「ごめんなさい、私は中也さんの……マフィアの手を取れません」

だって、私はきっと忘れられない。元の世界に残してきた、家族も、友人も、何もかもを。
この世界に居たいと願うことは、私の世界 ―― 私の帰りを待っていてくれるだろう彼らに対する裏切りだ。

仮令、帰れないとしても、忘れないように何度も帰りたいと願い続けていれば、許されていると思えるから。

だから仕方ないのだ。もう、此の後ろ姿さえも見ることは叶わないのだと覚悟する。

けれど、最後になら、どんなに滑稽で惨めな事もできる気がした。




「中也さん…最後に聞いてほしいことがあります」

もうこの声は聞こえないかもしれない。彼は足早に去っていこうとしている。

「私には誰にも言えない秘密があります。
きっとこれからも、この世界の誰にも言えません」

中也さんの足が止まる。けれど、こちらへは振り向かない。

「ずっと周りを騙して、欺いて、嘘をついて、生きていくつもりです」

私はずっと一人で抱えて生きていく。それが彼に対する私なりの誠意だ。

「一緒にいたら、私はきっとあなたを裏切ります」

帰れるのなら私はあなたを置いていくだろう。それが正しい道だと知っているから。
私との未来を想ってくれた中也さんに対する裏切りだとしても。


「もう二度とこうして会うこともねえんだ。裏切るも何もねえだろ」
中也さんは後ろを向いたまま答える。もう顔も見たくないのかもしれない。


「ええ、もう二度と会いません。
……私はこんな女なのでずるいと分かっていますが、最後にこれだけは伝えたかったんです」


彼は仕事の内容に関しては決して口にはしなかったが、仕事に対して誇りを持っていることは知っていた。
その仕事を理由にして断ったのだ。これから云う言葉は彼を傷つけるだろう。
でも、ほんの少しでも彼の中に在りたい。
汚い私の最後の一矢。



「中也さん、貴方が好きです。……この世界で誰よりも」

それでも本音だった。全て忘れて、元の世界への想いを振り切って、あなたとずっと一緒にいられたら、なんて馬鹿な願いをしてしまう程に。


涙がボロボロと溢れてきて、止まらない。
俯いた視界にはぼやけた地面が滲んでいた。
良かった、中也さんが後ろを向いていて、こんな酷い顔を思い出としても残してほしくない。


「俺も手前にまだ黙っていることがある」

中也さんの声が静かに降りそそぐ。

「手前の身元を調べた。………だが何も出てこなかった。それが答えだろう?」

思わず顔を上げる。中也さんはいつの間にか、また私の前にいた。

「子飼いの奴らが悔しがってたぜ?どんなに調べても何も出てこねえって。
まるで元々この世には存在してなかったようだって、な」

何も答えることができない。仮令異世界の人間だと思われてはいないにしても、かなり厄介な事情持ちだという事はわかっていたはずだ。
それなのに何故 ―――


「手前が何だって誰だって構いやしねえよ。
俺は手前に惚れてんだ、そんなのとっくに背負う覚悟ぐらいできてる」

当たり前だろ、これでも五大幹部なんだぜ、と帽子を掴み、笑う。

「もし、手前が俺の手を取らないなら俺もそれなりの手段を使わなくちゃならねえぜ」


「でも、断ったらもう二度と会わないって……」


「はっ、そんなの信じてたのか?俺はマフィアだぜ?
欲しいものを手に入れる為ならどんな嘘でも吐く。それに俺が云ったのはこれまで通りみたく会わねえって意味だ」

こちらを見据える彼の瞳は驚くほど鋭い。


「今までみたく、一般人として生きている手前に合わせて、お行儀良く付き合わねえってことだ。
……これからは俺のやり方で愛するだけだ」


遠慮はしねぇ、と薄暗い笑みを浮かべる彼に背筋が震える。
思えば彼は今までマフィアらしい陰惨な素振りを私には見せたことがなかった。


「それ、……横暴過ぎる上に屁理屈すぎません?」
僅かに感じた怯えを誤魔化すようにいつもの調子で返す。

「知るかよ。それは手前の理屈で俺の理屈じゃねえ」



中也さんは徐に私の指先を手に取り、唇を寄せた。
退こうと足を後ろに下げるが、腰にいつの間にか手が回っていて動けなくなる。
そうしている間にも中也さんはそのまま唇をずらし、私の掌へとくちづける。
私の手はちょうど中也さんの頬に触れているようなかたちになってしまう。

中也さんの唇と吐息が掌に伝わってくる。
火傷を起こしたように熱い。駄目だ、これ以上は逃げられなくなる。

「私のことは諦めてください。だって……」

「諦められるかよ。
手前が俺を好きというのなら、俺はお前を諦めねえ」

手から唇を放し、こちらに顔を近づけてくる。

「………覚悟しろよ、なまえ。
絶対逃がさねえ。手前は、今、ここに、俺の目の前にいるんだ。逃がすかよ」

耳元で囁かれる言葉が、彼の吐息が、私の逃げ道をふさいでいく。
酸欠になったようにくらくらする。涙がまた滲んでくるのは何故だろう。


私自身が決して選ぶことの出来なかった幸福が、今、目の前にある。

悪魔よ、今、私の前に現れるのなら、どうか



    ――――  時よ 止まれ 


汝はあまりに美しい
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