ゆるやかな微睡みの中、鼻腔をくすぐる花の香りと唇に何か柔らかなものが触れた。ゆるゆると目を開けて、ぼんやりとした焦点を合わせると花の魔術師がフワリと微笑んでいる。
その形の良い唇がゆっくりとわたしのそれに降りてくる。
先程の感触もそれだろう。くすぐったさと満ち足りた気持ちで寝ぼけまなこでゆるりと口角をあげる。
彼もつられるように笑えば、ほら、それでもう充分。
意識がまた夢へと落ちていく中、彼がもう一度微笑む気配がした。
※※※
ぱちり。はっきりと目が醒めた。
夢もみないぐらいぐっすりと眠っていたらしい。寝起き特有の倦怠感が残るものの、すっきりとした頭ですぐに身を起こした。
「おはようございます、なまえさん。起きていらっしゃいますか?」
コンコンッとドアを叩く音と共にマシュの声が聞こえてきて、慌てて身支度をしてドアを開ける。
「フォウ、フォーーウゥ!」
開けた瞬間に勢いよく飛び込んできたフォウ君に押されて、2、3歩後退しながらもその小さな身体を懐で受け止めた。「ど、どうしたの?」と問いかけても、フォウ、フォウとしか鳴かないフォウ君に首を傾げているとマシュが通訳をする。
「“あの男の匂いがした。なまえ大丈夫か?”、と言っているようです。
なまえさん、どなたかと会っていらしたんですか?」
「今起きたばかりだから、会ったとしても昨日?
最後に誰といたかな。……たしかランタン集めで、ニトクリスさんとナーサリーちゃん、玉藻さんとレイシフトして戻ってすぐ寝たから、男性とは会ってないと思うけど」
すれ違うくらいはしたかなぁ、と首をひねると「あの、すみません。それより…」とマシュが遠慮がちに用件を伝える。どうやら藤丸君が体調を崩しているらしく、今日わたしにはレイシフトの予定はなかったが代わりに出てほしいという要請だった。二つ返事で了承すると、藤丸君の看病に向かうマシュと別れて管制室に向かう。
例外的な事故という形で此処に来たわたしだが、どうやらマスター適性があったらしく、藤丸君の休みと交代してレイシフトをしている。人理修復のような長期間レイシフトは出来ないが、素材や種火集め程度の時間は出来るので、わたしの仕事は主にそれだ。魔術のまの字も知らなかった自分が、異世界で人類を救う旅の手伝いをしているなんて今でも信じられない心持ちである。
※※※
「今度、なまえちゃん自身でサーヴァントを召喚してみてほしい」
パチパチ、と今日のレイシフトが終わった後にロマンから告げられた言葉に目を瞬かせる。
素材や種火集め以外ではレイシフトしないわたしは自分でサーヴァントを喚び出したことがない。いつも藤丸君が召喚したサーヴァントの代理マスターとしてレイシフトしている。わたしが喚ぶくらいなら人理修復に赴く藤丸君の戦力が多いに越したことはないからだ。
「最終決戦が近づいてきて、魔術王も何をしてくるか分からない。
もしもの時の為になまえちゃんにもしっかりとパスが繋がったサーヴァントがいた方がいい。君に何かあればすぐに察知できるからね」
「追って詳細はまた改めて伝えるよ」と云ったロマンと別れて管制室を出て、コツリ、コツリ、と白い壁の廊下を一人、歩いていた。
「………、しっかりとパスの繋がったサーヴァントか」
小さな呟きだったが、廊下に意外にも響いて聞こえるようで、慌てて口をふさぎながら辺りを見回す。
聞かれて困るような言葉ではないにしろ、聡い者なら声音から何かしら感じ取ってしまうかもしれない。シンッ、とした廊下にはわたし以外誰もいないようでほっと息をついた。
このカルデアへ、この異世界へ来たばかりの頃のわたしは内心荒れていた。
周りは理解できないものだらけ、非現実的なのに生々しいまでの惨状が突きつけられ、張り詰めた糸のようにわたしの精神はぎりぎりだった。
そして、おそらくその所為で毎夜悪夢に魘されていた。
それは誰も知らないわたしだけの秘密だ。
初対面に近い時分でそういったことを隠すのは容易かった。だって誰もわたしの“いつも”を知らない。
みんなと親しくなった今、あんな状態になったら隠し通せるとは思わないが、ある程度まで取り繕えるはずだ。
けれど、わたしのサーヴァントとしてしっかりパスが繋がる英霊にはそういったことも、すぐに分かってしまうかもしれない。
また悪夢に魘されるようになったら、一発でばれてしまう。
それだけが、嫌だった。
自分のどうしようもない弱さを、情けないところを、誰にも見せなくない。
人類を救う為、この世の最後の希望として前に進んでいる彼らに、わたし一個人の稚拙な悩みをさらしたくなかった。なけなしの、意地のようなもの。
周りには世界に名だたる英雄や優秀なスタッフ、そしてそれを精一杯率いる真っすぐなマスター。
卑小な自分が浮き彫りになるようで、できるだけ幻滅されないように、余所者のわたしが此処に置いてもらえるように、ずっと隠し続けていたのに。
ぐっと拳を握って前を向く。
大丈夫、今は悪夢をみていない。もう夢はみない。
此処が今のわたしの現実で、それ以外の何物でもないのだから。
嵐を喚ぶ花のまどろみ
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