「嗚呼、なまえさん、此方だよ!」
包帯だらけの腕を振りながら、私を呼ぶ男は太宰治というらしい。
あの、元の世界の文豪と同じ名前の人間だ。
思わず恥の多い人生を歩んできたんですか、と問いたくなったのは名前のせいだけではない。
向かい側の席へと私をエスコートする太宰は、見た目だけなら相当の美丈夫でおモテになることだろう。
「なまえさんは何が食べたい?勿論私が奢るから好きなものを頼んでよ」
ニコニコと楽しげにメニューを渡してくる太宰に殺意すら沸いてくる。
この世界に来てからというもの生活に余裕等なく、外食なんてしたことがなかった。
訳も分からずこの世界に来て、戸籍もないから記憶がないと嘘をついて、それがばれない為に自分が持っていた元の世界での身元の分かるものは全て捨てた。
家族や友人との写真が入っている携帯も、誕生日に貰った財布も、元の世界に繋がるものは何もかも。
なんとか戸籍をもらってからも大変だった。援助なんて殆どなくて、働いて働いてやっと生活ができていた。
―――― それを、この男は壊したのだ。
直接的には手を出していないのだろう。
遺書を無理矢理書かされてもう後がないという時に割り込み、まあ、待ち給えと止めたのだ。
それだけなら王子様のようだっただろう。恩人として慕っていたかもしれない。
然し、それは救いの声などではなかった。
だってその事態を引き起こしたのは彼なのだから。
「君にはね、この書類にサインをしてもらいたいんだ。
それさえしてくれれば、後は悪いようにはしないと約束しよう」
臓器の一つや二つでも売り飛ばされる算段でも立てられているのだろうか。恐る恐る机の上に差し出された書類を覗き込む。
「なんですか、此れは」 思わず素で聞いてしまった。
「何って?そんなの決まっているじゃないか!愛の契約書だよ」
大仰に答える男に薄ら寒さを覚える。意味が分からない。
見るからに女に不自由等したことがない太宰が、何の目的で財産も後ろ盾もないような女と結婚したがるのか。
「……何の為にこんな事をしたんです?」
不信感を包み隠さず、問いかける。
「私が君に一目惚れをしたから、って云ったら?」
「そんなお伽噺みたいな話、信じられません」
「お伽噺話……ね。そんなに素敵なものだったら善かったんだけどね。
生憎と私が抱いているのはそんなお綺麗な感情ではないよ」
その顔から笑みが消える。真剣な表情は先程までとは別人にさえ見えた。
「君が手に入るのなら、私はどんなことだってするよ?どんなに優しいことでも、どんなに酷いことでも、何でもね。
ただ、君の全てがほしい」
太宰はゆっくりと笑みを戻し、目を細めた。
「幸い君の遺書はここにある。死体なんていくらでも偽造できるしねぇ。
私が手を回せば、君は晴れてこの世にはもう存在しない人間だ」
私はどちらでも構わないのだよ、と淡々と言葉を紡ぐ。
「君だってこれからの人生を死んだ人間、否、存在しない人間として生活していくのは嫌だろう?」
「……っ、私を如何、したいんですか」
この男に弱味なんて見せたくないのに、私の声は震えていた。
「君は只、この書類に名前を書いて、これから私と暮らすだけだ」
コトリっと、万年筆が書類の脇に置かれる。
「君に不自由はさせない心算だ。……まあ、あまり外には出さないかもしれないけれどね」
あ、心配しないで。職場の皆には紹介するよ。私の妻としてね、と照れたように付け足される。
「お伽噺話にもあるだろう?その後、二人は末永く幸せに暮らしましたって。
これからは何も心配しなくてもいい。大丈夫、私がついているよ」
そっと幸せそうに微笑まれる。まるでお姫様を救い出したハッピーエンドの王子様のようだ。
現実には如何だったのだろう。お姫様の方は幸せになれたのだろうか。
家族の顔さえ朧げになりつつある私は、お伽噺話の結末を上手く思い出せない。
ただ、今わかるのはこの手に握る万年筆の冷たさだけだ。
狡猾な愛の誓約書