はっきり言って、子どもに戻りたいなんて不意に出た言葉だった。
一度は誰でも思うでしょう?無邪気だったあの頃は良かったって。想いを馳せて、一度はそのこと考えるでしょう?それと一緒なの。
本気で戻りたいなんて、そんなの一瞬思ったとしても今の生活だってあるし、先のことを考えたらどうにも無理ってものでしょう?
それに子どもに戻りたいって、あの年頃に戻りたいんじゃなくて過去に戻ってやり直したいの方だから。年だけ戻ったってどうすればいいの。もう大人の事情だって社会のことだって、知っちゃってるのに。学校に行けるわけでもないし、なにも考えずに遊んで暮らせるわけでもない。
どうやったってなにも変わらないの。
どうしてこうなっちゃうわけ?わたしが戻りたいって思ったのが悪いの?そんなこと考える人は世の中にたくさんいるでしょう。どうしてわたしなの。
仕事もクビになって彼氏にもフラれてガキにも馬鹿にされて、挙げ句の果てにこれ?もうどうしたらいいのかわからない。夢であってと思ったのに。ねえ、こんなこと有り得ていいと思う?
「うーん。でももう有り得ちゃってるわけだもんねえ…」
「……。」
小さく、僅かに軋んだテーブルに頬杖をついてわたしを見下ろすミサキは、心配そうに困ったように、でもどこか余裕を感じさせる態度でわたしの話を最後まで聞くと、仕方ないというようにただ一言、そう言った。
ここは新東京FCの練習場の、とある一室。
昨日の一件、いや、二件も三件もあったことを話したいと忙しい中ミサキに時間を作ってもらって今に至るのだが、わたしはミサキの返答が気に食わなくて、黙って温度差に汗をかくペットボトルに手を伸ばす。
(もう少しこうさ、心配するようなこと言えないのか。)
「あのねぇ、最初は心配したさ。声も違うのに電話きて、話もそれこそあり得ないものでさ。で、実際会ってみたらちっこいガキが睨んでんだよ?すぐには飲み込めないってーの」
内心不満ばかりのわたしに気づいたのか、そっぽを向くわたしをミサキは弱く苦笑いしながら見た。
「…わたしまだ何にも言ってないけど」
「なに思ってるかぐらいわかるよ。確かめるために色々聞いたけど、見た感じの雰囲気でわかっちゃったっていうか」
「…そりゃどうも。大きなお世話」
「見た目だけ子どもになっても、抱えてきたものがなくなるわけじゃないもんね」
ふう、と小さく息をついたミサキから、わたしは向けていた目をそらした。
外との境にある窓に映った自分を眺め、大切なことだから、と訊いてくるミサキに言葉を返す。
「これからどうするの?食費とか平気?」
「貯金あるからまだなんとか」
「そう。でもできるだけ早くもとに戻る方法見つけないとだよね」
「………」
実際、戻る方法なんてあるのか。探して見つかるものなのか。
心配して、考えてくれているミサキには申し訳ないし、戻れるなら戻りたい。けれど希望を持てるものがなにもないから、探すといえども現実味がない。
真剣に考えることもなくただ右から左へ抜ける言葉とわたしの生返事に続いたのは、ミサキの、弱く、探る、ような声色。
「…なに。」
「…ん、いや、そのさ。」
「………」
「、仕事のこと、とか。両親には…」
「………」
「……言えない、よね。ごめん、ほんと」
僅かに寄った眉間のシワに、ミサキの声は申し訳なさそうに小さくなって部屋に消えた。
こだまするのは、外で練習する選手たちの声と蝉の音。
擦れたパイプ椅子と床が鳴った。
ずっと映していた青い空はいつも通り自分を見下ろすが、立ち上がったわたしの世界は、いつもと違って見上げるものばかり。でも不思議と、不安や恐ろしさは感じなかった。
「…ねえ、ミサキ」
「、……ん」
「ちょっとの間、迷惑かけるかもだけどわたしのこと頼んでいい?」
いつ戻るかもわからない。これからどうすればいいのかもわからない。そんな状況に陥った自分。
果たして何が最善策なのか。なにをすればいいのか。なにもわからない中にあるはずの自分の声は、驚くくらいにしっかりとしていて。
決心して最初に見たのは、青でもなんでも、なくて。丸くなったミサキの瞳。
「………どうなの?」
「…え、あ…も、もちろんだよ!あたしに任せて!」
黙ったままのミサキに増えたシワ。それにミサキはハッとして、そのまま勢いよく席から立ち上がると、力強く、しっかりと、わたしの瞳を捉えて、そう言ってくれた。
どうしてこうなったかなんてわからない。けれど、次はわたしがそれを受け入れて、飲む番、なのだろう。
ほどけた距離と心臓と世界と
(あんたが人を頼るなんて、そんなこと頼むなんて、初めてで。驚いたけど、嬉しかったんだ。)