※作中には一部、不道徳的表現がございます。苦手な方はご留意くださいませ。
この世界に来て、習慣になってしまったのは自殺名所のビルに昇ることだ。
薄気味悪く、幽霊か、自殺志願者でもない限りは絶対に近寄らないであろうビル。
そんな廃ビルの屋上から夜中に街を眺めるのが日課のようになってしまった。
そういった場所を元の世界に居た時は人並みに苦手にしていたと思う。
気味の悪い処に一人で近づくことなんてあり得なかった。
けれど、この世界では、幽霊も、街ですれ違う人間も、どちらも同じだ。
見知らぬ人、知らない人、顔のない人、自分とは違う、異世界の中で生きてきた人間。
気味の悪い、自分とは違う、全く別個の存在。
人気のないビルの屋上から街を見下ろす。
よく見知った街とよく似ているのに全く違う別ものの世界。
それにひどい苛立ちとどうしようもない孤独を感じる。
こんなにも似ているのに、此処は私の知らない世界、本来なら私の居ない世界、私のいらない世界。
高い風景は今在る場所を曖昧にさせる。
此処は廃墟になって久しく、勿論安全設計された柵等あるはずもなく、だからこその名所だ。
一歩踏み出せば、私は地面へ真っ逆さま。境界線は何時だって曖昧だけど、確かな一線を有している。
此処から飛びたいか?
――― 嫌、そんなの御免だ。私はこんな知らない世界でなんて死にたくない。
だから、まだ大丈夫だ。此処から飛び降りようとなんてこれっぽっちも思わない。
私は死を選ぶ程、絶望しきっていない。私は生きて必ずあの世界に帰るのだ。
「やあ、なまえちゃん。いい夜、良い自殺日和だね」
音もなく屋上への入口の暗がりから男が現れる。
「またお前か、太宰」
「まだ飛び降りる気にはならないの?」
「当たり前だ」
それは残念、とわざとらしく肩を落とす。
以前に太宰治と名乗ったこの男は自殺嗜癖らしく、よくよくこのビルに足を運んでいる変人だ。
私も人のことを云えたものではないが、目的が違う。一緒にしないでもらいたい。
「その気になったら何時でも云い給え。君と共に落ちていけるなら何処までも付き合うよ」
私は何も答えない。この男と会話をするのは無駄だと悲しいことに少なくない経験で分かっている。
それなのにこの男はペラペラと何が楽しいのか、いつも私の横でしゃべり続けている。
「嗚呼、良いことを思いついた!」
「………確実な自殺方法でも考えついたのか?」
それはめでたい。主に私の日課の平穏的に。
「残念ながら違うよ。ただ、君に魔法を掛けてあげようと思ってね」
太宰は胡散臭い笑みを浮かべている。
「お前、異能力者だったのか?」
「私が異能力者だということは前にも云ったんだけどね。覚えてないかい?」
そういえばそんなような事を云っていたような気もする。
探偵社がどうの。こいつの話は長い上に興味もないので聞いていなかった。
「どうでもいい。変な事したら此処から叩き落すからな」
「え、いいの?」
君の手で死ねるなんてうれしいなあ、とほざく太宰に毒気が抜かれる。
溜息を吐いて、また街を見下ろす。
最初に此処に来た時から変わらない、見慣れた知らない世界の景色。
「ねえ、なまえちゃん」
太宰がまた語りかけてくる。
「私はね、こう見えてあまり気の長い方ではないんだ。自分でもよくここまで我慢しているものだと感心しているのだよ」
どうやら本気らしい、と呟いている。
こいつに我慢なんて殊勝なことできるのか。それにしても今日はやけにしつこい。
「………で、魔法か異能力か知らないが何をする気だ?」
早く済ませてとっとと帰ってほしい。
太宰はふふっと笑い、言い放つ。
「君が囚われているものから助けてあげよう!」
とりあえず碌な事じゃないのは判った。なにより
「私が何に囚われてるって云うんだ?生憎とお姫サマなんて柄じゃない」
「この街の景色にだよ。否、正確には違うかな。君はこの街を通して、手に入らない何かに焦がれている。
そしてそれは、きっと一生手に入らない。何より私が許さないよ」
私以外のものに焦がれるのは、と聞いたことのない低い声音で太宰は言葉を吐き出す。
「お前の云うことは相変わらず意味が分からない。私は、ただ………」
私はただ、再認識しているだけだ。此処は違うのだと。
「下ばかり向いているから囚われてしまうんだ。
見てごらん。あの川を」
「……川?」
「天の川だよ」
太宰が天を指さす。
「今夜は星合の夜だ。しかも時分は夜明けの晩。一番善く見える時だよ」
見上げると、空には暗闇の中いっぱいに星の川が流れていた。あまりにも大きく、まるで海のようだ。
「きれい……」
思わず言葉がこぼれる。
その後は、しばらく言葉を失くしたように見惚れた。何度も此処に来ているのに見るのは街の風景だけで、空なんて意識の外だった。
「羨ましいなあ。君の熱い視線を独り占めしている上にそう云ってもらえるなんて。嫉妬してしまいそうだ」
彦星のようになるというのも手かもしれない、などと太宰はぶつぶつ呟いている。
死んだら星になるとでも云うのか、この男は。
「………、ありがと」
「え?」
太宰は意表を突かれたように間の抜けた声を出す。
「少し、気分が軽くなった。……たしかにこうやって空を眺めている方がいいかもな」
雲一つない、星空の瞬きだけは、元の世界と違わないのかもしれない。
「善かった。やっと、笑ってくれた。
君はいつも難しい顔で街を睨みつけてばかりだったからね」
心配していたんだ、と溢す。
もしかして太宰は、私が飛び降り自殺でもしないか心配していつも来ていたのか。
そうしたらとんだお人好しだ。私はひどい誤解をしていたのかもしれない。
「なら今度、改めて一緒に樹海にでも行かないかい?
ひっそりとした森の中で君と迎える最後というのも悪くない」
「……………」
絶対違うな。変わらない様子に安堵を覚えてしまう自分が嫌になる。
だけど、まあ ―――
「樹海は御免だ。……けど、こうやって星の海になら付き合ってもいい」
太宰がきょとんとした顔をさらす。案外幼くみえる顔にまた笑いがこぼれる。
「ああ、約束だよ」
この世界で初めて約束をした。
星に照らされて彼の顔がよく見える。見知った彼の、確かな横顔が。
織姫も彦星も会える約束さえあれば、存外会えなくても寂しくなんてないのかもしれない。
樹海への船出