この世界は……正確には彼の庇護下の世界は酷く息苦しかった。
耐えられなかった。真綿で首を絞められるような、だんだんと帰る意志さえ奪われていくような感覚が恐ろしくて
――― 私は太宰さんから逃げ出した。
今迄だって、私はきちんと考えるべきだったのだ。目を逸らし続けて良い事なんてないのだから。
だから こうして突きつけられてしまうのだ。
「そうだね、一応、理由を聞いておこうか。
どうして急に出て行ったりしたんだい?」
とても心配していたんだよ、と優しげな声が掛けられる。
「…………、このまま、此の侭ずっと帰れなかったら、太宰さんのご迷惑になると思って」
半分は本気だ。ずっと頼りきりで暮らしていていいはずがない。
だって私と彼は云ってしまえば只の他人で、彼は私の面倒をみる義理も義務も、……何もないのだから。
「私が何時、君の事を迷惑だなんて云ったんだい?
寧ろ君がいなくなったこの数か月間の方が如何にかなってしまいそうだったよ」
探偵社の皆にも心配されてしまったくらいだ、と困ったように笑う彼は確かに少し痩せてしまったようにも見えた。
本気で心配してくれたのだ。そんな彼を見て胸が締め付けられるように息が詰まった。
「さあ、帰ろう。……そうだ、久しぶりに君が作ったオムライスが食べたいな」
それは私がこの世界に来てはじめて彼の為に作った料理だ。
太宰さんの家にはほぼ食材なんてなくて、できるのがそれぐらいしかなかったからだ。
それを彼は喜んで食べてくれた。ケチャップが足りなくて味気なく、具が蟹缶しか入っていないようなオムライスを。
それをきっかけに彼とあの家で過ごした日々が思い起こされ、涙が滲んでくる。
けれど ―――
「……いいえ、私は、もう大丈夫です。一人でも何とか出来ますから。
だから、もう私に構わなくていいんです」
彼は優しい。優しいから怖かった。私にはこの世界で何もないのに彼は無条件で私を信じて受け入れてくれた。
それが何よりも嬉しくて、何よりも怖かった。
「それは、……もう私には愛想が尽きてしまったということかい?
それならはっきり云ってほしい。私は不要になった、用済みだとね」
「そんな事……っ、」
あるはずもない。あり得るはずもない。
「………はじめて逢った時の事を覚えているかい?
君は今にも泣きだしそうで、消えてしまいそうで、最初はたしかに放っておけなかっただけなのかもしれない」
私を見つめる彼の瞳はもう目を逸らす事を許してはいない。
「だけど、……今ならはっきり云えるよ。私にはなまえちゃんが必要だ。
仮令、この世界で一人で生きていけるようになっても、……元の世界に帰れるようになっても、傍にいてほしい」
云われてしまった。ずっと目を逸らし続けていた。見ないフリをしていた。
彼はずっとそれを許していてくれたけれど、逃げ出した私に突きつけてくる。
「……、私は、私は元の世界に帰ります。まだ帰れないとしても一人でやっていけます。
太宰さんは必要ありません。用済みです」
どんなに大切に思ってもこの気持ちは元の世界に持ち帰ってはいけない。
一時的なものだ。帰れば忘れてしまう。
今、目の前で泣き出してしまいそうな貴方の顔だって、きっと忘れられるはずなのだ。
「そう、………それなら仕方ないね。これで、二度とお別れだ」
「……え?」
彼は橋の欄干に手をついて、その身を橋の下へと躍らせた。
迷う暇なんてなく、私は太宰さんに手を伸ばす。
□■□■□■
「君、……意外と向こう見ずだったんだね」
驚いたよ、と力なく太宰さんが呟く。
「いきなり、目の前で川に飛び込む方がどうかしてます」
「……どうして、上手く泳げもしないのに飛び込んだんだい?
放っておいても、私を振った君には関係なかっただろう」
意地が悪い。放っておける訳がないのを分かって云っている。
「…………、私の負けです。本当に太宰さんには敵いませんね」
どうせ川に飛び込んだせいでずぶ濡れだ。この涙だってわからない。
「太宰さんが好きです。
できるのなら、この世界でずっと一緒にいたい」
本当は、彼に見捨てられるのが、見放されるのが、怖かった。
だから、自分から先に手を放したのだ。
そうしなければ、自分だけではもう立っていけない気がして、彼がいなくては生きていくことさえ出来ない気がして逃げ出した。
けれど、惚れた方が負けだ。彼にはこの先、一生敵わない気がする。
太宰さんがうふふっと笑い、隠し事を打ち明けるようにそっと耳に囁く。
「私は逢った時から、ずっと君に負け続けているからね。一度くらいは意地でも勝ちたいさ」
結局二人でずぶ濡れの恰好のまま、手をつないで歩く。
「ねえ、君の世界では誓いの言葉は何というの?」
「誓いの言葉、ですか?」
「そう、出来れば永遠を誓えるものがいいなあ」
そう云われて思いついた言葉を伝える。
すると太宰さんはこちらとあまり変わらないんだね、と呟くと私の手をとり、跪いた。
真剣な表情にドキリッと心臓が跳ねる。
「健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、どんな時だって、世界が私達を分かつても、君を愛し、想い続けると誓うよ」
君は、と不安げにこちらに問いかける太宰さんに愛おしさが込みあげる。
時折迷子の子供のように不安気になる、この人の傍にいたい。
これからずっと迷子のままでも太宰さんとふたりなら怖くないと思えるから。
ふたりぼっちの迷子