「それなら私の妻になってもらえないかな?」
「………えっ?」
思わず涙が引っ込む申し出だった。
驚いて二の句を告げないわたしに、鴎外さんは満面の笑みを浮かべた。
「君は異世界から来て、帰り方も分からず行き場がなくて困っている。そうだろう?」
「え、ええ、……そう、ですけど」
それがどうしてプロポーズに繋がるのか、はなはだ可笑しい気がするのは私だけなのだろうか。
困惑するわたしとは対照的に鴎外さんは自信満々な様子だった。
「私もね、困っていたのだよ。何かと縁談が持ち込まれて少々面倒でね」
「えっと、それがどうして……」
「私と君が結婚すれば、君はこの世界での生活の保障を得る。そして私は面倒な縁談を切って捨てられる。互いに困っていることを助け合えると思うんだ」
困惑したままの私に、鴎外さんはゆっくりと目を細めた。
彼の真意を読み取ろうと見つめても、その穏やかな笑みは崩れない。
助け合える、と彼は云った。だが、それは本当だろうか。
ポートマフィアの首領である彼が、たかだか異世界から来ただけの自分と?
気づいたら、このヨコハマにいた私は呆然として彷徨っていた。
そして一方的に紙面上で知っている彼に声をかけられて、不安で動転していた私は、つい自分の事を彼に打ち明けてしまった。
漫画で貴方を読んで知っていました、なんて云っていないが、私はかなり怪しくないだろうか。
涙ながらに「異世界から来ました」なんて云う女は普通ならどう考えても不審人物である。
どうしよう。鴎外さんはもしかして私を薬か何かをした女だと思って、自分のシマを荒らした密売人を特定しようとしているのだろうか。
飛躍した思考がそこまで考えて、頭を振る。
いやだからって妻とか云わないだろう。
それに12歳以上は対象外だと公言する彼はれっきとしたロリコンだ。
そして私はもう成人している。見た目も合法ロリでは断じてない。
そろっと視線を鴎外さんに向けると、彼は何が楽しいのか私を見つめてニコニコとしている。
親しくない私が見ても分かるほどに、ご機嫌そうだ。
「あの鴎外さん、その……妻というのは、つまりは契約結婚的な、お飾りの妻みたいな感じですか?」
ドラマや恋愛小説で見るような、契約結婚。
鴎外さんが持ちかけてきたのは、内容的にもそれが一番しっくりくる。
私の言葉を聞いた鴎外さんは一瞬だけキョトンとした。
私が首を傾げれば、その表情はすぐに掻き消えて、また何を考えているのか分からない笑みを浮かべた。
そのまま机の上にあった呼び鈴に手を伸ばし、リリンと小さな音を立てる。
それを合図に運ばれてきたティーセットが、彼のすぐ脇に置かれた。給仕らしき人は一礼をするとすぐに立ち去る。
思えば、此処には彼とわたし、そして遠くのソファでお絵かきをしているエリスちゃんしかいない。
完全な人払いがされている部屋のようだ。
その事に今さらながら気がついて、どこか薄ら寒くなる。
「ミルクはいるかい?」
「……へっ!? あ、いらないです。そのままで」
いつの間にかミルクピッチャーを手にした鴎外さんが、私の珈琲にミルクを入れようとしていた。
彼に手ずからそんな事をさせるのは気が引けて、いらないと答えると、ちょっと困ったように鴎外さんは首を傾げた。
「そうかい? 悪いけど、これは普通より苦みが強い珈琲でね。せめて砂糖を入れた方がいい」
「そ、それならお砂糖をいくつか……」
勧められるまま答える私に、頷いた彼が緩慢な動作で今度はシュガーポットを手に取り、運ばれてきた珈琲の片方に手を伸ばす。
ちゃぷん、と角砂糖が珈琲に落ちる。くるくるとティースプーンが回ると、すぐに砂糖は消えてみえなくなった。
そして私の前にそれを置くと、鴎外さんは自分の珈琲には何もいれずに口をつけた。
「却説、話の続きをしようか。君の戸籍は私が用意しよう。妻になってくれるなら、身の安全も保障するし、どんな贅沢をしても構わない」
「あの……」
「外出は少々気を遣わねばならないから、あまり頻繁にとは云わないが駄目とは云わないよ」
「えっと……」
「勿論、契約は君が元の世界に帰れるまでだ。悪い話ではないだろう?」
「そ、そうですね…?」
むしろこちらのメリットが多すぎて、怖い。
畳みかけるように売り込んでくる鴎外さんは相変わらず笑顔だ。
彼は作中屈指の切れ者だ。何か……そう合理的な理由でもなければこんな事はしないだろう。何を企んでいるのか分からないのが余計に怖い。
「嫌かい?」
嫌です、とはっきり云うのは躊躇われた。
いきなり異世界でマフィアのボスの妻になるのは……普通なら遠慮したい案件だ。
濁したように笑って答えを引き延ばそうとするが、鴎外さんはそれを許さない。
ぐっと引き寄せられた手の薬指が、彼の親指で撫ぞられる。
まるで、そこにあるはずもない指輪を撫でるように、ゆっくりと。
「どうしても?」
── その一言が、背筋を這うように響いた。
恐ろしくて、反射的に首を振った。
それを見て、鴎外さんはすぐに柔らかな表情を見せる。
「私なりに大切にすると誓うよ。だから、妻になってくれないかい?」
まるで本気のプロポーズめいた言葉に、ゆっくりと頷いた。
何一つ脅されていないはずなのに、どうしてかそれ以外の選択ができなかった。
「ありがとう。君が頷いてくれて嬉しいよ。……すぐに準備をしよう」
先ほどまでの雰囲気が嘘のように破顔した鴎外さんは席を立ちあがり、どこかに連絡し始めた。
ほっとした私は、冷めはじめた珈琲にやっと口をつけようとした。
何も飲んでいなかったから喉がカラカラだ。
珈琲カップに手を伸ばすと、わたしよりも先に小さな手がそれをさらっていく。
視線をそちらに向ければ、いつの間にかエリスちゃんがわたしの隣に座っていた。
「ダメよ、なまえ」
作りものめいたピンクの唇が紡ぐのは子供らしく無邪気な色。
「この珈琲はとーってもマズイの。苦くて飲めたものじゃないわ」
「でも砂糖を……」
「お砂糖、入れたんでしょう? 見ていたわ、リンタロウが3つも入れていたわね」
ぱちりと目が合う。
フランス人形さながらの透明な瞳が、瞬くことなく私を捕らえた。
「3つ、なんて酷い話だわ」
「………?」
意味を図りかねて首をかしげる私にエリスちゃんがニコッと笑う。
それ以上は何も云わないまま、私の腰に抱きついて甘えるように顔を埋めた。
「……ずっとお部屋の中なんて楽しくないもの」
ちょうど声をかけてきた鴎外さんの声で、エリスちゃんの呟きを私は聞き取れなかった。