花吐き病


※嘔吐描写あり

 雑踏の中でもたしかにしっかりと聞こえた私の名前を呼ぶ声は、大好きな人のもので、到底聞き間違えるはずがなかった。
「ロナ――……ロナルド?」
 それなのに、振り返った視界に飛び込んできた表情は、それなりに長い付き合いの中でも初めて見るものだった。あまりの様子に私も自然と声の調子が落ち、上がりかけていた口角も強ばる。
「どうかしたの、ロナルド?」
 改めて呼びかけるも、返事はない。ロナルドは瞬きもせず、食い入るようにただ私を見つめていた。普段は明るく大きな瞳孔が、常より一回り小さくなっていく。さらに注視すると、僅かに開いたその口は、細かく震えているのが分かった。
「なに、知り合い?」
「あ、うん……」
 隣にいた兄がそう首を傾げるので、戸惑いつつも一瞬だけロナルドから視線を外した。
「えっと彼は――」
「っ、ごめん、邪魔した!」
「え、ちょっと!」
 緋色のインバネスコートがみるみるうちに遠ざかり、あっという間に人混みの中に紛れて消えてしまった。伸ばしかけた手を力なく下ろす。
「……大丈夫か、彼。すごい顔色だったけど」
「うーん……」
 困惑している兄へ、曖昧に相槌を打つ。大丈夫かどうか――そして、なぜあんな、置いていかれた子どものような顔をしていたのかは、私にも分からなかった。
 ◆
 そんなロナルドと最後に会ってから、一週間が経とうとしていた。連絡をしても、話を続ける続ける気はないというような素っ気ない返事ばかりだった。
 ロナルドは突然人付き合いが悪くなった。最近――ドラルクが現れてからは、ギルドにも頻繁に顔を見せに来ていたのに、近頃はそれもまたぱったりと途絶えてしまっている。なにかあったのかと、ショットをはじめとした面子、そしてマスターにも事情を尋ねてみたが、どうやら誰もなにも聞いていないらしい。きっとロナルドのことだ。『まだやれる』とか言って、仕事漬けの無茶苦茶な生活をしているのだろう。ここに来て急に、一体どういう風の吹き回しなのか。いやな風だ。あいつのワーホリ癖も、最近はやっとマシになってきたなと思っていたのに。
 退治の仕事なら私だって手伝える。原稿は無理だけど、でもスケ管の手伝いくらいしてやれるし。ドラルクが邪魔というなら暫く私が引き取ったって構わない。
 とにかく、好きな人に早死に一直線な生活なんてさせたくない。もうやるなとキツく言い含めてやらねば。
 そんな使命感に駆られ、私はロナルドの事務所を訪れていた。夜だと入れ違いになるかもしれないから、昼間のうちに。
 事務所の扉を叩くが、足音は聞こえてこない。留守だったのだろうか。アポとるべきだったかな……いやでもアポとったら断られそうな気がしたし……もだもだ考えながらなんとなくドアノブを回す。鍵がかかってるだろうと予想していたノブがなんの抵抗もなく回り、自分でやったくせに目を見張った。鍵閉めないで出掛けている――というわけではないだろう。私の知っているロナルドは、意外とそういうところはしっかりしている人だ。……ならば居留守? 必然的に導き出された可能性は、出来れば当たっていてほしくないものだった。それでも私は覚悟を決めて握ったままのノブに力を込め、扉を押した。
 事務所内は無人だった。シンと静まり返った空間にホッと安堵したのも束の間、どこからか――というか奥の居住スペースのほうから聞こえてきた小さな物音に硬直する。……咳払いのような音だ。ロナルドだろうか。ドラルクはきっと寝ているだろうし、とそちらへ足を進める。無理なスケジュールのせいで風邪でも拗らせてしまったに違いない。
「ロナルド、いるよね?」
「――は、な、なんでお前、」
「開けるよ」
「は?!」
 もし風邪をひいているなら、何を言われたって帰る気はない。大きめな声で一方的に宣言して、狼狽する声を無視して扉を開く。
「待っ――」
 扉を開けるなり噎せ返るような花の芳香に襲われ、反射的で口元を覆い、息を止める。思わず細めた視界に映るのは、目が痛くなるほど鮮烈とした青と――その真ん中に蹲るロナルド。広がる光景に理解が追いつかず、唖然と口を開いた。
「なに――ぁ、ろ、ロナルド、これ――」
「なんでお前、っまて、来んな……!」
 ロナルドが急に苦悶の表情を浮かべ、言葉の途中でうっと嘔吐いた。彼は私の歩みを止めようと上げかけていた手でパシ、と自身の口元を叩くように覆ったが、それでも抑えきれず、青い花弁はとめどなく溢れていく。
 床一面に分厚く敷き詰められた、まるで絨毯のような青い花弁。これを全部彼がこうして吐いたのかと考え、ゾッとする。どのくらい吐き続ければこうなるのか分からないが、そう短い時間でこうなることはない、ということだけはたしかだ。
 私は足元の花弁をなるべく踏まないように気を付けながら、体を丸めるロナルドへそうっと近付いた。距離が縮まるにつれ、ロナルドは体を引き摺って私から逃げるみたいに動く。けれど力が入らないのか、その場からほとんど移動はできていなかった。その姿に――場違いとは分かっていたけれど――、まるで人魚みたいだなという感想を抱いてしまった。浅瀬で転んだ、二本の足に慣れていない人魚姫。恋をしたばかりの、かわいいお姫さま。
「……ロナルド、息、できる?」
 なんにしたって、こんなの病人に思うことではないのだけれど。余計な思考を振り払い、ロナルドの傍らにしゃがんだ。顔を覗き込もうとすれば、緩慢な仕草で背けられる。
「やめ、たのむ……へいき、へいきだか、ら」
「……平気なわけないじゃん」
 必死な様子で絞り出された言葉に顔を顰める。そんな苦しそうにしていて、これのどこが平気なんだろう。背中を緩急つけて強く摩れば、ロナルドが目を見開いて少し震え、また口に手を当てた。吐き気に耐えているのか、ぎゅうっと目を固く瞑る。珠のような涙が銀の睫毛を伝い降り、ぽつりと花弁を濡らした。その上に、またはらはらと青が重なっていく。
「吐ききれるなら吐いたほうがいいよ」
「ぅ、あ……ご、ごめ、おれ――め、わく……っ――」
「迷惑じゃないよ」
「ちァ、ちがう、ぉ、おれ、こン、ッ、こんな、つもり、じゃ……!」
「大丈夫だよ。それよりもう喋らないで。息できないでしょ」
 今は吐くことに専念してほしい。私はなるべくやさしく聞こえるように、ゆったりと話しかけながら背中を上下に摩った。ロナルドの大きな背中がビクビクとまた苦しげに揺れる。積もっていく花弁は、吐きたてほやほやのはずなのに不思議とどれも濡れていなかった。
 か細く長い溜息が聞こえ、一旦吐き気が収まったらしいことを悟る。ロナルドは吐き疲れてしまったのか、散らばる花弁を悄然と見つめたまま微動だにしない。
「吸血鬼の名前、分かる?」
 こんなトンチキ現象、十中八九吸血鬼の仕業だ。VRCに連絡するため、携帯を取り出して立ち上がる。……あ、そういえば陽射しに当てたりしたらいいとかなんとか聞いたような? あれ、血鬼術だっけこれは。うーん、忘れた。とりあえず駄目元で、と窓辺まで行き、開ききっていなかったカーテンを端に寄せる。昼間の燦々とした日光が一遍に室内へ注がれ、ちょうど部屋の中心に座り込んでいたロナルドを中心に照らしあげた。
「ロナルド?」
 ロナルドは返事もせず、ぼんやりとこちらを見つめている。キラキラと気侭に光る眩い銀髪のせいで顔の血の気の悪さが際立っていて、いつになく虚弱に見えた。話す気力もないのだろうか。
「まだ具合悪い?」
 私は床に膝をついて彼と目線を合わせた。ロナルドが涙で腫れた目蓋を緩やかに閉ざす。たっぷり時間をかけて再び開かれた淡い色の眼は、疲労しているからなのか、どこか眠たげだった。その一度の瞬きがあんまりゆっくりとしたものだったので、私は一瞬、彼が寝てしまったのかと思って胸がひやりとした。
「なんで」
 ようやく紡がれた三文字は、低く掠れていた。
「なんでやさしくすんの」
 おれなんかに、とさらに付け足され、眉をひそめる。元々自己肯定感がそれほど高い人ではないことは知っていた。けれど優しさに疑問を持たれるほど、私達の距離は遠かっただろうか。病人(?)相手に大人げないとは思いつつも、口が尖る。
「やさしくするのに理由が必要なほど仲悪かったっけ、私らって」
「……分かんねえ」
「分かんねえって、あのね……」
 自ら振った話題をわかんねえと投げ出したロナルドに溜息を吐く。彼はびくりと大仰に肩を震わせ、力無く俯いた。
「だっ、て……分かんねえよ、仲なんて……」
「――……友達じゃだめなの」
 それとも友達『も』だめなのか。
 怯えた本音を隠し、むすりとしたわざとらしい表情を作って詰るように尋ねる。建前ですら拒絶されたらどうしよう。「ともだち」ロナルドは初めて聞く単語のように拙く繰り返し、徐に顔を上げた。かち合った瞳の奥に仄暗い蒼を見つけ、目を見開く。
「いやだ」
 息を呑んだのは、言葉に臆されたからではない。縋るように二の腕を強く掴まれたからだ。血が止まりそうな力に慄いていれば、突然顔がグッと近付いた。「いやだ」すぐ目の前で、焦燥が滲む言の葉が口早に押し出される。再び蒼眼に水膜が貼られ、ゆらりと波打った。
「おれはお前の友達じゃいやだ、おれは、おれ――おれ、だって……!」
 ロナルドは唐突にビクッと肩が跳ねさせ、唇を噛み締める。伝わってくる激しい震えにハッとした。
「ロナルド、もしかしてまた――」
「ッ、おれ、の方が――おれのほうが、ぜったい先に好きになったのに!」
 毒々しいほどに青黒い花弁が、号哭と一緒に幾つも吐き出される。嘔吐の苦しさで震えているくせに、私を掴む手だけは外されなかった。なにか、言わなきゃいけない。でも何の話かよく分からない。告白、のようだけど、誰かと比べている? 誰と?
 返すべき言葉を見つけられず硬直していれば、ロナルドの顔がぐしゃりと歪んだ。こふ、と震え、また青を一枚吐き出す。
「……んで……なんでなんでだよ」
 ずるずると銀の頭が沈んでいく。鼓膜を揺らした鼻を啜る音に、咄嗟にロナルドの体に手を伸ばす。力は抜けかけていたけど依然として掴まれたままだったので、軽く添えるくらいの動きしかできなかったが。しかしそれだけでも、彼はぴくりと反応を示した。
「なんで、好きじゃないくせに、やさしくするんだよぉ」
 正直のところ、事情はさっぱり汲めない。が、なにかを勘違いしているらしいことはなんとなく分かった。それはあとでちゃんと話し合おう。逸る鼓動をなんとか抑え、静かに息を吸う。返すべき言葉は、見つかった。
「好きだよ」
「うそだ」
「うそじゃない、ロナルドが、ロナルドだけが好き」
 間髪入れずに否定されたが、めげずに続ける。ロナルドは「もっとうそじゃんか」と悔しげに額を私の太腿に押し付けた。これ、私は別にいいけど、あとで憤死しそうだなロナルド。
「なんでそんなこと言うの?」
「…………先週、デートしてたの、おれ見た」
「……は?」
「おれの知らない男と、楽しそうにしてた」
 先週――先週って、いやお前それ。
「ッア、ハハ!」
「なに笑って――お、おい?!」
 込み上げた笑いを殺すことができず、息と一緒に吐き出しながら上半身を前へ倒した。ロナルドの広い背中にべったりくっつきながら、頬を擦り付ける。
「それね、私の――」


 その後VRCが来て、花を残らず綺麗に回収していった――私のポケットに知らず忍び込んだ、白銀の百合一枚を除いて。


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