例えば、その吸い込まれそうな瞳、サラサラとした絹糸のような髪、桜色に色づいた頬。
僕は太宰さんほど女の人を褒める言葉を知らないけれど、彼女はとても綺麗だ。
ガラスケースの中で大事にされている人形のように繊細で完成されていて、そこから出してしまえば、たちまち壊れてしまいそうな危うさがある。
だから、僕はあなたといると、いつも不安になる。
「敦くん。よかったら、これ一緒に食べない?」
仕事帰りに出会ったなまえさんの手にある包みは、たしかナオミさんが云っていた最近話題のドーナッツ屋さんのものだ。
僕は頷いて彼女の家にお邪魔した。こうしてなまえさんは僕や鏡花ちゃんにお菓子をわけてくれたり、よくしてくれる。
何度もお邪魔した彼女の部屋はいつも通りなんだか優しい匂いがした。
淹れてくれる珈琲はすでに僕の好みに調節されていて、なまえさんの心配りにくすぐったい思いがする。
ここにあるすべては彼女のもので、すべてが彼女と同じで完成されたガラスケースの中の世界みたいだ。
綺麗で優しくて、すべてが満たされている。
「なまえさん」
「ん?あっ、全部食べても大丈夫。鏡花ちゃんの分はもうわけて包んだから」
「いえ、そうじゃなくて………。どうしてなまえさんは僕たちに優しくしてくれるんですか?」
するりと口に出た疑問は、ずっと考えていても切り出せなかったものだ。
なまえさんはこの世界の人間じゃない。
何らかの原因で、それこそ奇跡のような確率で世界を超えてきた、たった一人の女性。
政府の異能力研究でも解明がつかなくて、難しいごたごたがあったようだけど、今は探偵社預かりになった。預かりといっても、彼女には異能力もないし、はっきり云って非力だ。
だから国木田さんから“監視”の意味もある、と聞かされた時には首を傾げた。だって彼女には危険性なんて何もないのに。
聡いこの人は、きっと自分が監視されているのを知っている。
知っていても、穏やかに僕らに笑いかけてくれる。優しくしてくれる。
それが疑問だった。僕の方が彼女の処遇に憤りさえ感じているのに。
「優しい、かな?わたしは自分でそう思わないけど」
「優しいですよ。僕なら怒ります。もっと怒って…罵倒したっていいんですよ」
えぇっと困惑した顔をしているなまえさんは飲んでいた珈琲を机に置いた。
彼女をみる僕の視線の意図に気づいたのか、まっすぐと見つめかえされる。
数秒も経っていないはずなのに、沈黙が長く感じた。
嗚呼、やっぱり怖い。
彼女の口から罵倒の言葉が飛び出したら、僕はどうしたらいいんだろう。
その綺麗な唇から、汚い言葉が出てくるなんて想像もできないけれど、想像を超える恐怖に僕の方が先に目を逸らした。
「敦くん」
なまえさんが僕の名前を呼ぶ。
それでも僕はなまえさんがくれた食べかけのドーナッツを見ていた。もう二度とこうして一緒に食べることができなくなるのかな、と自分で切り出しておきながら身勝手に思う。
彼女の瞳が見られない。
見てしまえば、いつも優しく僕を見つめる瞳がなくなってしまったことを受け入れなければいけない。
うつむいている僕になまえさんが近づく気配がした。殴られる、かもしれない。
そんな事を彼女がする筈もないのに、孤児院にいた時のように僕は目をつぶった。
真っ暗な視界の中で、何か温かいものが僕の手にふれる感触がする。
そうっと目を開いて手をみれば、彼女の手が僕の手を包み込んでいた。何よりも優しい手が。
「ありがとう、敦くん」
云われた言葉がわからなくて、僕はついに彼女の顔を見た。
そこにあった彼女の顔は、僕がどんなに願ったって一生手に入れられないと思っていた庇護や無償の愛情、この世の綺麗なものすべてをつめこんだような笑顔だった。
この世界で一番綺麗で優しい笑顔。これ以上を、僕は知らない。
「わたしの為に怒って、泣いてくれて、ありがとう」
ありがとう、なんて言葉をかけてもらう資格もない僕に、彼女は変わらず優しく微笑んでくれる。
もう一方の手で、僕の頬に流れる涙をぬぐってくれる。
「敦くんの方がわたしよりずっと優しいよ」
ちがう、そんな事はない。だって僕はひどく安堵をしている。拒絶されなかったことを何よりも喜んでいる。
僕にはこの優しくて綺麗なガラスケースの世界が保たれた事の方が重要で、彼女の気持ちなんて考えていない。わからない。
もしかしたら泣いているのかもしれない。この綺麗な人は、僕よりもずっと。
ぎゅっと頬にふれる彼女の手を握る。
小さな柔らかい手は、幼い日々に夢見たすべてを惜しみなく与えてくれる。
だから、僕は不安で仕方がない。
彼女が元の世界に帰れるようになったとしたら、縋りついてしまわないか。
縋りついてしまったら、この優しい手に振り払われないか。
振り払われてしまったら、無理矢理その手を掴んでしまわないか。
どうして僕がこの温もりを失いたくないと願う事は、彼女の涙を犠牲にしてしまうのだろう。
彼女の優しい微笑みが、途絶えてほしくないだけなのに。
誰かの願いが叶うころ