※「誰かの願いが叶うころ」と同設定夢主。
例えば、暖かな春の日差し、太陽の匂いをたっぷりと含んだ柔らかなシーツ、満腹でも頬張りたくなる甘いクレープ。
なまえを言葉で表現するのなら、そういったものが見合うと思う。
なまえは探偵社で保護することになった異世界の女性。
最初の印象は浮世離れした雰囲気が特徴で、現実感がなく思えた。
此処にいるのに、なんだか此処じゃないところにいる人。
―― ちがう、此処にいるべき人じゃないと思った。
なまえは本当に普通の人だった。
銃や日本刀を珍しげに見て、ちょっとの荒事でも怯えて、他人の大したことのない怪我でも悲しそうにする人。
そしてなまえはまだ幼い分類に入る鏡花に、これでもかというほど優しくして、手放しに甘やかそうとする。
休日には大量のフルーツとアイスを買ってきてクレープを焼いてくれたり、可愛いウサギグッズを見つければ鏡花を連れ出してショッピングをしようとする。
鏡花を巷で恐れられる元35人殺しのマフィアでもなく、人を助ける使命を負った探偵社員でもなく、ただの女の子として扱おうとする人。
きっと平和な光の世界で生きてきた人。
―― 鏡花にはそんななまえが眩しくて、
ほんの少しだけ苦手だった。
それでも任務なら鏡花はなまえを見張らなければならない。
彼女が危険じゃないよう。彼女が“危険”にならないよう。
たとえ、此処にいるべき人じゃなくても。
だけど、そう思った鏡花には何の命令も下らなかった。
「君にはなまえちゃんに関連する任務は一切与えないし、する必要はない。これは社長命令でもある」
なまえに関する任務は何一つ与えられなかった。
何故、と問う鏡花の疑問に乱歩は云った。
「君のなかでまだ曖昧な“守りたいと願うもの”が何なのか知る為だよ。君が何を善しとして、それがあり続けてほしいと願うのか。
善の本質にも近いことだけど、それはまた別の話になるし、めんどくさいからパスね!」
その意味を、その時の鏡花は理解できなかった。
※※※
テロリストによる爆発。
それに巻き込まれたのは、何の罪もない一般人だった。
居合わせた鏡花が必死で抗えど、被害は出てしまった。
まだ燃え立ち込める煙の向こうには倒れる人々。死にかけた人達が見える。
たとえ、もう助かる見込みがなくても助けなければ。
探偵社員が助けるべき、何の罪もない人達だから。
―― 私がやらなくちゃ。
私はその為に探偵社に入ったのだから。
みんなを守るために。誰かを守るために。
その目的を、使命を、果たさなければ私は此処には……
まるで憑りつかれたように飛び込もうとした鏡花の、着物の袖がぐっと引っ張られる。
振り返れば袖を引くのはなまえだった。
なまえのことは鏡花が咄嗟に庇い、煤だらけだが怪我はない。けれどなまえは今にも倒れそうなくらいに酷い顔色だった。
それでも鏡花を見つめる瞳には、強い光が宿っていた。
幽鬼のような瞳をしていた鏡花は、その輝きに思わずたじろいだ。今思えば、本当は怯えていたのかもしれない。
どうして、もっと早く助けにこなかった、と責められると思ったからだ。
『お前にはその力があるのに』
けれど、それは鏡花の幻影だった。
現実には震えているなまえが、血まみれの鏡花を抱き締めた。弱々しくも、力強く。
「他の誰かが傷ついているからって、鏡花ちゃんが痛くないわけないでしょう!」
鏡花よりも、彼女の方が痛くて死にそうな声だった。
それでやっと鏡花は自分の傷口が相当深いことに気がついた。痛みを、知覚した。
「たしかに救いたかった誰かに手が届かなかったかもしれない。……けど、救った命がある事も忘れないで」
なまえの言葉と温もりが、まるで乾いてヒビ割れた地面を打つ雨水のように染み込んでいった。
欠けてしまったものを、取りこぼしていってしまうものを、何度も何度も埋めてくれるような感覚。
まだ怖いのを必死に我慢して鏡花に笑いかけるなまえを見て、
堰き止めていた心の何かが、叫び出したように感じる。
―― 嗚呼、傷口がひどく痛い。痛くて、痛くて、たまらない。
その叫びに呼応するように、だんだん痛みが強くなる。
「ありがとう、私はあなたに救われたの」
ボロリと涙がこぼれた。
縋りついているのはなまえなのに、鏡花の方が縋ってしまいたくなった。
―― 私を抱き締める温もりが、傷口に染みるのに放したくなかった。
※※※
横濱の地理をすべて把握している鏡花でも、どこにいるかも分からない人ひとりを探すのは骨が折れる。
やっと見つけたなまえは海を臨むベンチにいた。
その瞳はここではないはるか遠くを見ているようで、鏡花の胸を締め付ける。
此処にいるべき人じゃない。
最初はそう思ったはずなのに、その瞳を見ると鏡花は「いかないで」と云ってしまいたくなる。
それを云ってしまったら、なまえはきっと、とても悲しそうに微笑むだろう。
そんな顔をさせたいわけじゃないのに。
自分の望むことは、やさしいこの人を不幸にする。
それは、鏡花がなまえに出会って初めて知った切なさだ。
近づいてきた鏡花に、なまえが気づいて振り向いた。
ほんの少し驚いたように見開かれた瞳が、すぐに鏡花を温かく見つめる。
「鏡花ちゃん」
その声に誘われるように、そばに立つ。
無意識に伸ばそうとした自分の手が、薄暮に照らされて真っ赤に見える。
それが一瞬だけ血に見えて、はっとした鏡花は手を急いで引っ込めた。
その動作になまえが不思議そうに首を傾げる。
手を見られていないことに意味もなくほっとした。
「もしかして探しに来てくれたの?」
先ほどの錯覚の所為でぎこちなく頷くと、なまえが申し訳なさそうな顔をする。
「ごめんね。福沢さんから云われてきてくれるにしても大変でしょう? もう今度からは…」
「違う」
強く主張した言葉は、思ったより大きく響いた。なまえが驚いたように鏡花を見る。
だけど、どうしても伝えたかった。
「命令じゃない。私は自分の意思で探しに来た」
鏡花はポートマフィアにいた頃ほどではないにしろ、個人的な感情の優先順位は低い。
はっきりいってしまえば、自分の感情より仕事の義務や責任を優先する。
その鏡花が自らの意志でのみ、なまえを探しに来た。する必要もない、云ってしまえば意味にないことを。なまえには探偵社以外に身の置き場なんてない。だから必ず戻ってくると誰もが知っている。
それでも探しに来た鏡花に、なまえは何と云ったらいいか分からず彼女を見つめた。
「私が貴方を見つけたかった。だって…」
此処にいてほしい。手の届かない遠くになんて、いかないで。
こぼれ落ちそうな言葉を寸でのところで止める。
切なさに首を絞められるような心地でも、鏡花は笑ってみせた。なまえのような優しい笑みをカタチづくってみようとする。
きっと自分の笑みは彼女とは似ても似つかない、不格好な笑みだろうけど。
「誰よりも一番先に、私がなまえを守れるようになりたいから」
虚をつかれたようななまえを鏡花はあの日の彼女と同じように、抱きしめた。
鏡花の欠けたピースを、元から欠けているようなピースさえ、なまえはやわらかに埋めてくれた。
なまえがくれたものが少しでも返せたら、それはきっととても素敵なことだから。
それが伝わってほしいと抱き締める手に力がこもる。守りたいものをしっかりと握りしめる。
「……だから今は、甘えてもいい?」
思いの外、恥ずかしくて頬を染めた鏡花になまえは破顔して、とびっきりの笑顔を見せてくれた。
真っ暗になりそうな夕暮れでも、きらきらしているなまえの笑顔に先程までの切なさがすっと消えていく。
その優しい指先は、私のなかの曖昧な輪郭を描いてくれた。
でもそれがいつか、自分の二度と手の届かない場所にいってしまうのを痛いほど知っている。
あり続けてほしいと願うもの。
それが消えてしまうのを知っている。
――― その痛みにはきっと、終わりなんてない。
それが叶うべくもないことを痛いほど知っている