※暴力表現がありますので苦手な方はご注意ください。




「貴方みたいな小娘が、森様に近づくんじゃないわよ!」

そのルージュがひかれた美しい唇を歪めて、私にがなりたてる女性は勘違いをしている。
私と鴎外さんはそんな色めいた関係ではない。そう説明しても頭に血が上っている女性にはわからないだろう。
出会い頭にいきなり叩かれてジンジンと痛む頬が、それを如実に表している。
むしろ彼のご職業を知っていそうな彼女にいきなり刺されてコンクリで沈められなかっただけマシかもしれない。

けれどチャンスだ、と思った。
咄嗟に思いついた私は、「あなたのような恋人がいるだなんて知りませんでした」と捲くし立てるように謝罪を繰り返し、その場で彼女に見えるように鴎外さんの連絡先の消去と自分のアドレス変更をしてみせ、「金輪際、彼には近づきません」と誓いを立てることに成功した。
女性の方も私の態度と勢いに押されたのか穏便にお引き取りいただけて、これで怪しまれずに彼から離れられる口実ができたと安堵していた。

何かあれば彼女の事を引き合いに盾にでもする心算だったけれど、決してこんな事を望んでいたわけではなかった。


そう、全身に傷と痣だらけの女性が引き摺り倒されるまでは。



「対処が遅れて悪かったね。真逆、君に危害を加えた者がいるとは思わなかったんだ」

彼の発言で、引き摺り倒された女性が私の頬を叩いた人だとやっと気づいたぐらいに、彼女の顔は殴られた痕ばかりで判別ができなかった。

その変わり果てた姿に、私の目は釘付けになる。
「こちらの落ち度だ。済まなかった」と私を窺う鴎外さんは呻き声をあげる彼女が見えていないかのように振る舞っている。

絶句している私の視線に気づいたのか、鴎外さんはちらりと彼女を見た後、控えていた黒づくめの部下らしき男に顎をしゃくった。すると男たちは彼女に容赦なく蹴りを入れ「謝罪をしろ」という冷たく重い声が響く。

おそらく叫び過ぎて掠れてしまった声で謝罪を繰り返す光景に、口に手を当てて悲鳴をのみ込む。
次第に弱っていく姿に見ていられなくなり、顔をそむけた。


「君にこういったものはあまり見せたくなかったのだが、ケジメだからね。ちゃんとしなければいけない。
………その女はもう連れていけ。見せしめも忘れないよう念入りにね」


震える私の肩を抱いた彼は部下に指示を出すと、幼子をあやすように私の髪を梳く。顔色ひとつ変えずにこんな事をする彼が理解できなかった。触れられる手が恐ろしくて、嗚咽が漏れそうになる。
口に手を当てた体勢のまま何も云えない私に
「もう大丈夫だ。こうすれば勘違いする輩もいなくなる」と彼は優しい声で語りかけてくる。

そう、勘違いだ。私は別に鴎外さんとそういった仲でもないし、こんな事をされる立場でもない。
なのにどうしてこんな……。困惑している私に彼は微笑むと、手を振り、部下たちを下がらせた。
彼らの足音が消えると、一瞬の沈黙の後、静かに鴎外さんが口を開く。


「はじめてなんだ……、君のような年頃の女性にこういった感情を抱くのは」

ぽつりと呟かれた言葉は私に対してというよりも自答しているように思えた。


「私としても最初は戸惑ったのだよ? 君は妙齢の女性で私の守備範囲ではない。
………けれどね、君の物問いたげに愁いを帯びた瞳を見ればわかったのだよ。清らかで控えめに笑う君が、何よりも愛おしいと」


ちがう、勘違いだ。私はいつもあなたに怯えていたのだ。
窺うような目をいつも向けていたのは彼が何者か知っていたから、不興を買わないように注意を払っていたからだ。
そして、その瞳に怯える顔を悟られないよう笑っていただけ。


「だから大切にしたいと思って、何も教えなかった。
それが裏目になったね……、痛かっただろう」

慰めるような優しい声。
そういって彼は髪を梳いていた手を私の頬に当てる。もう痛みも腫れも残っていない頬に。
いたわるようにそっと触れられた手から伝わる彼の体温に、ぞっと背筋が粟立つ。首を振り、逃げるように一歩下がった。


「ちがう、んです。…、わたし……ずっと、怖くて」

“貴方が”とただ一言を云うのが恐ろしくて言葉が続かない。

はじめて本心を告げようとする唇は青褪めて、上手く音を紡げない。云おう、云おう、と意気込むばかりで言葉にはならず、浅い呼吸を繰り返し、酸欠になる頭が鈍く痛んでくる。


「なまえ君。……いや、なまえ」

途切れてしまった私の言葉を最後まで聞くことなく、囁かれるように顔の近くで名前を呼ばれる。


「もう何も云わなくてもわかっているよ。
君はあの女が怖かっただけなのだろう?」

首を横に振りたいのに、降り注ぐ強い視線に微動だに出来ない。冷汗が噴き出して、手を固く握りしめた。だが、意を決して言葉を紡ぐ。


「わたしは…!」

「それなのにね。最初、私は勘違いをしてしまったのだよ。
真逆、君自身が私から逃げようとしているのでは、とね。
今考えれば笑い話だが、年甲斐もなくひどく腹を立ててしまった。エリスちゃんに諫められなかったら、君に乱暴をしてしまうところだったよ。事実を確かめもしないで、本当は被害者である、か弱い君に」

何気ない失敗談を語るように、少し恥ずかしそうに笑って云う彼に、その内容に、私はいつもの作り笑いができなかった。息を呑んで、聞いていることしかできない。


「君は何時だって焦がれる私の瞳を受け入れてくれていたのに、それを信じず君の気持ちを一瞬でも疑ってしまった私を赦してくれ」

もし、私が逃げようとしていたと悟られたら。さっき、そのまま「貴方が」怖いと云っていたら。
その可能性の末路に、全身を総毛立たせた。


「もう二度と怖い思いはさせないよ」

そう云って鴎外さんは固まる私の手をほぐすように包み込んだ。
慈しむような動作で、優しく、ゆっくりと甲へと口づけられて微笑まれる。

もう震える私の唇に
あなたが一番怖いだなんて、云えるはずもなかった。


言葉をひきちぎる
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