山から少しばかり下った小さな町。
土方さんたちと別れて数日が経った今日、アシリパさんたちは変わらず食料調達の狩りに出てて、私は少なくなってきた必需品の調達といったところだった。
なにかとバタバタしていたというか、危ないからと単独行動は控えていたから一人になるのは本当に久しぶりで、地質の変わる道すがら大きく深呼吸をした。
行き交う人々が舞いあげる細かな土と、家の中からする油と人の匂い。
山の中と違って空気の質が違うなぁなんて呑気に思ってみたりして、目当ての店をのらりくらりと探す。
早く帰ってくるんだぞとアシリパさんに言われたし、寄り道はせずに早く戻ろう。
よいしょ、と袋を持ち直して、人が進む方とは逆に向かう。
ぽつりぽつりと店も減っていき、道も悪くなる。草木がそのままになってきたら、そろそろ目の前の山の入り口。
みんなは何が採れたのかな、なんて当てもない緑の表面を眺めていたら、耳に届いたのは、向かう足を自然と止める、珍しい声。
「…ねこちゃん」
呼び止められた方を抱えた袋の隙間から見下げれば、ふわふわとした毛玉が、傍の茂みからちょんと顔を覗かせ深みのある瞳と視線が交わる。
「どうしたのかな?」
屈み込んで、出来るだけ目線を近くにする。
警戒しながらも、じいっと見つめる猫に、あれ、なんか既視感。
どこかで見た、何かで見た。…ううん、誰かに、似てる。
「……あっ」
上げた声にびくっと反応して、猫ちゃんは一歩下がった。
既視感の正体へは案外すぐに辿り着いて。
どこかでなんてものじゃなく、すぐ傍で、いつも見ている人のこと。
艶のある茶の入った黒色の毛とか、少しジト目気味なところとか。
あのさらさらな髪のような、額の模様とか。
一致してしまえば、もう可笑しなくらいそうにしか見えなくて。
会ったばかりなのに愛しいなぁなんて感じるのは、この子にか、それとも、か。
すっと差し出した手に、ぴくりと反応を示す猫ちゃんに、 大丈夫だよー。 なんて、いつもより高めの声が出てちょっとびっくりした。
もしかして、あの人と話すとき、気付いてないだけで声のトーン変わってたりするのかな。
いつもいっぱいいっぱいになって、あんまりその時の自分を覚えてないのだけれど。
振り返る過去の中、バレる失態だけは犯してないように…とごちゃつく考えを切って、目の前に差し出された手の匂いをすんすんと嗅ぐ猫ちゃんをぼうっと見つめる。
人慣れは程々にしてるみたいだけど、野良だろう。
傍にあるのに手にすり寄ることもなく、二歩引いたその姿を見て、やっぱりあの人に似ているなぁ、なんて思って、
「…おいで、百之助」
こっそり。本人の前では呼んだことない名前を言ってみたり。
いつか呼べたらいいな、なんて思っているけど、そんな特別な関係でもなんでもないわけで、私のただの、一方的な想いなだけで。
勝手に熱くなった体から小さく熱を吐き出せば、自分で忙しかったのがバレたのか、猫は興味なさそうにふいっとそっぽを向いて、足早にその場を走り去っていった。
(そうだよねぇ…)
相手は猫だけど、やっぱり私なんか無理だよねぇと一人にさせられた場で感傷に浸っていたら、急に、後ろから砂利を踏む音が聞こえた。
「……ひぇっ」
変な声が口の端から漏れる。
そりゃそうだと思う。今まで勝手に猫に重ねた人が、急に目の前にいるのだから。
なぜいるのですかとか、あれもしかして見られてた?聞かれてた?なんて、ぶわっと全身の毛穴から冷や汗が出たんじゃないかと思うくらい、一瞬で熱を帯びた体が冷めて、…いやこれきっと顔ひきつってる。
「あの、尾形さん…その、いつから」
どうする。
道草食っていたことなんてバレてもいい。大したことじゃない。
ただ、さっきの、猫に話しかけてたことだけは、一番バレちゃいけない人だ。
無言でずりずりと距離を詰めてくる尾形さんに、私も立ち上がるくらいは流石に反射としてしてしまう。
「おが、たさん…?」
ついにゼロ距離。
見下ろす影が私に落ちて、深いその瞳は私になにも読ませてくれない。あぁ無情。目の前がぐるぐるす、る…。
「なまえ、」
「は、はひ!」
「やつら待ってるぞ」
まともに言葉もでなくなったのか?と自分を殴りたくなった。
こんなのテンパっていると誰にだってわかる。
けれど尾形さんは特に変わった様子もなく、表情もいつも通りで、向こうの狩りも終わったし迎えにきたということだけを伝えてくれた。
(もし…かして、バレてない…?)
奇跡的にただ猫と触れあっていただけ(実際触れられなかったけど)を、見られたのか?
すっと離れた尾形さんは山へと視線を移したので、心の中で胸を撫で下ろす。
これは、半分の安堵と、半分の意気地無しさ。
でも、気づかれても恥ずかし死するところだったからこれで良かったんだと、尾形さんにお礼を言って、顔も素直に見れないしパタパタと足早に何歩か先を歩く。
バレてなかったとはいえ、なにか話しかけて丸々逸らして誤魔化してをした方が良いだろうか、なんて、落ち着きたい勢いで空を仰ぎながら、当たり障りのない言葉をかける。
「…?」
けれどそれに声が返ってくることはなく、傍に来ている感覚すらなくて。
不思議に思って振り返れば、なぜか尾形さんは先程のところから動いていない。
「尾形さん…?」
じいっとこちらを見つめたままの彼に、なにかあったのかと急ぎ数歩戻れば、無の表情は一変、口元をくんとあげて
「おいで、は?」
と言った。
嫌でもそれで、すべてを理解するでしょ。
全部最初から見られていて、隠してきたもの全部溢れ出ちゃって、こんなの、隠し通せるわけなくて。
さっき吐いた息なんて比べ物にならないくらい全身が煮えるように熱い。
言えるわけがない、の、分かってて笑ってる。
「ほら、百之助って、呼んでみ?」
名前すら、聞いただけで胸が鳴るのに、口にするのだって、覚悟がいる程のものなのに。
ぽぽぽと茹で蛸みたいに顔が真っ赤になってるの、自分でも分かる。
見られたくなくて手で顔を覆う隙間、ちらりと見えた、その表情が。
もう愉快そうで仕方ない。
「なまえー?」
あぁ、ずるい。この人は。ずるいよ。
「おい、で…ひゃくのすけ」
…さん。 って。最後ゆるしてください。
呼んでしまったという恥ずかしさと、呼べた幸福感がぐちゃぐちゃと私の中を満たす。
今までのこととか杞憂でしかない。今日こそこんなの丸分かりだろう。
もう一度見たその顔は、至極ご満悦そうに見えて、細める目も、落ちた髪をあげる動作も、もう私には耐えられるもんじゃなくて。
(…ああもう、)
きみの恋心のしつけ方
(笑うその声に連れられるように隣を歩いた。)