「ちょっと、なんで逃げるの」
「逃げ、いや、だ、だって――その……な、なんか接触が過多というか過剰というか……とにかく、なんでこんなことしてくるんですか! ていうかさっき嗅いだでしょやめてください! あと一回離れてください!」
「んー……やだ」
「やだ?! な、なんで!」
「好きだから」
「好きってそんな、子どもの駄々、みたい、な……、……?」
おとがいに指先をあて、上を向かせる。反対向きの彼女の顔は呆然としていた。額に口づけを落とすと、瞳がゆっくり瞬いたのち、その相貌は一気に鮮やかな朱色に染まり上がる。「な、な、なにを」接している顎から、わなわなと細かい振動が伝わってきた。力が入らなくなってしまったらしく、へにゃりと溶けた体を預けられる。愛おしさが込み上げてきて、口角が勝手に弛んだ。
「好きだよ、好き。きみが大好き。だからもう距離を置こうだなんて考えないで」
これからは私もちゃんと素直になるから。
もう私の負けでいい。種族さとか、らしくもなくいろいろ考えてたけど、こんなことになるくらいなら、もうやめだ。我慢なんてするもんじゃなかった。最初から自分の気持ちに従って、彼女の好意を素直に受け入れていればよかったんだ。
二度としないでという懇願と、これまでの自身の行いへの寛恕を込めて、頬へと掠める程度に口付ける。刹那の触れ合いだったのに、彼女の頬はひどく火照っていて、唇が火傷したんじゃないかと思うほどだった。
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