落とされるヒールの音がその世界に入り込む。
照りつける太陽は昼をとうに過ぎたというのにまだ高く、その暑さは音になって聞こえてきそうなほど。
うるさく鳴く蝉の声、揺れる木々の音色、季節を感じさせるか、滲む汗。
それがすべて、わたしにはないもののように感じた。

地質が変わり、ヒールは不協和音を奏でた。
粒子が潰れる音が嫌で、傍にあったベンチに腰かける。溜め息が漏れた。

定まらない視線は宙を舞う。わたしの頭の中は今朝からの出来事で埋め尽くされていた。思い返せば嫌な一日だった。

ちょっとした意見の食い違いから、好きではなかったがそれなりに貢献してきた会社からもう来なくていいとの通告。
まさか自分がそんな言葉を聞くことになるなんて、思ってもみなかった。けれど、ショックだったとか、怒りとか、そんなのない。ただ、そんな簡単に切られるなんて、残酷だなと思った。
離れて暮らす両親に言うべきか。携帯を取り出してみたけれど、心配をかけたくないという想いが勝ったのか手は動かなかった。……いや、実際のところは、どうなのかわからないが。
幸い貯金はしてある。しばらくは大丈夫だろうと携帯を仕舞おうとすれば、待ってくれと光る携帯。画面をみれば、彼からメールが来たという通知だった。すぐに嫌な予感がした。
大事な話がある。内容はもう、なんとなくわかってしまった。待ち合わせた場所にいた彼の顔が、その予感を確信に変えた。
いつか心変わりはするのが人間だとちゃんとわかってた。それでも変わらないと思ってると言ってくれた。きっとそのときは、彼もわたしもそれを信じていた。でも絶対なんてものはない。
その場で涙は出なかった。感謝と、別れの言葉。それを紡ぐのにどちらも精一杯だったんだと思う。
結局、この二人では幸せは掴めなかった。そういうこと、なのだろう。
すぐに忘れることはできないと思えるほどに、きっと好きだったんだと思う。

重なった出来事に、いや、自分に嫌気がさした。
半分諦めにも似た感情。思い出したら、いまさらになって涙が零れてきそうになった。
まるで遠くの絵を眺めているような感覚。目は笑顔で遊ぶ子供たちを捕らえ、不意に、あの頃に戻りたい、と思った。
社会のことなんてまだわからなくて、恋愛だってまだきっと未熟で、なにに対しても一生懸命で、好きなものを楽しめて。
通ってきた道なのに、よくも思い出せない自分は、自分にすら関心がないのかと今になって疑う。
なにかを楽しんだ記憶なんてない。淡々と生きてきたのか。つまらない人生、だな。
なくしたのか、もとから持ち合わせていなかったのか。
自分にないものを持っているのであろうあの子たちがとても光ってみえて仕方がない。

たった一日に起こってしまったこと、縛って放って見ようともしなかった自分の中の感情が、今になって一気に込み上げてきたらしい。
溜まっていた涙が頬を落ちた。世界が歪んだ。

「〜〜っ!!」

なぜか。突如として顔全体に走る痛み。
理解するのに数秒かかったが理解した。
歪んだ世界は涙のせいなんかじゃなく、帰路をずれて転がるあのサッカーボール。
わたしから離れていく様子から、どうにもやつがわたしの顔面に当たったようだ。
もちろんボールに恨みを持たれる覚えなんてなく、ならば誰かがコントロールをミスって当ててしまったのか。
その考えが出るのはもちろん自然で当たり前なことだけれど、わたしに届いたのはそれを否定するかのような笑い声。

主に拾われたボールを追った視線は、そこにいた3人に別れた。
背丈は高く、雰囲気も比較的落ち着いてとれた。いまの子供どもたちの年齢なんて見た目じゃわからないことがこれで証明されるんじゃないかというくらい大人びた少年たち。
これがよく似ていて、すぐに三つ子の兄弟なのだと理解できた。が、人の顔にボール当てといて無言はないでしょう。うち一人に至っては堪えてるんだろうけど笑っているのがよくわかる。

「…っいってぇなくそがき!」

普通当てたら謝る。その常識的なことが出来ないらしいその態度と、涼しい顔。ジンジンと浸透してくる痛みに腹がたって、いつぶりか。目の前の3人に勢いよく怒鳴った。
そうしたら、さっきから笑ってるやつはなぜか勢いよく吹き出し、同じ顔をした隣の子に話をふった。

「や、べっ、まじ腹痛ぇ…!なにそれ、ほんとひでー顔…っ。目のまわり真っ黒じゃん。竜持、お前、変に絡まれる前に謝っとけって」

「嫌ですよ。ぼーっとしてる彼女が悪いんですから。それに、ガキっていうあなたも立派なガキみたいですけど?」

「は、ぁ?!」

赤色は闘争心を煽るのだろうか。非常識な態度に付け加えて、睨むその瞳にわたしの中の温厚さはきっと、姿を消した。
許せないと思ってしまったわたしは大人げないのだろうか。いいや、ガキだと思うなら思ってもらって結構だ。許せないものは許せない。
なんて言われたって、なんだって、いい。

「あんたらね、ぇっ…!」

もう不協和音なんて気にしない。その勢いで一歩を踏み出したのに、なぜかガクンと落ちる視界。
手のひらは砂と擦れ、余った袖は白く汚れた。

(………え、なん、で、袖、余って──)

今回は理解するとかしないとか、そんなことを考える余裕さえくれなかった自分の思考回路。
躓いた足元に転がるパンプス、緩くなったスカート、隙間の空いたブラウス。映るなにもかもが、おかしくて。
理解できてないくせに跳ねる心臓、落ちる体温、震える指先、息をしているのかさえわからなくなって。
ベンチに置いてあるバックの中から慌てて鏡を取り出す。
世界に映ったのは、写真でしか見たことのなかった、けれど紛れもなく知っている、小さい頃の自分だった。

言葉は、出なかった。
一瞬、音もなにも聴こえなくなって、声の発し方も忘れたみたいだった。
目のまわりは落ちた化粧のせいか、黒くなり、写るころとは髪型も違ってしまっているが、疑う理由なんてなかった。触れた頬は、残酷にも温かかった。

「なあ、もう行こうぜ。こんな変なやつにかまってたくねーよ」

「…そうですね。虎太くん、行きましょう」

放心ってこういうことなのか。きっと人生初だろう。
座り込んで、どうすればいいのかわからなくなって、去っていくガキどもの声が頭の中で廻って、他はなにもなくて。
やっぱりいつものところで練習しようだとか、それを肯定して謝る返事だとか。心と身体が一致しない中で、正直なのは涙腺だけだ。わけがわからないのに、だからこそ、溜まって。
不意に掛かる何かに、見上げて沈む瞳は赤を捕らえて。

「…そんな格好じゃ、危ないから」

頬を流れて晴れた世界は、小さな優しさを映し出して。
大きなパーカーに身を包ませたわたしに最後の一人を見送らせた。





非現実に食べられた碧