まずは見て、聞いて、メモするところからだった。
勉強は嫌いじゃない。それが黒板ではなく目の前の動くものに変わっただけ。
斉藤コーチご教授のもと、新しいノートに新しい知識を記していく。
目の前で繰り広げられるミニゲームがそのまま板書であり、打ったり走ったり止めたり、自由自在に動くみなさん。
情報量が多過ぎて一気には刻み込めないが、一つ一つ丁寧に説明してくれるコーチのお陰で、きっとまだ理解できているのだろう。
小さな不安はなくならないが、少なくとも、バレーというものを初めてちゃんと知ることに、心なしか少しワクワクしている。
いろんな技があって、敵を掻い潜る術があって、感嘆とする。
でも、それをすべて捩じ伏せる力に、目を奪われる。
知らない世界の中心は、私の中で間違いなくあの人になっていた。

「あれがクロスね。真っ直ぐだと…」

「………」

「? なまえちゃん?」

「え?…あ、えっと!」

「少し疲れちゃったかな?」

「いえ!すみません!」

いけない。どうにも惚けていたらしい。
彼の、牛島さんのボールを打つ動きをそう説明するコーチに、慌てて謝る。
笑って、 大丈夫だよ。少し休憩する? と気を使ってくれるコーチだが、全力を尽くすと公言した。集中しなくちゃいけない。

「えっと…真っ直ぐだとストレート、と」

途中で止まったペンを再び走らせる。
書いたところで見たところで、理解しなければ仕方がないが、いかんせん天才ではないため、帰ったら復習しなくては細かいことは覚えられそうにない。

「はぁ…。たくさんあって難しいです」

「あはは、最初だからね。あとでルールブックもあげるから」

「! いいんですか?」

「もちろん」

溜め息なんてついてしまった私ににこりと笑うコーチは菩薩か何かか。
初日からTHE・理不尽を味わった私に正当をくれるこの人を、私は大切にしなくてはいけないと思った。もう溜め息はつかない。

「がんばります!」

これはしっかり覚えて、一日でも早くこのチームに酬いなければ!
そんな決意を込めてぺちっと頬を叩き渇を入れる私をコーチはもう一度笑う。
すると、ミニゲームの終わりの笛の音に続いて、離れたところの監督がコーチを呼んだ。

「ちょっと行ってくるからなまえちゃんも休憩してて」

「あっス!」

バレーノートを抱いてコーチを見送る。
この時間にも復習を、と思ったが、いつもしない俊敏な動きをした目を少し休めようと、近くの壁に座って寄りかかる。
すると、汗をきらりと光らせた覚さんがぴょんっと隣に座ってきた。

「どー?なまえちゃん」

「格好いいですね、覚さん」

「俺か!」

至って真面目に答えた私に、覚さんは笑う。
普段のときとバレーをしてるときとでは、やっぱり雰囲気が違う。
光る汗もそうだが、真剣さはさらに人を魅了するんだなと思った。
いやまぁ、覚さんはそのままでも魅了してきますけどね。

実際聞きたかったであろうバレーの方は、近日中には…と、心なしか漏れた小さな不安を消すように、もう一度ぺちっと両頬を叩く。
それを見た覚さんは、 なまえちゃんならだいじょーぶ。 と優しく頭を撫でてくれた。
張った心が少しほどけた気がすると同時に、両手で隠した頬が熱くなった。

なんだか感じたことない高揚感で満たされている。
それはバレーを知ることに対してなのはもちろんで、でも、その世界の中心が主な原因かと。

この知り得ないドキドキを紛らわすため小さく息をつき辺りを見渡せば、随分大勢の人がいるのだと再認識した。
試合に出れるのはこの中のほんの少しの厳しい世界。
強豪校と言われているのだから、きっと全員が強くて並々ならぬ努力をしていて、でもその中で、試合に出ている人たちはもっと強いのだろう。
他を見たことはないけれど、他から王者と呼ばれるほどに。

この大勢の中から自然とまた瞳が捉えたのは、他の誰よりも強く、みなの信頼を得ているのを感じる彼。
核であり、特別な人なのだと、理解ではなく感じる。

(牛島さん……かぁ)

結果、紛らわすことのできなかった心臓が、また高鳴ってきて、苦しい。
でも惹き付けられた、最初のときとは違う。
胸が苦しくなる。そんな、初めての感覚。

(なんだろ…おかしいのかな)

えもいわれぬ自分に膝を抱えて顔をうずめた。
出会ったことのない感情に支離滅裂、唸っていたら、隣にいた覚さんが、 あ、若利くん。 と口に出した。
その言葉にバッと反射的に顔をあげれば、飲み物を取りに来た“若利くん”を覚さんがこちらへと呼んだ。

「なまえちゃん、若利くんね」

「えっ!?あっ、」

「ってさっき斉藤くんに紹介されてたけど」

主将でもあるから、と大きく跳ね上がらせた私の肩にトン、と手を置く覚さん。
さっきと比べ物にならないくらい心臓が脈打ってて、壊れそう。
なにも言葉がでなくて、でも、牛島さんの覚さんにあった視線が私の肩から目に、移動して、て、うわ、目の色きれい。
じゃない!言うことあるでしょ!

「あのっ、は、はははじめまして!みょうじなまえといいます!」

わけわからなくなってる場合じゃない。
主将ならまずすぐにこちらから挨拶しなければいけなかったじゃないか!と、紹介のときにエースとかではなく主将だと紹介してほしかったですとコーチに泣きを飛ばしつつ、立ち上がり、見下ろす牛島さんに背筋を正す。
牛島さんはじっと、でもほんの1、2秒だったけど私を見据えると、薄い唇を開いた。

「ああ。紹介を聞いた」

「はい!あの、まだ、その、未熟者ですが、精一杯頑張りますので…!」

微妙な間はなんだったのかわからないが、 お願いします! とシュバッと効果音の付きそうなお辞儀をすれば、頭上からは よろしく頼む と、声が落ちてきた。

「もう、なまえちゃんも若利くんも固いなぁ〜。ねぇ、獅音」

「!」

「まぁ若利が固いのはいつものことだけどな」

必死の自己紹介(名前だけだけど)にちょっとの駄目出しを受けたが、その言葉は現れた新しい人に向けられていて、

「あ、えっと、たしか大平さ」

「獅音だよなまえちゃん!」

この人は確か、スタメンの、3年生の中の一人だったはず…と記憶を振り絞れば覚さんに遮られた。嵐が去っても突風は性なのか。

「いやでも、あの、先輩なので…」

「俺のことは名前で呼ぶじゃんっ」

「そ!それは覚さんが…っ」

「いいよ。せっかくなら俺も名前で呼ばせて」

「! 図々しく、ないでしょうか……」

「うん」

「せっかくのマネちゃんなんだから仲良くしよっ」

はい決まり〜。 と、いつぞやのときのように勝手に決定を下し私と獅音さんを握手させる覚さんだが、なぜこんな恐れ多いことを平然とやってのけるのか。たぶん私の一年としての気持ちを分かっていただけてない気がするからだ。

「てことで、はい!若利くんとなまえちゃんも下の名前で呼びあってね!」

「!?」

「別に構わないが」

てことで、なんて、さらっとその流れで主将牛島さんまでこの渦に巻き込もうとしている覚さん。
いやいやいや!なにを言っている。相手は主将だ。牛島さんが構わなくともそんなの私が構う。

「牛島さんはよくないと思います!」

「なんでぇ〜?主将こそ、コミュニケーションってのが大事なんだよ」

「主将にこんな一年が生意気じゃないですか!」

確かに仲の良い子や、仲良くなるには名前で呼ぶのは効果的だと思う。けど、それは先輩に向けて急に発動していいものではないと思う。
コミュニケーション=馴れ馴れしい○ではない。
しかも主将で、偉くて強い立場の方。だめじゃないのどう見ても。こんな下っ端が。

「若利くんだって、なまえちゃんに名前で呼ばれたいよねー?」

「!?」

「?……あぁ、そうだな」

「えっ!?」

頑なな私をスルーして(ひどい)、牛島さんへ話を向ける覚さん。
一瞬また間があったが、牛島さんの答えは予想を反していて、覚さんに向いていた体がぐりんと牛島さんへ向くほどに。

「だっ……よ、良くないですよ牛島さん!」

「なぜだ?」

「私はまだ下っ端です!」

「チームメイトには変わりないだろう?」

「!」

「それに、名前の方がいい」

嬉しい言葉を言われたと思った。
でもそのあとの言葉に持ってかれた。
名前の方がいい。まだ牛島さんのことよく知らないけど、そんなふうに言われるとは思ってなかった。
でもそう言われて、仲良くしてもらえることとは別の“嬉しさ”が出ている自分を見つけてしまった。なんだ、これ。あれ、

「なまえちゃーん?」

こちらを見てくる牛島さんと目があったまま逸らせないでいると、ひらひらと目の前にしなやかな手が現れる。
自分で自分を理解できていない頭でそれを追っていけば、覚さんで、あぁ、どうしよ。顔あつ、い。

「わ、顔真っ赤!」

「ぅ、あぅ…」

「そんなに照れなくても。若利くんご所望なんだから」

ね? と、わしゃっと頭を撫でると、覚さんは満足げに笑う。
再び見た牛島さんは、真っ赤になった私の顔を相変わらず見下ろしていて、こんな顔見られたら恥ずかしいのに、ぱちりと目が合ってしまう。
あ、また牛島さん目丸くしてる。そんなことだけは冷静に判断する私に、牛島さんはそっと手を伸ばした。

「はいみんな!休憩おしまい」

パン!と手を叩く音とコーチの声で雰囲気が一変。
いっぱいいっぱいの私を含め、皆の注目はそちらへ向いた。
ぞろぞろとコートへ戻る皆さんと、ぴたりと手を止めた牛島さんと、不思議そうに状況を見ていた覚さんと獅音さん。
牛島さんは向こうを見やると、こちらへ少しだけ視線を戻し、伸ばした手を下げてコートへと戻っていった。






色に出ず
(若利くん、撫でようとしてた?)
(…あの顔を見たら、なぜか手が伸びていた)
(気持ちはわかるよ)