諦めたはずのことを諦めきれずに振り返る私は、なんて愚かなんだろう。


「やっぱり、此処にいた」

「太宰さん…」

うずくまる私に声を掛けた太宰さんはいつもと変わらぬ笑顔で手を差し出した。

「さあ、帰ろう」と云う太宰さんの手を素直に取って、のろのろと立ち上がり歩きはじめる。
何度も繰り返したこの遣り取りを、終える日は来るのだろうか。

彼に手を引かれながらぼんやりとした足取りで、この世界で彼と暮らす家へと足をすすめた。名残惜しむように、先程までずっと居た場所を一度だけ振り返る。

私が初めてこの世界に来た時にいた場所。


最初の頃より頻度は減ったが、私は何かあると、……何もなくても無性にあの場所へ行きたくなる。それは帰巣本能なのかもしれない。この世界に来た手掛かりやきっかけがあるとしたら、何となくあの場所だと思っているからだろう。

そして性懲りもなくあの場所にいる私を迎えに来るのは、いつだって太宰さんだ。
彼は見計らったように私が気が済む頃に現れる。前はそれでも子供のように離れたくないとぐずっていたが、今ではそんな気も起こらない。何度も何度も振り返ってしまっては歩みを止めていた頃のように、今でも手を引く彼の歩みはゆったりしている。


「太宰さんは、……私が此処に来ることを咎めませんよね」

「咎めてほしいの?」

「いいえ、ただ疑問に思っただけです。だって何度も迎えに来るの面倒くさくないんですか?」

「全然。むしろ楽しみにしているんだ」

「……楽しみ、ですか?」

意図が掴めず首を傾げれば、「理由は色々あるんだけどね」と彼はその瞳を優しく細めた。


「こうして君を迎えに来れるのは、この世界で私だけだろう?
つまり私だけに許された特権だ。それだけでも充分嬉しい」

少しだけ照れたように笑った太宰さんが、足を止める。同じように私も立ち止まると、彼はゆっくりと言葉を紡ぎ出した。


「なまえちゃん、私は君の帰りたいという気持ちを否定する心算はないよ。
だけど、もしいつか。
いつか君がこちらも悪くないと思ってくれたなら、」


その時は……私に“ただいま”と云ってほしい。
できれば私の傍で、ずっと。


穏やかに凪いだ瞳が私をとらえる。

けれど、彼は私に答えを求めないまま家路をうながした。



そんな彼の背中を見つめながら、こみあげてきたものに胸がひどく痛んだ。


振り返る私を優しく待っていた背中。
太宰さんがいつもどんな表情で振り返る私を待っていたのか、私はそれさえ知らないのに。


「どうして、…」

「文字通り、君はこの世界でひとりぼっちだからね。だからかな、」

最期まで疑問を云う前に彼が答える。その声は同情というより、自嘲じみて聞こえた。


「君を、……君となら、なんてね」

云い終えてから、こちらを向いた彼のおどけたような笑顔。
それが、なんだか苦しくて、胸が詰まった。

けれど、此処で濁してしまったら、きっと、もっと苦しい。意を決して、彼を見上げた。


「わたし……私は、きっと元の世界を忘れられません。
あの場所にも、これからも通い続けると思います」

寂しそうに揺れる瞳。
もしかしたら泣いていた私を見て、彼はずっとそんな瞳をしていたのかもしれない。それに目を逸らしたくなるけれど、真っ直ぐに彼を見つめた。


「だけど……。
だけど、手を繋いで一緒に帰るのは太宰さんがいいんです」

見開かれた瞳に、精一杯、微笑んでみせた。言葉と行動で示してくれた彼に、それぐらいしか今の私で示せるものがないのだ。



「太宰さんじゃなくちゃ、私はあの場所から離れられません。振り返って見ないようになんて、できません」

何度でも、あの場所へ。ぐずる私を厭わずに変わらぬ笑顔で、『当たり前』のように迎えに来てくれた貴方でなくては。


「また、……っあの場所を振り返りたくなったら」

嗚咽をこらえた声が、震えていた。


「今度は、こうして太宰さんを見るようにします」

だから、待っていてください。
そう云い切って、とうとう我慢できずに零れた涙に、自分が情けなくなって俯いてしまう。


「うん、待っているよ。いつか君が本当の意味で私に“ただいま”って云ってくれる日を」

そんな私に降り注いだ声は優しくて、涙を拭ってくれる手は温かい。

今の彼の顔は見れないけれど、さっきのような瞳はもうしていないような気がして。
根拠もないのに“いつか”じゃなくて、もうすぐ前を向いて「ただいま」を伝えられるんじゃないかと思えた。



最後に君が帰れる場所に
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