冬の寒さがちらつきはじめる秋の夜。
仕事の付き合いで繁華街を通りかかった俺の耳に届いたのは
―――――― 女が歌う、拙いラブソング。
疎らな人だかりを覗けば、緊張しながらも懸命に歌う、その小さな唇。
緊張の所為か、寒さの所為か、震えるその唇が、ひどく、いじらしかった。
その唇が忘れられなくて、時間が空けば通うようになっちまった。
仕事でイラつく事があっても、その唇が紡ぐ歌を聞けば晴れやかになった。
他にも通ってきている奴は意外に多く、その中には夜の女共もいた。
ここいらには似合わぬ健気な様子は、庇護欲を誘ったのだろう。部外者には排他的なあの女共が、故郷から自分だけを頼りにやってきた愛しい妹かのように可愛がってやがった。
なまえは商売女とは明らかに違う上に堅気の女だ。だから柄にもなく声をかけるのが戸惑われて、俺はずっと通い続けながらも見ているだけだった。
それでも、もう歌うのをやめると聞いた時はいてもたってもいられず、無理矢理連絡先を渡しちまった。
話せればいい、と思った。この想いを告げられなくても。
それだけで、充分だと ―― 思っていた。
見知らぬ電話番号から掛かってきたのを、なまえからだと浮足立った俺に落とされた言葉を聞くまでは。
『なまえがあそこで歌っていたのは初恋の人を探すためよ。マフィアはお呼びじゃないの。もうあの子に関わらないでちょうだい』
あそこで紡いでいた歌すべてが、他の男に捧げられていたと知った時の激情を。
その瞬間感じた、腹の底から突き刺すようなそのどす黒い感情を。
その想いを抑えることはできなかった。
「なまえ」
「………な、中原、さん」
なまえが路上で歌う最終日。
俺はなまえの代わりに電話を掛けてきた女の忠告を無視して、話しかけた。違う奴が電話をかけてきたことといい、俺の名前を知っていることといい、おそらくは俺がマフィアだと知り、困り果ててあの女に頼ったのだろう。
だが、どうしても諦めきれず、この想いをこのまま手放すことができない俺は、なまえを問い詰める。
「もう諦めるんだろ、ソイツのこと」
それなら俺にもチャンスがあるはずだ。あの寒空で見つけた日からずっと見つめていた。
その声に気づきもしない野郎よりも、ずっと手前を想ってる。
※※※※※
マフィアのお兄さんからもらった連絡先を握り締めて私はお姉さん達を頼った。
恐怖心に駆られて、要領を得ない話をしていたような気もするが、汲み取ってくれた。
――― ような気がしていた。
そうしたら知らぬ間に私は初恋の人を探す為に街頭で歌を歌っていたけど、今回マフィアのお兄さんに迫られて困っている、ということになっていた。
なに、その伝言ゲームみたいな間違い。
勘違いに気づいたのはお世話になったリーダー格のお姉さんがマフィアのお兄さん ―― 中原さんに話をつけた後だった。
あの美丈夫にかなり失礼な間違いだと思うが、それで彼はひいてくれたそうなので安心していた。
最終日の帰り道に、こうして待ち伏せされて問い詰められるまでは。
「もう諦めるんだろ、ソイツのこと」
「……………、っ」
私がずっと、慣れない街頭で歌っていた理由。
彼の言葉は居もしない架空の想い人のことを指しているのだろうが、私にはそれが元の世界を諦めるのか聞かれているように思えた。
『諦められるわけなんてない』
そう叫びたいのにもう理解してしまっているのだ。帰れるはずもない事を。
だから、ずっと探していたのだ。私と同じ人を。傷の舐めあいでも何でも共有できればよかったのだ。
ただ、この孤独を分け合える人が欲しかった。無意識に涙が出そうになって顔を逸らす。
「ソイツは手前の声に応えなかった」
――― 私と同じようにこの世界に来た人なんていない。
「それどころか気づきもしなかった」
――― そんなのあり得ないってわかってる。
「もう手前の前には現れねえ」
――― もう二度と元の世界に戻れない事だって。
ぽたり。
とうとう塞きとめていたはずの涙が零れる。
ぼろぼろと際限なく落ちていく涙は止まることしらないように私の頬を濡らしていく。
結局、私は寂しかったのだ。街頭で歌っていたのだってひとりになりたくないからだ。
歌っていれば、誰かが私を見てくれる。声をかけてくれる。つながりがあれば、ひとりじゃないと思えたから。
そうやって折り合いをつけたはずなのに、馬鹿みたいだ。あんなにみんなに良くしてもらったのに。まだ寂しいだなんて。
どこかで諦めきれない私の心は、これからの孤独に震えて、泣いている。
黙りこくる私に彼はさらに言葉を続けた。
「なあ、……俺は手前が好きだ。
なまえが歌う声が俺に向けてなら、どんなにいいかずっと考えてた」
中原さんの手が、涙で汚れた私の頬に触れる。
滲んだ視界で、彼は優しく笑って、私の涙を拭ってくれた。
「その声が、その瞳が、俺だけに向けられるものなら、絶対何があっても離さねえ」
中原さんの香水が薫る。抱きしめられていると気づいた時には、その温もりにまた涙が溢れてきた。
「俺がずっとそばにいてやる」
※※※※※
目の前で静かに涙を零しながら震える唇が、出会ったあの日の唇と同じようで内心笑みがこぼれた。
手前がその唇で、その声で、惹きつけたのは俺だ。
手前が求めた名前も知らない野郎じゃねえ。
「なまえ」
その耳元で低く囁けば、びくりと震えるその姿。
「だから、もういいだろ?」
そんな野郎の事も。俺が待つのも。
俺は充分に待った。手前が知らなくてもずっとこの機会を待っていた。
今も、いや、出会ったあの時からずっと、
――― その震える唇に、くちづけたい。
君に捧げるラブソング