中毒性の幻覚


 いい香りの紅茶にサクサクのクッキー。暖かい室内と、ふわふわのお腹を惜しみなく触らせてくれる可愛いマジロまで揃っている。そんな素敵な空間では、このげっそりと疲れた溜息は酷く浮いてしまっていた。不思議そうな面持ちで「どうしたかね」と尋ねてくる男は、ある意味現在抱えている悩みの元凶でもあり、自然と私の口からは再び重たい息が吐き出される。
「|吸血鬼《ひと》の顔を見て失礼な」
「……最近、夢にどらどらちゃんがでてくるんです」
「ほう! それはまたなんとも光栄なことだ。夢の私とはいったいなにを?」
「ドラルクさんじゃなくてどらどらちゃんです」
「あ、はい」
 紅茶を一口飲んでから、静かに息を吸う。こんなこと誰かに、ましてやご本人になど絶対に言わない方がいいと理性が警告していたけど、連日の夢のせいでもうどこかに吐き出さなきゃ気が狂いそうになっていた。
「特製クッキーをご馳走してくれた上に『あーん♡』ってしてもらったり、逆にあーんをおねだりされたり、一緒にゲームしてたら手が触れて、それにこっそりどきどきしてたら小悪魔スマイルを向けられてこっ恋人繋ぎをされたり。他にもゲームのコードに絡まって転んだどらどらちゃんと抱き合ってしまったり」
「待ってストップ怖い怖い怖い! なに?!」
「だから夢の話です」
「怖い!」
 どらどらちゃんは意外とドジっ子さんな上、攻められるのに、というかイレギュラーに結構弱かったりする。だから経験豊富なムーブをしたかと思ったら、ころっと照れてしまったりすることがあるのだ。そのため、私の上に倒れ込んだときも、彼女は紅い瞳を零さんばかりにまあるくして驚いていた。意図せぬ接触にテンパっていたのだろう。どらどらちゃんは『ご、ごめんね急に。重かったよね』と普段の尊大さを引っ込めて恥ずかしげに大きな垂れ目を伏せさせた。全然重くない。どらどらちゃんなら百人のせてもきっと大丈夫だと思った。あとその、めちゃくちゃ柔らかかった。それになんかとってもいい匂いもしたし――。
「頼むから落ち着いて、それ全部夢だからね。……にしても、非オタのきみをここまで狂わせてしまうとは。自分の才能が恐ろしい」
 ァァァナスと妙なSEをセルフでいれながら蘇生した彼は、うーむ、なんて悩ましげに、しかしご満悦な様子で顎に手を添えた。そんなドラルクさんを「本当ですよ」と半泣きで睨む。とにかくそんなToLOVEる的な夢に翻弄されているせいで、ここ最近はろくな睡眠がとれていなかった。
「もうほんと、その内ドラルクさんがどらどらちゃんに見えてきそうで怖い……」
「えー、そんなに……? いや、それもあながち間違いってわけでもないけども……――あっじゃあさ」
 ドラルクさんはにやりと歪めた唇へ人差し指を持っていくと、爪先の布を噛んでゆっくりと手袋を引き抜いた。剥き出しの指が山のてっぺんに座すクッキーを一枚摘む。そうして口元へと運ばれたクッキーを、私は押し込まれるままにもぐもぐと咀嚼した。バターがたっぷりで甘くて美味しい、夢の中で食べたのと同じだ。違うのは未だ唇に触れる指先の温度だけ。どらどらちゃんは、もっと小鳥のような守ってあげたくなる体温をしていた(たしか)。
「責任取って、再現してさしあげようか?」
 うっそりとした、愉悦が見え隠れする低い声。ちがう、あの子はもっと、川のせせらぎよりも澄んだ伽陵頻伽のごとき音を玉唇から弾けさせていた。床に置いていた手に、ドラルクさんの大きな手が重ねられ、指をするりと絡められる。眉根にぎゅっと皺が寄った。これもちがう。骨張った枝のような細さのそれは、程よく肉のついたそれでいてしなやかな指とは大違いな、『男』の感触だった。こんなの違う。どらどらちゃんの手はもっと柔らかくて滑らかで……。
 鬱屈とした思いが募っていく中、クッキーを嚥下してから、私は「じゃあ」とドラルクさんへ視線を移す。見つめ返す赤目に、私の顔が反射しているのがやけに鮮明に見えた。
「お言葉に甘えて。失礼しますね」
「えっ」
 正気なら、こんなことは絶対にしない。けれど今の私は寝不足で正常な判断ができなくなっていた。ドラルクさんの返事を待たず彼の胸に飛び込み、背中に手を回してぎゅうっと抱き着く。薄くて硬くて、しかもなんかひんやりしていた。うう、ちがう、ちがうちがうちがう! これじゃない。夢の中のどらどらちゃんはこんなんじゃなかった。こんなんじゃなかった!
 声も温度も手の感覚も、なにもかもが違うともう分かっていたがそれでもと縋ってみたのに。最後の希望も打ち砕かれた。違いを再認識させられただけだった。つらい。
「う〜〜〜どら、どらどらちゃん……」
「う、わ、ちょ、ちょっと……!」
 やるせない気持ちで呻きながら胸元に顔を押し付けると、古い木材を焚べた時のような煤けた香りが鼻腔を満たした。よくよく嗅いでみると、その芳香の奥にしっとりとした甘さが潜んでいるのが分かる。
「あの、なんか嗅いでませんか」
 んん、いや、これはこれでなんかこう大人の男性感あるし、いい匂いだと思うけど……でもどらどらちゃんはもっとフレッシュでフローラルな香りだった、はず。夢の中で嗅いだ(ような気がする)だけなので明確な言語化はできないけど、とにかく違う。どらどらちゃんはこんな匂いじゃなかった。
「やっぱ嗅いでるよね?」
 実際匂いって、推しの解像度を上げるに当たり、五感の中でもかなり重要だと思う。匂いが分かるだけで存在の立体感が一気に増す気がするし。
「ねえ聞いてる?」
「着替え……」
「え?」
「いや、シャワー……」
 だめだ、どっちも意味ない。着替えても香水の匂いはとれないだろうし、この事務所で今すぐシャワーを浴びてもらったとて、ここにはどうせ男性用シャンプーとかしかないだろうし。
「ううっ、うえっ……匂いが、というよりなにもかもがしっかり男だよぉ……やだぁ……こんなのどらどらちゃんじゃない……」
「おい嘔吐いただろ今。……ていうかきみ、ちゃんと私が男だと認識した上で抱き着いてるのか……」
 複雑そうな声音になにを当たり前なことを言っているのだろうと呆れる。ドラルクさんをどらどらちゃんと認識するなんて不可能すぎだ。天と地よりも差がある。
「ま、ドラちゃんで満足しときなさい」
 ポンと頭に手が乗せられた。私だってかわいいでしょ、とかなんとかふざけた言葉が聞こえた気がしたが、全然そんなことはないなあと思ったので、気の所為だと思うことにした。はー、どらどらちゃんに会いたい……。会いたくて震える、手が。彼女に会えるなら、もはや眠れなくても構わないかった。

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