「あっ……忘れてた」
夕食の仕上げのときになって、買い足すのを忘れたのを思い出す。
すでに炊飯器には熱々のご飯と、お鍋のなかのおかずも善い感じに仕上がってきている。
残念だが、一旦手を止めて買いに行くべきだろう。
急げば10分以内には買って帰ってこれる。
お鍋の火を弱火にしておいて、玄関に向かう。
少し危ないかもしれないが、戻ってくる頃にはちょうど良い加減になっているはずだ。
最近は福沢さんにあわせて着物を着ているせいか、つい下駄を履こうとしてしまうが、急ぐなら靴だ。
靴箱の奥にしまい込んでいた元の世界で履いていたものを引っ張り出す。
着物には不格好だが仕方ない。
財布と玄関の鍵だけ持って、家を出た。
── それがちょうど10分前。
どさり、と買い物袋が落ちる。
帰ってきてそうそう、靴を脱いだ玄関先で福沢さんに抱え込むようにきつく抱き締められる。
さっきまではいなかったはずの福沢さんはどうやら私が出掛けていた間に、もう帰ってきていたらしい。
「ふ、福沢さん……?」
いつも落ち着いている彼が、なんだかひどく焦燥している様子に困惑する。
何か、あったのだろうか。
「あの……何か、あったんですか?」
「……なまえ、何故」
絞りだすように響いた福沢さんの声が途切れる。
しばらくどこか迷うようにして、問いかけられる。
「……何処へ、行っていた」
その様子に首を傾げるが、素直に事情を説明すると、長い溜息をつかれる。
「携帯も持たずに、か」
「ご、ごめんなさい。すぐに戻るつもりだったから……」
安心したように、けれど呆れたように口にする福沢さんは私を心配してくれていたようだ。
鍋の火も止めていなかったので忽然といなくなったように見えたらしい。
最近履いていない靴を使っていたから、なおさら不審だったんだろう。
心配をかけてしまって申し訳ない気分になるが、少しだけ嬉しかった。
ほとんど知り合いのいない世界で、こうして心から自分の心配をしてくれる人がいることに。
くすぐったいような気持ちが湧き上がり、お礼を口にする。
「ありがとうございます、福沢さん」
「……………」
「福沢さん?」
「なまえが……攫われたのかと思った」
福沢さんが「異能力者」が集まる「武装探偵社」というところの社長で、少し危ない仕事もしている…のは知っている。
その所為か、彼は私にちょっと過保護だ。
だけどその彼の人柄故に、異世界から来ただなんて私のような異能力に巻き込まれたのかも知れない人間を保護してくれているのだろう。
「もう少しで乱歩に連絡してしまうところだった」
「それは……、また笑われちゃうところでしたね」
苦笑する福沢さんに思い出し笑いをしてしまう。
一緒に暮らし始めた当初、街で迷子になってしまった私を乱歩さんの推理で探してもらったのは恥ずかしい限りだが今では笑い話だ。
「笑い話ではないぞ? なにせ我々が探している最中、なまえはポートマフィアの首領とお茶をしていたのだからな」
「いや、それは不可抗力というか……今でも信じられないんですけど、あの方、本当にポートマフィアなんですか?」
迷子の私に声をかけた、これまた迷子の可愛い女の子・エリスちゃんがきっかけで知り合った町医者風の男性を思い浮かべる。
迷子だったエリスちゃんを見つけた時の喜びようや、戸惑う私に見せた柔らかな態度は、私が想像する乱暴なマフィアとは中々結びつかない。
「そう見せない狡猾さがあるだけだ。……森医師と会ったらすぐに連絡しなさい。お前では迫られても逃げられないだろうからな」
「な、なんだか大袈裟じゃないですか…?」
「大袈裟なものか。森医師に口説かれて……いただろう?」
大きな誤解だ。
迷子仲間のエリスちゃんが「なまえも一緒じゃなきゃ帰らないー!」と駄々を捏ねたから、彼女の機嫌取りに森さんは私に優しくしてきただけだろう。
むしろ彼の守備範囲外の私に、空恐ろしいほど優しくしてきた理由はそれしかない。隠しきれぬ彼のロリコンっぷりは会って一日も経たない私にも十二分に理解できた。
「……あの、私、完全に彼の守備範囲外ですよ?
それに最後の“アレ”は揶揄って遊んでいただけですよ。そういう類の色はありませんって」
福沢さんが私を見つけた帰り際、森さんに手の甲に口づけをされたが、アレは完璧に福沢さんを揶揄うためのものだろう。
口づけながら、ちらりと福沢さんの反応を窺う瞳には隠しきれない愉悦が滲んでいた。
そう言う私に福沢さんが、はあっと大きな溜息をつく。
「……お前は女を狙う男の目を知らない。アレはそういう類の目だ」
その様を思い出すかのように、福沢さんの目が細まる。
そのまま、その視線がスッと私に向けられた。
「こういう、な」
「ふ、くざわ、さん?」
吐息すら感じられる距離に迫る、狼を彷彿とさせる金瞳。
けれど、その瞳は私を通り過ぎて、いつの間にか私の身体はまたすっぽりと彼の腕の中に収まっていた。
「えと、……福沢さん?」
「……すまない」
それは何を指しての謝罪なのだろう。
問いかけたくても彼の纏う空気には、その一切を寄せ付けない何かがあった。
その腕の中で、ただ戸惑うしか出来ない私には、きっとどんな意味であっても構わなかったのに。
しばらくそうしていると、ぽつりと彼が打ち明ける。
「……本当は帰ってしまったのかと思ったのだ、お前が元の世界に」
「…えっ?」
「なまえが来たのは突然だった。だから帰る時も……」
突然なのだろうな、と彼が小さく吐き出した言葉には“怖れ”が感じられた。
それは私の都合の良い耳が、そう願ったのかもしれないけれど。
「お前はきっと平和に暮らしてきた人間だ。
そのお前に元の世界に帰るな、などと無責任なことは云えない。それはなまえの、いつか必ず訪れる幸せを摘み取る行為だ」
その幸せを奪うことは許されない。
懺悔するような苦しげな声に胸が締め付けられる。
「此処の世界に居る間だけでよい。それで、善いのだ…」
「私は……私には、その間だけは此処から出て行かないでくれ、と請い願うしかできない」
震える腕をごまかすように強く抱きしめるこの人の不器用さに、縋りつきたくなるのは私の方だ。
だって私はいつでも夢想する。
きっと永遠に、彼からは云われることのない言葉を。
『元の世界に帰らないでくれ』
他ならぬ貴方がそう云ってくれるなら、私は貴方以外の幸せなんて全て捨ててしまえるのに。
曖昧な幸福を数えないで