「ねえ、覚えていますか?」
私の背を慰めるように撫でながら、彼が甘やかな声を響かせる。
「あの時、貴女はこうして僕の手を取って、ずっと傍にいてくれた」
震える私に、彼はそっと手を重ねた。さらに震えがひどくなってきた手に彼の指が絡まる。
「僕は一度たりとも忘れたことはないんですよ。貴方の、なまえさんの何もかもを」
その瞳がうつむく私をとらえようと、お互いの息遣いがわかる距離まで近づいてくる。そこでやっと自分の体勢に気が付いたが、すでに身動きが取れなくなっていた。もがいてもビクともしない。
「最初はこんなにも貴女に囚われている自分に嫌悪さえ覚えました」
ですが違ったんです、と優しさを滲ませて。撫でるような声に、ざわりと背筋が震えた。
「囚われているのではなく、ただ必要なのだと。だからもう二度と、貴女が僕のそばを離れるような事があってはいけない」
「……そんなっ」
反論しようとした口は許さないとでもいうようにふさがれる。そうして唇で唇をなぞるようにしたまま、彼が言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「貴女があまりにも愛しくて、そばにいないだけで……こんなにも僕をかき乱すから。こんな強引な手段に出てしまったんですよ?」
啄ばむように重ねられた唇だけが、燃えるように熱い。
血の気が引いた私の唇を温めるように。ゆっくりと。その感触すら愉しむように、ことさら丁寧に。猫が戯れに獲物をなぶるような嗜虐性を持って、私の呼吸を乱していく。
「本当なら貴女の理想通りの男を演じてさしあげるつもりだったのに」
息もたえだえになって、頭がくらくらしてくる。
ぼうっと見上げた視線の先に見えた彼の舌が、真っ赤に咲いた花のように煽情的な色香を漂わせていた。そうしてその美しく熱の籠った唇が、冷たい言葉で私の傷を抉り出す。
「僕以外の花嫁になんてなろうとするから。……まあ、徹底的にブチ壊してやりたいのもありましたが、ね」
―― 優しい、人だった。
今でもすぐに思い出せる。告白された時の真っ赤になった顔、いつも照れたように触れられる手、穏やかに相槌をうつ声。それなのに、
『この婚約はなかったことにしよう』
明確な拒絶と嫌悪。それを他ならぬ彼から向けられたことが信じられなくて。
走馬灯のように浮かぶ彼との愛しい思い出だけがじわじわと心を蝕む。もう一度会って話がしたいと思っても、きっと会うことすら叶わない。
目の前の怪物が、絶対に許さないから。
射竦めるような眼差しが、普段は感情が読めない彼の静かな怒りを伝える。
「……っどうして、」
私の口からやっと絞り落ちた言葉は情けないくらいに弱々しかった。
「今まで親しくなんてなかったのに、こんなことっ……」
「だって、貴女が僕のものになるのは決まっていましたから」
まるでそれが当然のように、客観的事実を口にしているような無機質さだった。
私が、見ないように目を逸らし続けた異常性。
「あの日から、ずっと。僕は貴女だけを必要としていましたよ」
「……あの、ひ?」
「もう、貴女も察しがついているでしょう?」
そんなの、分からない。分かる筈がない。
―― だって、
ただ、あの時そばにいただけだった。
震える彼の手を取って、プライドが高い彼の泣き顔を見ないようにして寄り添っただけ。
優しい言葉をかける事も、涙の理由を聞く事もしなかった。
なんとなく、自分と同じだと思ったから。
あの一瞬だけは、確かに、そう思った。
唐突だが、私には前世の記憶がある。
その記憶では、彼は架空の人物だった。アニメや小説の中の存在。といっても此処は原作の舞台、昭和の日本ではない。パロディやパラレル世界か、とは思っていても実際問題、自分にはあまり関心がなかった。
なのに、その時ほうっておけなかったのは、震える彼が自分に似ていた気がしたからだ。
前世の記憶が戻って、混乱した時の自分と。
前世の自分と、今の自分がごちゃ混ぜになるような、衝動にも似た怖れ。それに泣いていた自分と重なったから何も云わずにそばにいた。私も、その時に誰かにそうしてほしかったから。ただ手を繋ぐだけでいい。確かに自分は此処にいると誰かに知らしめてほしかった。
けれど、それは完全に私の自己満足だった。私がそうしてほしかっただけで、彼も同じとは限らないから。
現に、その後の彼と私は特別関わり合いになる事も、ましてや仲良くなる事もなかった。だからきっとあの出来事は、お節介というより迷惑だったのだろう、と軽く思っていた。
思って、いたのに。どうして今になって……。
「可能性の問題です。幼い頃から知っているというのはアドバンテージでもありますが、リスクも相応にありますから。親しくなるのが幼すぎると意識してもらえない。かと言って多感な思春期に付き合っても長続きする可能性は高くない。確実に結婚するには大学生くらいから付き合い始めようと思っていたんです。それ以上だと見知っているというアドバンテージも効きにくくなりますし。だからそれまでは貴女とはあまり親しくならず、けれど記憶に残るように学校ではそれなりに目立つようにしていました」
それなのに、まさか周囲の誰にも告げずに留学されるとは。しかも、帰ってきたと思ったらご丁寧に婚約者まで引き連れて。
いつになく饒舌に語られる言葉。
昔を思い返せば、返すほどに何かが這いずり上がってくるような感覚がする。頭の中で警報が鳴っているような、気づいてはいけない気がした
「あんなカタチで出し抜かれるなんて思いもしませんでしたよ。ましてやこの僕が。貴女は本能的に、ご自分の感情を鈍くしていたのでしょうね。
……そうでなければ、逃がさないよう手を回していましたから」
こんなふうに、ね。
耳元にふき込むような声にゾッと恐怖と震えが駆け抜ける。逃れようともがいても意味をなさなくて、さらに言い知れない焦りが生まれた。
その抵抗を、小さく嗤う気配がする。
「もう鬼事は終わりですよ」
間近にせまる、精巧な人形のように隙のない笑み。
感情を読み取らせないように何もかもを削ぎ落とした、その裏に潜むものを想像して身の毛がよだつ。決壊したように涙がボロボロとこぼれ落ちて止まらない。
「あの日みたいに、そばにいてください。
それ以外は何も望みません」
そう云いながらも、私の息まで奪い取るように再び唇を重ねてくる彼の瞳は、とてもとても愉しそうに歪んでいた。怖いくらいの執着を見せつけるように。あの日と同じ瞳で。
―― そうだ、私はずっと。
“ ありがとう ”
小さく聞こえた、あの日の言葉。それに、きっと嘘はなかった。
けれど、ちらりと覗きみてしまった彼の瞳。それにも、嘘はないと気づいてしまった。
―― あの底知れない瞳が、ただ私だけを映している様が、
だから無意識に、自覚だけはしないよう蓋をしていた。目を逸らし続けていた。
私がその感情を認識してしまったら、彼は絶対にそれを見逃さなかっただろうから。
―― 本当は恐ろしくて、堪らなかった。
「ようやく、捕まえた」
目隠しをしたって、その瞳はずっと私を追っていたのに。
目隠し鬼